ただの普通の大学生がラジオパーソナリティになるまでの話
先日、僕がパーソナリティをやっていた番組が最終回を迎えた。
ただの大学生がラジオに4年ほど携わらせてもらっていた。これは快挙だ。そんな快挙を達成することになるきっかけは、4年前の春までさかのぼる。
当時の僕は、期待と不安を胸に大学の入学式を迎えていた。
どちらかというと、不安の分量が多かったような気もする。
それには過去の自分の状況が深く関わっている。
たまたまテストの点数が良いだけで神童ともてはやされた小学生時代。
私立の学校に進学し、生意気にも難関大学に行くと公言していた人生のピークの中学時代。
そこからの、挫折と絶望の高校時代。
体調も崩してしまい、なんだかよくわかんなくなっていた、がそんな時にそばにあったのがラジオだった。
で、何とか大学入学までこぎつけた当時の私である。
まだ絶望感を引きずったままながらも、大学で人生逆転させてやる的な発想もあり、何かしらはやりたいなあなんて思っていた。
そんな時に新歓やサークルのチラシの山。
音楽好きだし、軽音楽部とかなら大学デビューできそうだなあなんて考えながら、チラシをめくっていると、演劇部という文字が。
演劇…劇団四季とか?と思って他のチラシに目を向けようとした時に、「ラジオもやってます」の文字が。
ん?
ラジオねえ…
ん?
ってかラジオできんの?
これが演劇部に入部する、そしてラジオに携わるきっかけだった。
演劇部を見学してみると、メイン活動はもちろん演劇のようで先輩方がエチュード(即興劇)を演じていた。やっぱり場違いかなあなんて思っていると、「ラジオ志望なんだっけ?この後スタジオ来れる?」の声。
スタジオへと向かうと、そこは地元のコミュニティFM局。ネットラジオとかじゃないんだ、ガチのラジオじゃん!とワクワクした当時の気持ちを今でも覚えている。
どうやら地元の大学生の放送枠があるらしく、週替わりで放送する中、僕の大学の枠を担当していたのが演劇部だったようだ。
それからは、3週間に1回あるラジオで少しお喋りしてみたり、機械をいじってみたり(ミキサー)しながら、演劇部でも裏方として活動していた。
転機になったのは、コロナ禍。
自分たちのサークルに新入生を受け入れるという、ただでさえ大変なことが、コロナ禍でさらに厳しくなってしまった。さらに、ラジオ局の移動や放送日の移動につき、都合の合わないメンバーが増えた。
これじゃあ番組の存続が危ぶまれる…なんて思っていると、同じ枠で週替わりで放送していた他大学と合同で放送ね、放送頻度は隔週に変更ねとあれよあれよとコトは進んでいき、いつの間にか他大学の学生を従え進行担当になっていた。
1時間番組のメインパーソナリティである。
急に増えた責任に気付きながらも背を向け、噛み噛みマンである僕はマイクの前で必死に喋った。
そんな僕を尻目に月日は流れていく。
そして訪れた改編期。
なんとなく終わりかな…と思っていると
収録⇒生放送
隔週⇒毎週
平日夜8時⇒土曜朝11時
つまり土曜の朝の顔。
なんでやねん。なんか栄転してるし。
しかも、この頃にはラジオや演劇の台本も担当してたので、
メインパーソナリティ兼放送作家。
最初は相槌だけの出演や、裏方だけでも満足していた僕が、気づいたら土曜の朝に生で回して、リスナーのメールを捌いていた。
いつの間にか当たり前のことのように感じていたけど、今考えるととても貴重なことをしていたんだなあ。
就活では特にそう感じることが多かった。ラジオの人だよねーと覚えてもらえたり、必ず質問されてアピールに使うことができたりした。
無事就職先が決まり、卒論に追われるようになった昨年の暮れ、そんな楽しかったラジオ活動もメンバーの大半が卒業を目前にしているということで、残念ながら終わりを迎えることになった。
最終回は、局の方の粋な計らいで2時間の生放送。奇しくも憧れてやまなかったオールナイトニッポンの放送時間と同じ。何か僕の夢が完全に叶った気がした。僕の未練がましいものも無くなった気がした。高校時代の暗い顔した僕にさよならできた気がした。
そんなえもいわれぬ気持ちになっていた僕は、最後にユニコーンのすばらしい日々をかけた。
意外と泣かないもんだな、なんて呟きながら改めて僕は思った。
すばらしい日々だったんだ、この大学4年間は。
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