08/シェムリアップでの忘れられない人生最高の夏休み
今回はビザのためにタイを出国するのが目的だったので、一週間程度の荷物しか持って来ていなかったし、学校もそのままになっていたので、そろそろバンコクへ戻ることを考え始めていた矢先、9月いっぱいでオーキーデーを閉めることになったと聞きました。
ここは賃貸で、パパさんが持っている建物ではないとのこと。
経営が上手くいかず、大変なので辞めることにしたそうです。
それまでは、バンコクに住んでいればまたいつでも来れると思っていたのですが、ここがなくなると思うと寂しくなります。
ここの皆んなが大好きでした。
誰一人が欠けていても違っていたのでしょう。
それぞれのキャラクターがあり、当たり前だけれど皆んな性格が違って個性があり、本当に面白かったし、居心地がよかった。
特に何をするでもなく、冗談言ったり、皆んなで仲よくご飯を分け合ったり、英語や日本語の勉強をしたり、たまには飲んで酔っ払ったり、そんなただの毎日の生活がとても楽しかったのです。
子供の頃の夏休みに、田舎の親戚の家や、お婆ちゃんの家に行って従兄弟や近所の子供たちと一緒に遊んでいるような、そんな懐かしい感覚でもありました。
そして、田舎から帰って来る時になると、夏休みが終わるのと相まってなんだか物悲しくなるようなそんな感じでした。
それならば、ここでの何気ない生活を、普段の皆んなの様子を、写真に収めようと思ったのです。
一度バンコクに帰って、もう少し荷物を揃えてから戻って来ることにしました。
シェムリアップではフィルムも手に入らなかったし、普通の生活必需品でさえも手に入らない物が多かったからです。
そして、ゲストハウスが閉まるまでの間ここにいることに決めたのでした。
あかねもそうすると言うので、一旦一緒にバンコクに戻ることに。
カンボジアに行ったきりなかなか帰って来なかったので、松本さんも何かあったのではないかと、日本領事館に問い合わせようかと思っていたところだったと、後から聞きました。
まさか連絡も取れないような状態になるとは思っていなかったので、状況を説明して、今度は時々メールで報告することを約束したのでした。
それから一週間ほどで必要なものを準備して学校にも休むことを連絡し、再びシェムリアップに向かいます。
たまたま私の家の近くにカンボジア大使館があったので、今度は先に大使館でビザも取得しました。
相変わらず国境は暑かったし、物乞いは多いし、色んな人がなんだかんだと言って来るけれど、前回とは違って少しは免疫ができていたのでなんとかやり過ごし無事にシェムリアップにたどり着きました。
こうして、生涯忘れることのできない最高の夏休みが始まったのでした。
今回は期間が長くなるので、ツインではなくてそれぞれシングルの部屋に泊まることにしました。
それまでと変わらず、日本人のお客さんが来た時には通訳をし、スタッフたちに日本語を教えたりしながら毎日が過ぎていきます。
アンコール遺跡の敷地内にあるお店にご飯を食べに行くために、地元の人だけが通る道を通って中に入れてもらったり、夕方になって少し涼しくなった頃アンコール・ワットまでドライブに行ったり。
旅行者では決してできないような体験の数々をさせてもらいました。
ある時飲みに行こうというので、こんな所にあるの?というような店というのか家というのか、そこで出てきた甘辛く味付けしたお肉と、お米から作ったお酒を初めて食すことがあった時のことです。
お酒はかなり強いけれども味はまあまあで、皆んなで一頻り楽しんだ後になって、実は犬だったと知らされたことも。
それ以来、それだけは二度と口にしませんでした。
現地の人たちにとっては貴重な食料なのかもしれませんが、私にとっては命をいただくということを今まで以上に身近に感じるショッキングな出来事となりました。
その他にも亀を食べたり、蛇を食べたり。
亀は豚足のような感じで、茹でてぶつ切りになっているものを酢の効いたたれにつけて食べます。
蛇はそのままカリカリに揚げてあるので、とぐろを巻いた状態で売っていたりします。
それを手で割りながら食べるのですが、骨があるのでバリバリしたスナックのような食感です。
たがめやコオロギは貴重な蛋白源でもあり、ニンニクが効いたえびのす揚げのような感じです。
ある時は、鶏肉の周りが真っ黒なもので覆われた、ちょっと酸っぱい味のするものを食べたり。
食べてからわかったのは、その周りを覆っていたのは大量の蟻でした。
ちょっとプチプチした食感で酸味が効いていました。
ゲテモノを食べる趣味はなかったけれど、一応なんでも試してみることにしていました。
なんでも自分で食べてみてから、何でも自分でやってみてから、どこでも自分で行ってみてからでないと本当のことはわからないからです。
これは、今でも変わっていない私のモットーかもしれません。
ある夜、皆んなにお休みを言って私たちが寝てからのことです。
なんだかいつもの夜よりも、人の気配や、うっすら声が聞こえるので何かと思って外へ出てみると、外のレストランに備え付けてあるテレビで男子専用上映会をしていたのでした。
普通の映画上映会のような感じで、皆んなで真剣に観ていました。
そっかそっか、そういうこともあるよねと、そおーっと部屋に戻ることに。
確かに個室があるわけでもないし、ある意味健全というのか、なんというのか。
一応カラオケもありました。
ゲストハウスの前に、日用品を売っている小さな雑貨屋さんがあって、奥にテレビが置いてあります。
そこにDVDが設置してあったのか、夕方以降の自家発電で電気がある間だけカラオケができるようになっていました。
凄い狭い空間でテレビに向かって真剣に歌うのです。
日本だと、どちらかというとゲームをしている時の様子に近いかもしれません。
「カラオケに行こう!」と言うので、ついて行ったらそのような状態でした。
またある時、ちょっとしたスーパーのようなお店ができました。
タイから輸入したお菓子とか、日用品とかが置いてあります。
シェムリアップでも相当のお金持ちか、外国人しか行かないであろう品揃えです。
そこで、15ドルで売っていた大きなプールを見つけたので、それを買って帰ってゲストハウスで遊んだことがありました。
皆んな大興奮でした。
今までプールなんて入ったこともないのですから。
それまでプールを見たことのなかった近所の子供たちも集まって来て、私たちが入っているのを囲むようにして見ていたので、換わってあげると大喜びしながら楽しんでいました。
取り囲んでいる子供たちの中には、見たこともない物なので怖くて遠巻きに見ているだけの子や、一人では躊躇していたけれど他の子が入ったのを見届けてから勇気を出して入る子がいたり、おっかなびっくり浸かっているだけの子がいたりと、初めての物を見たり体験したりする時の様子や反応もそれぞれに個性があって、それを見ていた私にとっても楽しい体験になりました。
また、オーキデーに泊まった日本人のお客さんと友達になることもありました。
学生だった、まどかと、泰造です。
泰造は一之瀬泰造さんから取ったあだ名で、オーキデーの皆んながそう呼び出したのでいつの間にか泰造になりました。
最近は知る人も少なくなってしまったかもしれませんが、一之瀬泰造さんとは、浅野忠信さん主演の『地雷を踏んだらサヨウナラ』という映画が公開されたこともある、戦場カメラマンとしてカンボジアの地に入り、クメール・ルージュによって処刑された日本人ジャーナリストです。
この頃カンボジアを訪れる日本人には、とても有名でした。
これは、ある時のまどかと泰造の会話です。
まどかは名古屋出身、泰造は水戸出身です。
そして、私がたまたま東京出身だったので、東京と名古屋と水戸とバンコクとシェムリアップ、都会順に並べよう的なことを話していました。
まどかも泰造も、東京が一番なのは一致したようです。
その次が、なぜかバンコクで落ち着いたようでした。
そして、名古屋、水戸、シェムリアップの順になったようで、バンコクが2位になったことになんだか笑ってしまったのを思い出します。
カンボジア人の彼らにとっては日常の何気ない生活が、日本にいた私からすると楽しくもあり、驚くようなこともあり、新しい発見もあり、すべてが輝いている特別な夏休みでした。
雨が降ると、一斉にバイクを洗い出したり、シャンプーを自分にかけて自分を洗い出したり。
日本のような雨ではなくてスコールなので、確かに水の勢いがあるから洗車したり、洗髪することも可能といえば可能です。
しかも、ものすごい勢いで降ったかと思うとすぐに止んで、その後陽が照ってくるのでそのうちに乾きます。
確かに理にかなっているというのか、便利というのか。
そんな私にとっての最高の夏休みを過ごして9月も中頃に差しかかり、そろそろバンコクに戻らなくてはなりません。
段々と月末に近づくにつれて、寂しさが増してきます。
日本とは違って、この頃の彼らは誰も携帯なんて持っていませんでした。
一旦散り散りになったら、どうやって連絡を取っていいのかもわからないのです。
一応フリーメールのアドレスを持っている人もいたけれど、メールチェックだって3、4ヶ月に一度程度するのがやっとです。
そう思うと、このオーキデーでの何気ない日々がさらに貴重に思えてくるのです。
今やオーキデーのパパさんは、私にとってのカンボジアのお父さんでした。
皆んなに会えなくなることもそうだけど、パパさんに会えなくなることやオーキデーがなくなることもまた淋しさを募らせる原因でもありました。
そうはいっても日にちは迫ってきます。
ある日、パンナのバイクの後ろに乗ってアンコール・ワットにドライブに行きました。
アンコール・ワット遺跡群が壮大に思えるのは、遺跡そのものもそうですが、それを取り巻く環境がまたさらに遺跡を引き立てる要因になっているのではないでしょうか。
町から遺跡に向かっていくと徐々に景色が変わっていきます。
それを肌で感じられるのです。
今は道路が舗装され整備された道だけれど、遺跡に近づいていくにつれ建物が減っていき、木々が生い茂り始め、空気も冷たくなってくると、その遥か昔にここがジャングルであっただろうと想像を掻き立てられるからです。
ワクワクしてくるのです。
アンコール・ワットは、遺跡の周りがお堀に囲まれています。
その姿がまた壮大なのです。
そして、どこまでも続くんじゃないかと思えるほど真っ直ぐな道をアンコール・ワットに向かって走り抜けると、お堀が見えてきます。
この最後のコーナーを曲がった瞬間、そこに悠久の時を得てもなお存在感を解き放つアンコール・ワットの荘厳な姿が現れてきます。
心が揺さぶられるこの瞬間こそが、アンコール遺跡群の中で私が一番好きな場所であり、一番好きな空間です。
その角を曲がって、アンコール・ワットを右手に見ながらお堀り沿いを走っていくと、遺跡中央の参道の入口にたどり着きます。
皆さんが写真や映像などで見たことのある、五つの塔がそびえ立つあの光景です。
この日はいつも以上に感嘆深いものがありました。
これが、最後になるであろうから。
私は遺跡の中よりも、このお堀の周りを走るのがとても好きでした。
この日も、正面からのアンコール・ワットを見納め、そしてお堀を廻ってシェムリアップの町に戻るその途中の出来事です。
はっきりとした位置は覚えていないのですが、すでに姿は見えないけれど、徐々にアンコール・ワットが小さくなっていくのを背中に感じながら走っている時でした。
気持ちの良い風が包んでくれているかのようで、とても幸せな気分になりました。
風と一体となって飛んで行きそうな気分でした。
そして、今この瞬間が、人生の最後だったとしても何も後悔しないと思ったのです。
あえて言葉に表すとしたならば、こんな感じだったでしょうか。
生き急いだことはないけれど、もしこの瞬間が人生の最後だったのならば、幸せを身体一杯に感じたまま何もやり残したことがないと、私の人生は幸せだったと思えるほどでした。
ほんの一瞬の出来事です。
それ以来、同じ経験をしたことはありません。
後にも先にも、そう感じたのはこの時一度きりでした。
※情報に於いては年月の経過により変わりますので、どこかへ行かれます際には、現時点での詳細をお調べいただきますようお願いいたします。