14/ふたたびの世界遺産アンコール・ワットへの道
帰国してからも、YingとKittiの結婚式なども含め、何度かタイに行くことがありました。
帰ってきたばかりの頃は、またタイに戻ろうと思っていましたが、いつの頃かそんな気持ちも時間と共に薄れていきました。
すっかり日本の生活にも慣れ、以前とそう変わらない生活を送りながらも、カンボジアで撮った写真だけを時々眺めていました。
ただ、必ずと言っていいほど、カンボジアの写真を見るとあの頃の気持ちが蘇ってきて涙がこみあげてくるのです。
何度見ても同じように涙がこみあげてくるのです。
言葉で説明するのは難しいけれど、何か大切なものを置いてきてしまったような、そんな感覚でした。
元々タイに移住する時点で、一旦自分の部屋の色々な物も整理してから家を離れているので、タイに住み始める以前の写真もきちんと整理してありました。
タイで撮った数々の写真も、帰って来てから現像してアルバムに整理しましたが、なぜかカンボジアの写真だけは手がつけられませんでした。
写真を整理するために順番に並べようとすると、初めて国境を越えたあの瞬間からの記憶が呼び覚まされるような感覚になるのです。
そして、カンボジアへ戻りたいと強く思うだけで、まだ懐かしい思い出にはなってはいないことを実感するのでした。
あの楽しかった思い出いっぱいのオーキデーはもうないし、皆んなに会うこともできません。
どんなに想ってみても不可能だということがわかっているからこそ、気持ちを封印するかのように、いつも写真を眺めては途中であきらめて、クローゼットの奥にしまうのでした。
たまに他の人のブログなどでシェムリアップの様子を見ると、変わってしまっているのがわかりよけいに寂しくなったり。
本屋に行った時にガイドブックをパラパラとめくってみては、当時とは違うシェムリアップが写っているのを見て、発展の早さに驚きながらも、同時にまた寂しさも倍増するのでした。
そんな状態が何年か続き、次第に写真を見ることもなくなっていきました。
忘れていたわけではありません。
逆に、どうしても忘れられなかったからです。
思い出にしきれなかったからです。
だからこそ、ある時期を境に一切見ないようになりました。
見ると尚さら淋しくなるから。
そうして、初めてカンボジアに行ってから約10年が経とうとしていた頃です。
もう何年もカンボジアの写真だけには手を触れていませんでしたが、今なら良い思い出として整理できるのではないだろうかと思い、本当に何年ぶりかで写真を引っ張り出したのでした。
やっぱり涙がこみあげてきます。
自分でも不思議でした。
もう10年も経っているのに。
最後にアンコール・ワットを訪れた時に体験した、あの時の感情までもが蘇ってきます。
何かやり残してきたような、何か忘れてきたような、そんな気持ちになるのです。
本当のことを言えば、あの頃のシェムリアップに住みたかった。
でも、オーキデーはなくなるし、皆んなもバラバラになるし、いざという時に外国人が行けるような病院もないし、それこそ日本人が住んでいたら目立つので一軒家を借りて自分で警備員を雇わなければならないし、その警備員だって信用できるかどうかさえもわからないほどだし。
どう考えても、当時のカンボジアに日本人の女性が一人で住むにはハードルが高すぎたので、あきらめるという選択をしたのでした。
そんなことを思い出しながら、懐かしさを噛みしめて整理し始めました。
写真を順番に並べて行くと、ついこの間のことのようにすべての出来事が蘇ってきます。
あの衝撃の国境の様子も、ピックアップトラックでの移動の辛さも、ポイペトからシェムリアップまでの長かった道のりも、オーキデーの皆んなのことも、楽しかった夏休みの日々も、すべてが思い出されます。
そして、何より私の心を掴んで離さなかったもの。
その一つが、国境からシェムリアップまでの道でした。
そこにはキラキラと大きな瞳を輝かせて裸足で走り回って遊んでいる子供たちや、家の周りに放し飼いになっている鶏やアヒルたち。
夕暮れ時になると牛使いの少年に連れられて家路へと帰っていく牛たちの後ろ姿。
そして、どこまでもどこまでも続く地平線。
いきなり真っ暗になったかと思うと、もの凄い勢いで降ってくる雨と稲妻。
雨が止んだあとにかかる大きな虹。
空一面を赤く染める、なんと表現していいかわからないほどの綺麗な夕陽。
それらを見渡せるほどの雄大な景色。
目に映るすべてのものが新鮮で心に響いたのでした。
それぐらい、私にとっては衝撃的で何かを変えてしまうほどの景色がそこにはありました。
そんな光景までもが蘇ってきます。
そして、いつかオーキデーのような、あったかくてホッとするゲストハウスをシェムリアップに作りたいと思うようになったのです。
本当は、ずっと思っていたのかもしれません。
だけど、叶わない夢だと思っていたのだと思います。
認めてしまうことが怖かったのだと思います。
だから、それまで言葉にすることもありませんでした。
それが10年経ったことで、それでも忘れていなかったことで、隠していた自分の気持ちが明確になったのでした。
そうはいっても、何をどうしてよいのかさえもわかりませんでした。
写真は整理できても、見ると変わらずにこみ上げてくるものがあります。
そして悩んだ末に、意を決してシェムリアップに行ってみることにしました。
10年経った今なら、どんなに変わっていても受け入れられると思ったからです。
だって10年ですから。
変わっていない方がおかしいと思える年月ですから。
友達のミエちゃんにそのことを話すと、彼女も一緒に行きたいと言い出しました。
一度アンコール・ワットが見てみたかったからと。
ミエちゃんとは、以前も一緒に海外旅行に行ったことがありました。
一人よりも友達と一緒の方が心強いので、私にとっても嬉しいことです。
カンボジアは、10月末か遅くても11月の初めには雨季が終わり、それから3月頃までが乾季になります。
すでに雨季が終わっていた時期だったので、それならばと早速計画を立て始めます。
但し、アンコール・ワットに行くことも、オーキデーがあった場所へ行くことも可能でしたが、皆んなにはどうやって会ったらよいのかわかりませんでした。
元気でいるのかどうかさえもわからない状況です。
とりあえず、10年前に撮った皆んなの写真を持って行くことにしました。
というより、それしか方法がないからです。
ここから海を越えての大捜索が始まります。
期間は、二週間ちょっと。
ミエちゃんは先に帰る予定で、二人とも往復の飛行機のチケットだけを予約しました。
10年前と同じように、まずはバンコクに泊まってから陸路でシェムリアップを目指します。
少しだけバンコクを観光して、Yingたちとも一緒にご飯を食べに行ったりしながら2日間を過ごし、その後移動することに。
今回もBTSのエカマイ駅にある東バスターミナルから路線バスに乗りました。
この時には、カンボジア側の幹線道路も舗装されてバスが走っていたので、あの頃のような思いはしないで済みました。
自分たちで国境越えをした後に、カンボジア側のバスに乗り換えます。
イミグレーションを通り過ぎると、「バス?」と声をかけられました。
「イエス」と言うと、トゥクトゥクに乗ってと言われます。
バスターミナルが国境から離れているので、そのトゥクトゥクに乗るとバスターミナルまで連れて行ってくれるのです。
そこでチケットを購入し、バスが来るのをその建物内で待つことに。
朝シェムリアップを出発し、国境で乗客を降ろして戻って来るバスを待つようです。
最初のバスには人数が一杯で乗れなかったので、次のバスが来るのを待つことに。
カオサンからの旅行者が一斉に集まると、乗り切れない状態になるのです。
この待ちがなんとも長かった。
日本のように、時間になったから出発するのではなく、人数が集まるまで待ってからの出発です。
それでも以前のことを考えると全然マシだったので、この程度で済んでよかったとホッとしました。
こうして、なんとか無事にシェムリップにたどり着きました。
当時のバスは、バス会社よって停まるところがまちまちで、シェムリアップの中心地よりもだいぶ離れていました。
着いたところで、自分たちがいったいどこにいるのかもわかりません。
もう陽が落ちて暗いし、一先ず今日のところはバス停に待機していたトゥクトゥクに乗って案内された近くのゲストハウスに泊まることにしました。
ミエちゃんが一緒なので、せめてもの最低条件がホットシャワーでしたが、実際は給湯器が壊れていてお湯が出ませんでした。
そんなことも私にしてみればカンボジアあるあるですが、ミエちゃんにとっては初めての水シャワー体験となるのでした。
どちらにしてもその日は何もできないし、10年ぶりで位置もよくわからないので、翌日町の中心に移動することに。
例のごとく、トゥクトゥクの運転手が遺跡に行くかとしくこく聞いてきますが行かないと答え、カンボジア人の友達を探しているからと伝えます。
事情を説明すると、そんなの絶対に見つからないと言われてしまいました。
簡単ではないことはわかってはいるけれど、そうはっきり言われるとへこみます。
翌朝、まずは町の中心に移動して宿を探すことにしました。
早々にゲストハウスをチェックアウトし、通りがかりのトゥクトゥクを拾って町の中心にあるオールドマーケットを目指します。
ここはシェムリアップの中心部で、食料品や日用品、お土産物などが揃う旅行者なら一度は必ず来るであろう市場です。
このオールドマーケットのすぐそばに、レストランやバーが立ち並ぶパブストリートといわれる繁華街のメインストリートができていました。
カオサン通りをもっとコンパクトにしたような通りです。
もちろん、10年前にはありませんでした。
ここを中心として町が広がっていっているので、そこからあまり遠くないところにある宿を探すことにします。
トゥクトゥクのドライバーに連れて行ってもらった何件かのゲストハウスを見たうちの一軒に決めました。
そこに決めた理由は、私の頭の中にある10年前の地図でもわかる場所だったからです。
トゥクトゥクのドライバーが早速遺跡観光に行くかと聞いてきます。
ミエちゃんは初めてのカンボジアなので、もちろん観光にも行く予定です。
しかも日数が限られていたので、そのまま観光に行くことにしました。
このドライバーにも写真を見せながら聞いてみましたが、皆んなのことは知りませんでした。
但し、彼はレンやこにしきがオーキデーを閉めた後に働いていたゲストハウスの存在を知っていました。
私もレンの結婚式に行った時にそこに泊まったので何度かネットで検索してみましたが、何年か前まではお客さんによる情報がちらほら出てきていたのに、数年前からぱったりとなくなっていたので、閉めてしまったのかなと思っていました。
そこで、そのゲストハウスの名前を出すと、やはり何年か前に閉めたとのことでした。
さすがドライバー、詳しいことまでは知らなくても宿に関しては情報通です。
わかってはいたことですが、そうなると尚さら探すのが難しくなってきます。
そのゲストハウスに行くことが、唯一残された方法だったからです。
やっぱり閉まっているかと思いながらも、一つ情報が確かになったことは前進です。
その後は、観光と捜索を同時に進めました。
その日は、大きな顔の遺跡が特徴のアンコール・トムと大木が遺跡に絡まっていることで有名なタ・プロームを廻って帰ってきました。
が、途中でドライバーと逸れてしまいました。
私たちからしたら、待っていると言われていたところまで行ったけれど見当たりませんでした。
暑いなか歩いて疲れていたのもあり、近くにいたドライバーに乗せてもらってゲストハウスまで帰ってきました。
それまでの料金はまだ支払っていませんでしたが、私たちからしたら途中放棄された状態です。
彼は私たちがどこに泊まっているかもわかっているし、しかるべき料金は払うつもりだったけれど、それよりも貴重な時間と体力的な問題の方が私たちにとっては重要でした。
ゲストハウスに戻ると、玄関先でドライバーが待っていました。
そして、私たちに文句を言ってきます。
約束した場所で待っていたと。
いやいや、こっちが文句言いたい!
行ったり来たりしながら散々探したし、その挙句に見つからなくて時間も体力もロスすることになったし。
向こうは、この日の全行程の料金を請求してきます。
帰りは乗っていないのにも拘わらず。
こちらからしたら、実際に乗っていない分までは払いたくありません。
しかも、途中から乗せてもらったドライバーに、その分の料金も払っているから二重に払うことになるのです。
それでも、向こうも向こうで引き下がりません。
もともと私もそういう時に粘るほど強くはありませんでした。
値段交渉だってしたことなかったのですから。
だからこそ、初めての時にポイペトでピックアップトラックに一人60ドルも払うという失態をしたぐらいです。
けれどもタイに住むようになって、値段もすべて交渉から始まる経験をし、黙っていたらただただいいようにされてしまうことを知ったので、東南アジアで生活するべく術を段々と身につけた結果、ここまでに至ったのです。
バンコクに住んでいた時に、私が勤めていた弁護士事務所の先生ご夫婦が遊びにいらしたことがありました。
数日間、お二人を案内した時に言われた言葉です。
「随分逞しくなったわね」と。
「はい、自分でもそう思います!」と苦笑いしながら返事したのを思い出します。
そんな状態で散々交渉を重ね、納得はしないまでも少し顧慮した金額を払うことに。
こういう時のカンボジア人は、絶対に引き下がりません。
生活がかかっているからです。
この頃のカンボジア人の口癖は、『タイム イズ マネー』。
それほど、生きるということに直結しているからです。
そんな体験も踏まえ、尚さらオーキデーの皆んなが恋しくなるのでした。
※情報に於いては年月の経過により変わりますので、どこかへ行かれます際には、現時点での詳細をお調べいただきますようお願いいたします。