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大人という矯正力

人間の成長するスピードには、個体差があるのではないか。
手帳に翌週の予定を書きつけているとき、ふとそんな考えが頭をよぎった。
もちろん、人によって成長のスピードが違うことはあるだろう。しかし、そういったわずかな差ではなく、目に見えて異なるということがあるのではないか。
僕に限って言えば、ほかの人より10年は遅れている気がする。
なんとなくそんなふうに思えた。

なぜそんなことを思ったのかは、すぐにわかった。
きっかけは「手帳」だ。
僕はこれまで、うまく手帳を使えたことがなかった。
毎年、意を決して「今年こそは」と手帳を購入するものの、長く続いたためしがない。よくて1か月、悪ければ1日も書かずに終わってしまう年もある。そんなものぐさな僕なのに、ここ数か月は、習慣的に手帳をつけることができている。

そのとき、「なんだか大人になったみたいだ」と思った。
見た目にはもう「おじさん」だ。そんな人間が「大人になったみたい」なんて思うこと自体、馬鹿らしく見えるかもしれない。実際に年齢は人生の折り返し地点あたりにいるのだが、それでも「手帳をつける」という行為が「大人がすること」のように感じられたのだ。

学生の頃は、20代後半にもなれば、「大人の生活」ができるようになっているものと思っていた。大人の生活とは、目標を持ち、それを実現する計画を立て、立てた計画を行動に移し、目標に向かって確実に歩みを進めていくような存在。自律的に行動でき、多少思い悩んだり試行錯誤したりはするものの、自分で軌道修正ができて、ある程度自由に振る舞うことができる存在。
それが、想像していた年齢より10年は後ろ倒しで、手を伸ばせそうなところまで来ているような気がした。

思えば、選挙は欠かさず行くようになったし、それなりに国や地域についても考えるようになった。子どももかわいく思えるようになったし、一人で喫茶店に行って本を読んだり、イベントに参加して人に話しかけたりもできるようになった。
これは、僕が思い描いていた20代後半のイメージに近いものだ。そして、世間一般の人は、少なくとも僕より10年は早く、普通にできていることのように思えた。
そういった理由で、僕の成長は他人より10年は遅れているのではないかと思ったのだ。

そういえば、子どものころはジーンズが苦手だった。
友だちのほとんどがジーンズをはいていたけれど、僕は全くはく気になれなかった。なんだか「自分の身の丈に合っていない」ような気がしたのだ。「うそ臭い」というか「気恥ずかしい」というか、そんな心持ちだった。そうしてジーンズをはくようになったのは高校生になってからのこと。それも、ほかの人より10年は遅れていた。

もちろん、ほかの人が皆、年相応の成長をしているかどうかなんて確かめたことはないし、成長の絶対的な基準なんてないだろう。おそらく、時間の感じ方は相対的なものだろうし、「何をもって成長とみなすか」も人それぞれだ。だから、無理に「成長しよう」なんて思わなくていいのかもしれない。けれど、「年相応に成長していなければならない」という強迫観念にも似た感覚を、ひしひしと感じるのも事実である。
この年齢になれば、プライベートでは「結婚していなければならない」のだろうし、会社でも管理職として「中長期的なビジョンを持ち、部下を指導しなくてはならない」のだろう。

社会は、年齢によって人を区別し、年齢に応じた「大人」として人を扱うのが効率的なのだろう。そうして、社会は人に年相応の「大人らしさ」を求めることになる。
もちろん、そういう基準がなければ、足並みを揃えて社会生活を営むことは難しくなる。けれど、すべての人が年齢に応じて「同じように成長していなければならない」とか、「同じような考え方や振る舞いをしなければならない」というのは、どこかうそ臭いし、気持ちが悪い。
それに、「もう大人なのだから」と一方的に子どもの考え方を切り捨てようとしても、自分で身をもって体験し、理解し、納得しなければ、考え方や振る舞いは変わらないだろう。

「自分の時間を生きる」というのは、「無理に他人の時間に合わせる」ということではないように思う。「もう大人なのだから」という言葉に、強制力、あるいは矯正力とでもいうようなものは全くない。
だから、自分で考え、身をもって体験し、それによって学ぶことが大事なのだと思う。それがいくら「年齢とはかけ離れた行動」でも「子どもじみたこと」でも、やってみなければ始まらない。
そうして自分の力で「自分のもの」にしていくのだ。

最近、ビジネス書を読みながら思うことがある。
これまで、「ビジネス書を読む」という行為は、単なる自己満足にしか感じられなかった。読んでも読んでも、読んだ内容が身につかず、読んだだけで満足してしまっていたからだ。それは、読んだことを行動に移してこなかったからだけれど、それでも最近、昔に読んだことが、遅いスピードながらも少しずつ身についてきているように感じられることがある。その経験により、結果にはすぐに表れなくても、焦らずに少しずつ進めることが大切なのではないかと思えたのだ。「自分の時間」により、少しずつ成長しているということなのだと思う。

だから、「子どもじみた考え」という非難は、意味をなさない。自分がそう思えるのだから、今は仕方がないのだ。そのときの自分にはそういう考え方しかできないような成長度ということなのだと思う。
「もう大人なのだから」ということによって「自分の時間」をかき乱されることなく、「それはそれ」「自分は自分」として、思うことを着実に行動に移していきたいと思う。それこそが、自分の身になる近道なのだと思う。

というわけで、まだ朝がうまく起きられないのだが、こればっかりはどうにかならないものかと思案している。早く「大人」にならないと。

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