かさぶたの安堵感と寂寥感
恥ずかしながら、冬も終わりかけたある日、座骨神経痛らしきものになった。
前の晩、変な姿勢で寝ていたことは覚えているので、はじめは「寝違えたかな」と思って放っておいたのだが、一向によくならない。症状としては、姿勢によってお尻の下あたりがズキズキと痛む感じ。脚がつっている感覚に似ているかもしれない。
歩く分には自分で速さを調整できるので、トボトボ、まさにトボトボと歩けば痛みは軽減できるのだが、思いのほか電車が辛い。座ることができれば問題ないのだが、立つことになると、左右や前後の揺れに対応できず、常に足に痛みが走っている状態になる。本もスマートフォンも見ることができず、ただただ目的地に着くまで耐えることになる。
これは明らかにおかしいと思い、とりあえず整体に行ってみた。おそらく座骨神経痛だろうという診断を受け、初診で簡単に筋肉をほぐしてもらった。
初めはうつ伏せでお尻のあたりからつま先まで、ひととおりマッサージを受けたあと、症状が表れている右足をいろいろな角度に曲げてみる。うつ伏せの状態は、まだそれほどでもないのだが、仰向けで同じように足を曲げられると、尋常ではない痛みが走る。
歯医者のように「痛かったら行ってくださいね」と言われ、「これはどうですか」と角度ごとに聴かれるのだが、もう常に痛みがある状態なので、どの角度に曲げても痛いことには変わりない。「えっと、痛いです」「はい、それも痛いです」「えー、全部痛いです」と、そんな感じにしか答えられない。「リハビリを受けるアスリートはこんなものなのかな」とも思ったが、そんなにかっこうのいいものではない。
しばらくすると痛みにも慣れてきたが、単に慣れただけで、まったくといっていいほど回復はしておらず、そのまま足を引きずって帰ることになった。それが発症から4日目くらいまでの話。
その後、継続して通院する予定だったのだが、仕事やいろいろで通うことができなかった。結局、通院できたのは最初だけ。それでも、初診の効果が出たのか、痛みは次第に引いてきて、軽い痛みを我慢すれば、いつもどおり歩ける程度にはなった。憂鬱だった電車も、それほど苦しまずに乗れるようになった。
「これで足を引きずって歩くこともなくなるし、走れるようにもなるかな」
そう思って安堵した反面、少し寂しい気持ちもあった。
その数日間はずっと足をかばいながら過ごしていた。人と並んで歩くときも、痛みがあることを気づかれないようにして歩いた。そんなことが懐かしく感じられた。
そのとき、これと同じ感覚をどこかで感じたことがあると思った。
そうだ、子どもの頃だ。そういえば、僕はかさぶたが好きな子どもだった。
「好きだった」というのとは少し違うのかもしれない。
たとえば、転んですりむくなどして腕や脚にできた傷が、少しずつ癒え、かさぶたになっていくことが不思議に思えた。自分の意思とは関係なく傷を治そうとする体の健気さに愛着を感じた。だから、傷が回復し、かさぶたが少しずつはがれていくことに、少し寂しさを感じた。
かさぶたが徐々にはがれていくにつれ、腕や脚に痛みを伴っていた頃のことを懐かしく思い、そして完全に回復してしまうことを寂しく感じたものだった。
おそらくそれは、「傷を負う」という非日常が失われてしまうことに寂寥を感じていたのかもしれない。そう、「傷を負う」ということは非日常的なことであり、傷が治ってしまえば、ただの日常に戻るだけなのだ。
最近は、そのようなことを感じることは少ない。それは大人になったということなのかもしれない。傷などを負わず、病気などを意識することなく、自分の目標や課題だけに目を向けていられたほうがいいと思えるし、傷や病気はもちろん、ミスやトラブルなど、非日常的なことは起こらないに越したことはない。
ただ、まだ社会人に成り立ての頃は、やることなすことすべてが非日常だった。「何が正解かわからない」「頑張っても結果が出ない」「うまくやったつもりが非難される」「ミスが絶えず叱られる」。そうした非日常は、今になれば笑って済ますこともできるが、決してそこに戻ってやり直したいとは思わない。
それを懐かしく思えるのは、「成長した自分」が「未熟な自分」を見る懐かしさだろう。成長したからこそ、その健気さを懐かしく感じるのだ。その渦中にいては、決して感じることはできない。
さまざまなミスやトラブルに見舞われ、新しい環境に慣れずに悪戦苦闘し、試行錯誤していた頃。未熟だったけれど、頑張っていた頃。それを懐かしく思い、また現実がそうでないことを寂しく思う。
それは、かさぶたに安堵し、またかさぶたを寂しく思う気持ちと似ているのかもしれない。
ここで一つの仮説を考えた。
「傷はいずれ自分の成長の糧になる」と。
傷がかさぶたになるように、皮膚の細胞が新しく生まれ変わるように。
我々はそれを知っているからこそ、そして傷が成長のきっかけになることを知っているからこそ、過去の自分を懐かしみ、それまでの自分が過去になってしまうことを寂しく思いながら、新しい自分を迎えることができるのだ。
かさぶたには、新しい自分が生まれることに対する安堵感と、過去の自分に決別する寂寥感を感じさせる何かがあるのかもしれない。
何となくそんなことを考えた。
ところで、僕の座骨神経痛はというと、結局、一度はよくなりかけたものの、少し痛みが変わってお尻から脚にかけて居座り続けている。
これはまだ過去の自分に決別できないということなのだろうか。
これは本格的に医者に掛かって、成長を呼び込まないといけないかなぁ。