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感情のビュッフェ

街の不潔さが大嫌いだった

 ここ1年ほどは、会計の勉強のためにほぼ毎日名古屋駅の近くの学校に通っている。勉強に疲れると、よく駅の周辺を散歩をするのだが、私は昔から人が多い場所に対しては不潔感の方を強く感じてしまう性質のようで、歩いているうちにうんざりしてくる。
 一時流行っては夢のように消える音楽を大音量で流すカラオケ店や、煙草のヤニと眩しい照明の充満したパチンコ店、性愛のメルヘンを殴り壊しつつ走り去っていく風俗求人の宣伝車。激安居酒屋の厨房にはゴキブリが這い回り、まともに掃除もされていないドリンクバーのディスペンサーからは人工的に着色された水カビ混じりのソーダ水が絶えず排出されていて、ネットカフェの個室は援助交際の場になっている……みたいな想像をしてしまう。
 そんな場所に辟易し、疲れ果てた体が向かう先はいつも、自宅の近くを流れる庄内川の河川敷だった。名古屋の外れにあるこの河川敷の土手に座って遠くJR名古屋駅周辺に聳え立つ高層ビル群を眺めていると心が和らいだ。

 河川敷には飼い犬のトイプードルを連れてくることもある。今年で16歳になる老犬で、固い地面の上を歩くのはおぼつかないから、専用のキャリーバッグに抱えて抱っこしながら歩く。時折しわぶきながら沈んでいく夕日に目を細めたり、通りかかるランナーに向かって小さく唸っている犬はそれでも可愛い。でも毛並みの匂いを嗅ぎたくなって顔を寄せると、顔にこびりついた目ヤニがすごく臭い。

感情の動態としての生

 臭くて可愛い。不思議な感覚だ。しかし考えてみると可愛さも臭さも、その根源にあるのは同じ「肉」なのだ。よその犬と比較してもあまり大差のない構造の骨の模型の上に皮膚と肉が唯一無二のバランスで張り付いて、この容姿が作られている。眼球があるから目ヤニが出てくる。今まさに抱きかかえている犬の体から肉も皮も剥ぎ取ってしまったら、そこには不気味な、あるいは不気味なあまりぞっとするほど美しい骨のオブジェが残るだけである。眼球のあった場所には虚空が凍てつき、目ヤニも糞尿も出ない。匂いもない。単純で清潔で不気味で美しい骨の塊だけがある。なんて静かなものなのだろう。
 人間もまた同じで、私たちは日常的に他者に対して価値判断をして生きているし、他者から自分に向けられる眼差しを仮想的に内面化しては、容姿に、生き方に、絶えず気を配っている。あらゆる価値は相対的なものだ。醜貌の人間が存在するから美貌という価値が発生するのだし、無能な人が存在するから有能という概念が存在できる(順序は逆かもしれないけれど)。自分や他者のことを好きになれる時間と嫌いになれる時間があるが、好きに思える理由も嫌いになる理由も十人十色だ。けれど喜楽から怒哀へ飛び降りる時の、あるいは怒哀から喜楽へと飛翔するときの動態、絶えることのない感情の揺れ動きは誰もが持っている。振り子時計が2つの点の間を繰り返し揺れ動くことによって時を刻むように、私たちも正負の間を流転しながら記憶を刻み重ねていく。体が弱って動かなくなり、意識が薄れていくにつれて振り子の揺れ幅は少しずつ小さくなり、やがてある一点でぴたっと静止する。

あらゆる者から個別性を奪う死

 「死の舞踏」という美術様式がある。死の普遍性(死は誰にでも公平に訪れる)をテーマにした様式である。「死の舞踏」の絵画では貴族から乞食まで、様々な階級の人々が骸骨の姿で仲良く楽器を奏でて踊ったり手を繋いだりしている様子が描かれているのだが、これは戦争(百年戦争)と疫病(ペスト)の流行によって近しい人々が次から次へとバタバタ死んでいき、残された生者たちにも明日には死が訪れるかもしれなかった中世ヨーロッパの歴史を背景にしている。身分の高低に関わらず、死は誰にでも平等に訪れる。肉を剥ぎ取られた死者の間にはもはや階級も差別も美醜もないがために、貴族も乞食も反発し合うことなく仲良く手をつないで踊ることができるというわけだ。

 このように、死はあらゆる差異を一瞬のうちに無化してしまう。「私」と「あなた」を分かつ固有性をも奪ってしまうがために、死者の世界にはもはや喜びも悲しみもなく、したがって前述したような感情の間を揺れ動く動態すらも存在しない。私たちが社会に生きる中で覚えるあらゆる感情は、他者との比較で生じる嫉妬や殺意を覚えるような怒りなども含めて財産なのだと思う。

 うまく言葉にはできないが、せめて世に棲む間ぐらいは全身で生きていたいなと私は思う。なにも質の悪いメロドラマみたいに、大雨の降る夜に道路の真ん中に跪き、天を仰いで大声で泣いたりする必要はないけれど。そして怠惰な性格が故に、私が充実を覚える日なんて年に幾日も無いのだけど。別に騒がしくたって、臭くたって、眩しくたっていいではないか。虫のたかる肉に思いっきりかぶりつき、骨の髄までしゃぶりつくす。その旨味の構成要素には、私が街で過ごす中で感じるあの嫌悪感もきっと混ざっている。街へ。

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