イエスタ・エスピン=アンデルセン『平等と効率の福祉革命』:読書メモ
(第4章、5章および「解題」未読)
不平等の拡大は幼少期からすでに始まっており、故に家庭の重要性は高い。そしてその家族構造が近年大きな変動を経験しており、それに対応した福祉国家の構想が必要となっている。
尤も、エスピン=アンデルセンが分析対象としているのは主に西欧とアメリカだけであるという点は注意が必要である。
ジェンダー間の平等
近年女性の役割が革命的に変化している。しかし注意すべきは、この「革命」の進行度が社会階層により異なる点だ。すなわち、比較的教育年数の高い階層では女性の自立化が進んでいるが、教育年数の低い階層では未だ女性に対する抑圧が強い。著者はこの階層分化が不平等の拡大を招いているとし、ここに福祉政策による改善の余地を見出す。
カップル間での家事労働など家庭生産の分担割合を主に決めるのはジェンダー間の交渉力の多寡のようだ。すなわち、教育年数の低い女性は潜在的な稼得力が低いため男性の賃金労働に依存し家庭生産を押し付けられる形になるが、一方で教育年数の高い女性は潜在的な稼得力が高くいざとなれば自ら賃金を稼ぐという選択をとれるため交渉力が高くなり、これが家庭生産の分担をより平等化する方向に働く。
福祉政策
現在の社会制度に従う限り、現代世代の不平等の拡大は将来世代の不平等に引き継がれるのだから、将来世代に平等で公正な機会を確保するという世代間倫理的観点からも不平等の是正は要請される。
福祉、つまりケアの3本柱は家庭、市場、政府である。これらの内、市場は情報などの制約から市場の失敗と呼ばれる限界がある。また、家庭についても女性のケア役割の減少や世代間同居の減少によって言わば「家庭の失敗」が起きやすくなっている。従って福祉国家としての政府の役割が高まっていると言える。しかし未だ政府が提供する福祉サービスは周辺的なものに留まり、要求されている需要に応えられていないことが現代の低出生率を招いているとされる。
確かに福祉に対する社会の支出を算定する上で政府の財政のみを考慮するのは的外れである気がする。公的であれ私的であれ、社会全体のGDPのうちどのくらいが福祉に割り当てられているのかが会計的には重要なのであって、その分配が政府によってなされているか市場によってなされているかはここでは本質的には意義を持たない。
保育サービス
出生率に働きかける政策は子どもの数(n)と質(q)を考慮しなければならない。この点で、女性を公正な労働市場から追いやることで出生率を高める方策は、ジェンダー平等という面でも子どもの貧困を招くという面でも深刻な問題がある。むしろキャリアと子どもを持つこととの両立を可能にする、すなわちその二つの選択肢の間にトレードオフを発生させないような対策が必要であると著者は説く。この背景には、子どもを産むかどうかという女性の決定に対するパートナーの稼得能力の影響が低下しつつあるという状況がある。そして子どもを産むことによる機会費用がますます考慮されるようになっている。
子どもを産むことによる機会費用という面で教育年数の高い階層と低い階層との間には格差が生じる。すなわち、前者はより高い交渉力を持つためパートナーを家事や育児に参加させることが可能であるが、後者は交渉力が低いため家事や育児を全て押し付けられることになりやすく、これがキャリアと子どもを持つこととのトレードオフを大きくしてしまう。したがってこの点で福祉国家による介入が要請される。
一般に育児については、保育サービスが充実している方が母親以外の家族が育児に参加する時間が増えるという逆説的な関係が成り立っているようだ。また保育サービスについては提供側と利用者側との情報の非対称性が大きく、それが保育サービス市場に逆選択を生じさせその質を低下させるおそれが強い。この点でも市場任せではなく政府主導の方法が必要となる。
家族主義
著者は「脱家族主義化」を説く。これに対しては家族の連帯を蝕み社会を不安定化させるという保守的価値観からの批判が予想される。しかし著者によれば、あらゆるデータが示しているのは、家庭が負うケア責任が適切な範囲にとどまっていることがむしろケア参加を増やし家族間の絆を高めるということである。したがってあらゆるケア労働の負担を家庭に要求する伝統的な家族主義はもはや家庭を形成することへの障害となっていると言える。