ひとりごと 〜本の読み方と「誤読」について
自分は本を読むことは昔から結構好きな方で
とりあえず目の前に本があれば、
好みにかかわらず読んでみるか、
ということをやってみる方だ。
なぜ読んでみるかと言えば
「読んでみなければ面白いか
面白く無いかわからないだろう」という
ごく当然の理由からそうしているのだが、
では「なぜ本を読むのか」
「何をもって面白いかどうかの
基準としているのか」と問われると
うまく答える自信はない。
恥ずかしい話、よくわからなかったりする。
先日、平野啓一郎著の「本の読み方」という本を読んでみた。
一言で説明できる内容ではないのだが、
「反ファスト・リーディング」
「スロー・リーディング」提唱がまずありきの人で、
色々と納得のいくことが書かれている良書だと思った。
なるほどな、と一番同意を感じた部分は
「誤読のすすめ」という箇所。
『本を読む喜びのひとつは他者と出会うこと。
自分と異なる意見に耳を傾け自分の考えをより柔軟にする。
そのためには一方で自由な「誤読」を楽しみつつ、
他方で「作者の意図」を考えるという作業を、同時に行わなければならない』
と述べられている。
「誤読」-。なるほど。
確かにそうだ。人はなんとなく
自分流の、自分に都合の良い解釈で内容を噛みくだき、
勝手に感銘を受けたりするのが常である。
そして作者の本当の意図がわかったりすると
がっかりしたりとか、ちょっと違うな、とか、
そんな話は結構多い。
しかし氏も述べている通り
『自分流の「誤読」と共に「作者の意図」の理解にも努める』ことで
受け手は更なる豊穣を得ていくのかもしれない。
しかし私はこの時、思ったことがある。
それは本に限らず、
すべての創作物の鑑賞・享受がそのようなことで
成り立っているのではないかということだ。
読書に近い感覚の創作物の享受としては、
まず「歌」もあげられるだろう。
歌詞の好き嫌いについても
ほぼそっくり上記の考えがあてはまる。
「誤読」からの感動、感銘。
拡大解釈をすれば
絵画その他美術、音楽、その他の芸術云々
すべてそうだ。
自己流の「誤読」による好き嫌いの判断、
くり返しの「誤読」による好き嫌いの反転、
「作者の意図」をくみとった理解後の好き嫌いの反転、
どれもが作品の評価として受け止められるものであり、
作品が作品たる所以として
しっかりとした存在感を増していくこととなる。
そんなものなのかなあ、なんて
今、ちょっと思ったりしてみた。
もしかしたら氏の意図は私の読解と
100%合っているものではないかもしれない。
でもそれでよい。
それが「誤読」の楽しみなのだから。