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なぜ人は恋をして結婚するのか。なぜ浮気をしてはいけないのか。
他者がいる安心感
千葉雅也の現代思想入門を読んでいてこんな文章に出会った。「他者が自分の管理欲望を撹乱することに、むしろ人は安らぎを見出す」
直感的にこの言葉が自分に引っかかった。現代思想入門を読むのは2回目なのだが、初めて読んだ時には全く引っかからない言葉だった。不思議だなあ。本を何度も読むことは、自分は変わっているのだということを教えてくれる。初めて読んだ時と次に読んだ時では、その本に対する印象であったり、そこから連想する考えが全く異なっていたりする。ああ、自分は固定なんてされていないんだなあ。アイデンティティなんてものを信じて常に追い続けてしまう姿勢に辟易する。人は変わるし、一生固定されるなんてない。変わっているという事実と対面する勇気が必要。
カップルの形
冒頭の文章に話を戻す。友人や恋人が自分から離れてしまうと感じる時。もしくは自分の思い通りに動いてくれないのだという事実を突きつけられた時。私は学生の頃、こうした場面に遭遇すると、嫉妬に支配されたり、寂しさに呑み込まれたりした。多分、他者が自分とは異なるということを認め切れていなかったからだろうな。他者を自分の延長線上に見出してしまう感覚。そして他者を自分のものにしたい、自分と一体になってほしいと思ってしまう感覚があったのかもしれない。
恋愛の話でよくありがちなのが、「どこからが浮気か」だとか「彼氏や彼女が他の異性と遊んでいてそれに怒った」みたいな話。そういう話を聞くたび、「なんで自分如きが他者を縛っていいと思っているのだろう」と本気で思っていた。この感覚自体は嫉妬に明け暮れた学生の頃からあった。他者は自分なんかがコントロールしていいものじゃない。ただ、当時の自分は「コントロールしてはいけない」という考えにグッと縛り付けられていたのかも。「コントロールしちゃいけない」と考えているのに、友達や恋人が自分から離れていきそうな時に寂しくなってしまう自分、嫉妬してしまう自分がいる。そんな自己矛盾的な感覚に苦しんでいた気がする。
「自分如きが」っていうのは、決して自己を卑下しているわけではない。どれだけ自分に自信があっても、どれだけ素晴らしい人間でも、他者を完全にコントロールしていいなんてことはないと思っている。
なぜ人は恋をして結婚するのかー友人との話ー
千葉雅也は冒頭の文章の直後、このように続けている。「だから人は恋愛をしたり、結婚をしたりもするのです。それは秩序をつくるためというより、撹乱要因とともに生きていくことが必要だからでしょう。」そうだよなあ。
決して浮気や不倫を肯定しているわけではないということは前提に置いておきたいのだが、友人と話していて、なぜ浮気をしてはいけないのか?という議論になった。もちろん浮気をされたら寂しいし、悲しい。その感覚は私にもわかる。ただ、その感情が、パートナーの浮気を抑制する理由にはならなくないか?と本気で思っている。その友人は「浮気をしたということは、パートナーを裏切るということだから」と言っていた。ふむ。なるほど。裏切るってなんだ?裏切られたくない、もし裏切ったら憤慨する、それなら最初から他者と付き合うなんてことしなければいいのにと思ってしまった。
むしろ裏切られるからこそ他者と関わるのだし、自分が予測できる範囲に常に留まり続けている人って、それはもはや他者ではないのでは?人間の形をした何か。科学が説明できてしまう人間。私はそれがちょっと悲しい。
自分が全く予想できないところにいるのが他者で、自分を簡単に裏切ってくるのが他者。多分友人が言っている「裏切る」と私が言っている「裏切る」には厳密には違いがあって、友人が言っているのは、「信じていたのに、その信じる気持ちを無碍にした」という意味での「裏切る」。私が言っているのは「自分の予測からはみ出してくる」という意味での「裏切る」。意味はちょっと違うので、これを引き合いに出してその友人と話すのはどこかずるいな。
でもやっぱり「私はあなたと付き合ってるのだから、私のことは傷つけないで」とかって、なんかおかしくないか?浮気された側としては、「私は恋人を信じていたのに、恋人は私の信じる気持ちを蔑ろにした」という主張なのだろうが、信じたのはあなただしなあと感じてしまう。
ここまでストレートに友人に告げたわけではないが、やんわりとこういったニュアンスで返すと「じゃあ付き合う意味ってなに?付き合ってる事による権利っていうのもあるんじゃない?」と返された。確かに!付き合う意味ってなんだ!
友人の言う、「カップルだからこその権利」っていうのが、千葉雅也が言っているうちの「秩序」だろうな。秩序のためのカップルかあ。それはなんかすごい昭和的な、社会という公的領域のなかで、私的領域を保つためにうまく分業を敷いている集団みたいに感じてしまう。いやそれを否定しているわけではないし、自分たちの居場所を守るためには一定の秩序がどうしても必要になってくるというのはもちろん理解している。
ただ、だからと言って、自分のパートナーを秩序の中に閉じ込めるなんて権利は持っていないはずだし、そんな権利持ちたくもない。
傷つけられる覚悟
よく結婚するには「覚悟」が必要だと言われる。私はこの言葉を聞いて、パートナーを傷つけないようにする覚悟が必要なのだと考えていた。でも少しずつ解釈が変わってきている。自分の理解には到底及ばない他者の考えや行動に傷つけられる覚悟こそが必要なのではないか。
自分が信じる領域から大いにはみ出してくる。そんな他者との関わりは時に自分を深く傷つけるが、そうして生まれる寂しさや悲しみを受け入れいる覚悟。そんな覚悟があれば、自分とは異なる人がいる、自分ではない存在に対して、もはや安心感すら抱くのではないだろうか。