
シャラの木の夢…【短編小説】
まえがき
人にはそれぞれ自分で決めたルールを持つ人がいます。
その自分のルールに縛られてしまう方もいらっしゃるかも知れません。
このお話はそんな自分ルールに縛られた、切なくももどかしい男と女の大人の恋のお話です。
その中でお釈迦様との謎の奇妙な数字の一致。
運命とはやはり定められたものなのか…?
ということで、お時間のある時に読んでいただけたら嬉しいです。
著 安桜芙美乃
表紙画PhotoAC 沙羅双樹
【なつつばき】
よく晴れた七月最後の週の蒸し暑い土曜日の早朝。
飯塚義則はカメラを片手にブログに載せる花の写真を撮っていた。
この場所へ来たのは2回目の義則。近くには寺があり、緑が生い茂っていて湧水で出来た小さな池から流れ出る水は、義則が歩いてきた道に沿って小川となって流れていた。
七月も終わる夏本番にも拘わらず、この場所は静かで涼しい場所だった。
義則が居る場所は、左へ行けば寺へと続く道で右へ行けば遊歩道のような車一台が通れるくらいの道だった。
義則はその分かれ道の少し高い場所に、綺麗な白い花を咲かせている木を見つけた。
緑の中にある白い花は可憐でとても美しかった。
『おー、綺麗な花だなぁ…。ツバキに似てるけど…ツバキの時期は終わってるよなぁ…ツバキの仲間かな…』
義則はそう呟きながら白い花にカメラを向けてズームした時、不意に大きな鳥が飛び立ち一輪だけだった白い花は枝ごと折れて地面に落ちた。
『あらら…。落ちちゃったよ』
細い枝ごと地面に落ちた白い花を義則は屈んで見つめていた。
白い花を付けた小枝をつまみ上げた義則は、手に持つ花と花が咲いていた木を交互に見つめた。
『どうやらお前が最後の花みたいだな…』
花を付けていた木には、他に咲いている花が無いのを見て義則は呟いた。
そしてポケットからポケットティッシュを取り出して数枚引き抜き、白い花を付けた小枝の折れ口に巻き付けてペットボトルの水をティッシュに染み込ませ、ゴミ袋として持っていたコンビニの袋を少し破り小枝の折れ口に着いたティッシュの上から包み込んで花だけを外に出して、リュックのサイドポケットに差し込んだ。
『これでよし』
義則は一人頷き、そのまま他の花の写真を撮って車に戻り帰路についた。
一時間半程で家に着いた。
義則は家に入るなりキッチンでコップに水を入れ、本棚から花の図鑑を取り出してテーブルに置いた。
リュックのサイドポケットから白い花の枝の部分をつまんで取り出し、折口に巻いてあるビニールとティッシュを取りコップに白い花を一輪挿しにした。
義則は白い花と図鑑を交互に見て名前を調べた。
今はネットで調べればすぐわかるのだが、義則は名前が分からない花があると、あえてネットで調べず図鑑で花の名前を調べるのが好きだった。
『ん?この花か?』
花の特徴と咲いてる時期から(ナツツバキ)と判明した。
『ナツツバキか。別名が沙羅の木(シャラの木)…沙羅…か…』
10年前に死別した妻と同じ名前だった。
【紗羅とお釈迦様】
花図鑑では沙羅(シャラ)となっているが、義則の亡き妻は沙羅(サラ)という名前だった。
45才になった義則が、沙羅という女性に出会ったのが28才の時だった。
仕事の関係で知り合い、義則が紗羅に猛烈アタック。
2年の交際のあと義則と沙羅は結婚した。
義則と沙羅は同じ歳で、共に30才になった時の結婚だった。
義則が沙羅という名前の由来を聞いたのは、二人が出会って間もないときだった。
『私の名前、父が仏教の三大聖木の生命の木の一つから持ってきたの。
2本並んだ沙羅双樹(サラソウジュ)という木の下でお釈迦様が亡くなったんだって…初めて父から聞いたとき、なんだかなーって思ったんだー』
義則は相槌を打ちながら頷いて聞いていた。
『だけどね…』
沙羅は義則が自分の話で退屈していないか、こっそり確認するために言葉を切った。
『うん?だけどねの続きは?名前の由来って興味あるから聞かせてよ』
義則は沙羅に急かすように言った。
義則が退屈していないことが分かったので沙羅は話を続けた。
『うん…お釈迦様が亡くなったときに側にあった木の名前ってどうなのよ?って思ったんだけど、そこには深い意味があったの』
勿体振るように沙羅は再び話を切った。
『お釈迦様が亡くなったときに側にあった木の名前かー…ちょっと引っ掛かるとこもあるけど、お釈迦様が関係してるからな…けっこう有難い意味が含まれてるんじゃないの?早く教えろ!』
義則は笑いながら沙羅に話の続きを要求した。
『当り! あのね、お釈迦様は…人は生きている限り病や老い、死とか…様々な苦しみがあることを知ったの。
そして、お釈迦様は逃れようのない苦しみの中でも変わらない幸せというものを探し求めて、28才で出家したんだって。
35才で仏のさとりを開いてから45年間仏の教えを説いて回ったんだって。
だから父は、私にいくつもの苦が訪れても人生の終わりまで幸せでいられるようにって沙羅という名前を付けてくれたの。今では大好きな名前だよ』
そう言って、にっこり笑う沙羅の笑顔は誰にも好かれる素敵な笑顔だった。
綺麗に整った顔立ちは男を寄せ付けるどころか、逆に当然彼氏は居るんだろう…と勝手に思われ、言い寄る男は少なかったようだった。
少し気の強いところも男が寄り付かなかった一つの要因だったのだろう…、と義則は沙羅との想い出に一人笑みを浮かべた。
そんな沙羅の想い出に浸っていたとき、義則は沙羅の名前にお釈迦様と奇妙な繋がりがあるのに気付いた。
沙羅の名前の由来、お釈迦様の出家の歳、お釈迦様が仏のさとりを開いた歳。
そしてお釈迦様が仏の教えを説いて回った45年間。
『俺と沙羅が知り合った歳が28才、沙羅が他界して仏になったのが35才、今の俺の歳が45才、そして沙羅の名前の由来…』
妻を亡くして10年という節目に気付いた、紗羅という名前に関わる数字と沙羅双樹に関わる数字の奇妙な一致…。
そんなことを思った義則だったが、頭を左右に振りながら考えすぎだろう…ただの偶然だろう…。
とは思いつつも、やはり気になる義則。
コップに一輪挿しのナツツバキをサイドボードの上にある沙羅の写真の横に置いた。
その時、義則は沙羅の写真の裏に沙羅が亡くなる前に義則へ書いた手紙を久しぶりに見たくなり小さな写真のフレームを外し写真の裏にある手紙を取り出して広げた。
【最後の手紙】
その手紙は、余命少ない中で調子の良いときに義則宛に書いた手紙だった。
その手紙を書いた日の夕方近くなって病状が悪化して、意識も戻らないまま5日後に沙羅は35才の若さで旅立った。
女性特有の病気で既に手の施しようがなく、余命宣告を受けていた義則だった。
自分ではどうしてやれることもなく、紗羅の名前に含まれた意味に、義則には奇跡を信じることしか出来なかった。
最愛の妻、紗羅が最後に書いた手紙の内容は、子供ができなかったこと、楽しかった想い出、ご飯を作ることも洗濯もできなくなったことを義則に謝っている内容だった。
生前、沙羅は不妊症で悩んでいた。
その都度、義則は気遣う言葉をかけては沙羅を元気付けていた。
そして最後に、義則を幸せにできなくなったことを知っていた沙羅は、義則に新しい彼女ができることを願う内容が書かれていて、十年…、と書かれたところで途中で途切れていた。
寝たきりのままで最後まで書けなかった文字が当時の沙羅の辛さを物語っていた。
義則が沙羅の手紙を看護士から受け取ったのが、沙羅が手紙を書いたその日の夜だった。
病院からの緊急電話から、仕事を早めに終えたが病院に着いたのは夜の6時を回っていた。
既に沙羅は病室を出て集中治療室へと移されていた。
沙羅には病気で入院中の母親がいた。父親は既に他界していた。
そんな状況で沙羅は、母には入院していることを言わないでほしい、と言われていた義則だった。
義則も妻の沙羅の余命わずかということを知っていたので、入院中の沙羅の母には精神的にも負担をかけたくなかったので言わずにいた。
治療室で沙羅の側に居ることもできず、病院の待合室の隅で一人泣く義則は、沙羅の名前が憎らしく思えていた。
『お釈迦様よぉ…苦労や病なんて誰にもあるっていうけどさ…沙羅にはもう幸せも無いのかよ!子供ができなくて悩んで…病気も治らないなんて…そんなのアリかよ!あいつ、まだ35だぞ…何とかしてくれよ…お釈迦様よぉ…』
義則は、この時ばかりは藁にもすがる思いだった。
しかし…義則のそんな思いも届かず、それから2日後に沙羅は静かに息をひきとった。
そんな当時を思いだし、義則は沙羅との想い出を辿っていた。
そして、沙羅の最後の手紙に残された十年という言葉の続きを想像していた。
【10年の意味】
義則は、10年前に他界した妻の沙羅が残した手紙の最後に(10年)と書いて途切れている手紙の、その先を沙羅が何と書こうとしていたのか考えていた。
5年前にも同じことを考えていた義則。
当時は最愛の妻の死を義則は受け入れてはいたが、悲しみは癒されていなかった。
妻が残した手紙を読み返せば辛く、最後の言葉の(10年)という言葉の後の沙羅の想いを考えるだけで胸が締め付けられる思いだった。
その頃から義則は何となくブログを始めた。
ブログを始めた当初は、沙羅への想いだけを綴ってばかりいた。
時が経つに連れ、沙羅への想いに写真を載せるようになり、沙羅への想いを間接的表現で書くようになっていた。
そして、途切れ途切れだったブログの更新もいつの間にか定期的な更新となっていった。
そうして義則は妻への哀しみを想い出として浄化していった。
花の写真に言葉を添えるようになり、一つづつ哀しみを想い出に変換した義則の言葉には、たくさんの言霊が溢れていた。
そうして、妻と死別して10年経った今…。
改めて妻の手紙を読み返し、途切れたままの妻の最後の言葉の(10年…)という文字の続きを冷静に考えられるようになった。
『10年という言葉の前の文章が、俺に新しい彼女ができたらいい、ということか…。
10年経ったら彼女作れってことか?それだったら無理だぞ。俺が断る。
それとも10年愛し続けろってことか?それも無理だな。彼女を作れってことが無理なのはお前を愛していたいからな…。
10年も20年も…結婚したときに誓った(生涯愛し続ける)という気持ちは変わらないし…これからも変わることはないんだ。
お前の手紙の(10年)のあとに書こうとしていたのがそういう事だったら、悪いけど諦めてくれ…』
写真の中の沙羅に話しかけるように義則は写真のフレームを人差し指でポンポンと叩いた。
そしてノートパソコンをテーブルの上に置いて、さっき撮ってきた花の写真をパソコンに取り込む準備を始めた。
パソコンの中のアルバムは花の写真、風景の写真、空の写真、そして沙羅との想い出の写真が綺麗に整理されていた。
いつしか花の写真が沙羅との想い出の写真の数を大幅に越えていた。
沙羅との想い出を増やせなくなって、綺麗だった沙羅を無意識に花のイメージに変えていたのかもしれない。
ふと、そんなことを思う義則だった。
沙羅との想い出のアルバムを開く義則。
二人の想い出のアルバムは、当然の事ながら10年前から更新されなくなっていた。
今となっては義則一人の切ない想い出となった。
義則は沙羅との想い出を懐かしみ、一つ一つ写真をクリックして想い出に浸っていた。
そして、二人の想い出の中に時々写っている女性がいた。
【藤谷典子】
沙羅の友人で、当時は沙羅の仕事の同僚だった藤谷典子という女性。
典子も綺麗な整った顔をしていた。
艶のある長く綺麗な髪と、しおらしい典子には言い寄ってくる男もいたが、沙羅が心配するくらい典子の中に男の気配は微塵も感じなかったらしい。
『今は気楽な一人がいいんだもーん』
典子はいつもそう言っていた。
沙羅とはとても仲が良かった典子は、家にもよく遊びに来ていた。
義則に気を使いながらも、何処かへ出掛けるときは沙羅に誘われるままに着いてきていた。
感じの好い女性で、義則も気を使いすぎる典子を嫌がることなく、沙羅が典子を誘ったときは何処へでも連れていった。
沙羅が亡くなってからも、2ヶ月に一度は連絡を取り合っていて、今でもそれは続いている。
沙羅との想い出を一つづつ見ていた義則は、当時は気づくことはなかったが、沙羅を亡くしてから花の写真を撮り続けている今の義則には、否応なしに目につくものがあった。
典子の服に着いている花のブローチ。
どの写真にも違う服にも、花のブローチが着いていた。
義則は典子の花のブローチに興味が湧き、何の花なのか画像を拡大してみた。
『ツバキだ…』
義則は思わず口に出して、今朝家に持ってきたナツツバキを見た。
『そういえば…沙羅と典ちゃんは、よく花言葉の話をしてたな…』
当時の義則は花にそれほど興味はなく、花言葉は殆ど知らなかった。
沙羅の死を切っ掛けに花の写真を撮るようになり、花言葉にも少しずつ興味を持ち出してきていた。
沙羅双樹に花言葉が無いのは知っていた義則。
沙羅双樹と混同されるナツツバキの花言葉をネットで調べて、義則は思わず納得した。
ナツツバキの花言葉は儚い美。
『お前にピッタリだな』
沙羅の写真を見ながら複雑な思いで苦笑いする義則。
続けて義則は、ツバキの花言葉を調べてみた。
『控えめな愛、控えめな美、謹み深いか…
これも、しおらしい典ちゃんにピッタリだな。うむ…こりゃ花言葉というのも無視できないな…』
そんな気持ちで、更に花言葉に興味を持つ義則だった。
時間を忘れてアルバムを見ていた義則のお腹が(グゥ)と鳴った。
時計を見ると午後の12時を回ったところだった。
『おぉ…俺の腹時計はけっこう正確だな』
カップラーメンと残りご飯でラーメンライスで空腹を満たした義則。
今朝撮った花の写真をパソコンに取り込み、エアコンの効いた快適な部屋でゴロンと横になって、今朝は早起きだったせいかそのまま寝てしまった。
【沙羅の夢】
義則は沙羅の夢を見ていた。
沙羅双樹の木の下に沙羅と典子がいた。
沙羅は跳び跳ねながら義則を呼んでいた。
義則は、懐かしさに沙羅に駆け寄った。
沙羅の側には典子が居て、周りには特徴ある迷彩柄のような太い幹の沙羅双樹の木がたくさんあった。
『久し振り、義則。あなたが何時までも一人でいるからわたしは安心して眠れないのよ…。
私、典子ならあなたのお嫁さんになっても文句はないし安心して安らかに眠れると思うの』
『ちょっ、ちょっと待ってよ沙羅!突然何言うのよ!』
焦る典子。
『典子! 自分に正直になりなよ。典子が義則を好きだったことは私知ってた。
でも、義則は私の旦那さんだから典子にはどうしようもなかったのもわかってる。
そして私が死んで、てっきり典子と義則が一緒になってくれると思ってた。
私はそれを望んでたの。
でも二人とも何時までたっても一緒にならないんだもん。
私は典子が義則の奥さんになってくれるなら大賛成なんだよ?
義則だって何時までも死んじゃった私のこと思っていないで?
そりゃ、思っていてくれるのは私も嬉しいし一番の供養にもなるけどさ…。
でも、私はもうあなたには何もしてあげられないの。
お洗濯だってできないし…あなたのご飯だって作れないの…。
あなたの側に居ることはできるけど…それ以外はあなたに何もしてあげられないの!
典子の気持ちは以前と変わっていないのもわかってる。
ただ友達である私に気を使っているならそれは間違いだよ?。
私は典子さえよければ義則と一緒になってほしいと思ってる。
義則だって、これから何年も私を愛してくれるって言ってくれたけど…それはもちろん嬉しいけど…
あなたに何もしてあげられない私は心の隅に置いてくれるだけでいいから…
義則と典子の気持ちが同じになって欲しいってずっと思ってた。
私が死んで10年経っても二人が一緒になっていなかったら化けて出るからね、って手紙に書こうとしてたのよ。
できることなら二人で一緒になって欲しいって。
何時までたっても一緒にならないから私も成仏できないの!
わかった?
こうして二人の意識を呼んで言えなかったことを伝えるのってすごい力消耗するんだからね!
明日、二人の答えを聞かせてほしい。
ダメならダメ、良いなら良い…
どちらかを教えてほしい。
曖昧な答えはイヤ。
以前、三人で行った琵琶湖で待ってるから…』
沙羅は泣きながら言いたいことだけを言って、二人の前から消えた。
同時に目を覚ました義則。
時計を見ると午後6時半だった。
『ありゃま…もう6時半か…けっこう寝てたな…。
それにしてもリアルな感じの夢だったなー。
典ちゃんと結婚しろってか…それが手紙の10年に続く言葉だったのか…。
いや、自分が見た夢だから自分に都合よく解釈しちゃったんだろう。しかし、三人で琵琶湖行った事まで出てくるとは…何年前だっけ…』
そんなことを考えながら、再び寝転んだ義則の顔目掛けてナツツバキの花が一日の寿命を終えて、枝から離れ丸ごと落ちてきた。
同時に携帯が鳴って、義則は落ちてくるナツツバキの花を避け損ねた。
ナツツバキの花が当たった場所をポリポリ掻きながら携帯の画面をみて誰からの電話か確認した。
典子だった。
義則は通話ボタンを押した。
『もしもし』
『もしもし、義則さん?』
『典ちゃん、久し振り。どしたの?』
『一月振りね。義則さん。突然だけど明日の日曜日って何か予定ある?』
『いや、特に無いよ』
『予定無かったら連れていってほしいとこがあるの』
『連れていってほしいとこ?いいよ。どこでもお供しまっせ』
『良かった…。断られたらどうしようと思った…。
明日、琵琶湖まで連れてってほしいの。
義則さんも一緒じゃなきゃダメなの。
夢の中で沙羅が私と義則さんを待ってるって言ってた。
3人で行った琵琶湖の場所覚えてる?』
『おいおい…典ちゃんも沙羅の夢を見たのか?もしかしたら…俺と典ちゃんの結婚の事だったりする?俺にも、典ちゃんと一緒に琵琶湖に来てほしいようなこと言ってたぞ…』
『あっ…、それ同じ夢だと思う。て言うか夢じゃなかったのかな…』
『10年経って、典ちゃんと俺が一緒になってなかったら化けて出るからねって、あいつ言ってなかった?』
『うんうん、言ってた言ってた。も、もしかして化けて出てきたってこと?』
『その可能性は大いにある。アイツと典ちゃん沙羅双樹の木に囲まれてなかった?』
『あっ、なんか迷彩柄みたいな木には囲まれてた』
『やっぱおんなじだ…。その木は沙羅双樹って言って沙羅の名前の由来のお釈迦様に纏わる木なんだよ。アイツが言ってた琵琶湖の場所分かったよ』
『どこ?私も行った場所?』
『あぁ…、典ちゃんも確かに一緒に行ってる草津水生植物園だよ』
『あっ、思い出した…琵琶湖の畔にある植物園ね。うんうん、思い出した』
『明日早めに出よう。何時に待ち合わせる?車で迎えにいくよ』
『義則さんに合わせる!』
『分かった。朝6時に自宅に迎えにいくよ。名古屋からだと琵琶湖まで2~3時間くらいで着くと思う』
『わかった。お願いします』
共通の夢を見た義則と典子は、翌日沙羅の夢に誘われるように琵琶湖へ向かうことになった
典子との電話の後に、義則は風呂に入った。
そして風呂から出て、明日着ていく服を用意した。
『着ていく服はこれでいいな』
義則はテーブルに置いたままのノートパソコンを開いて地図を起動させた。
『俺の車ナビ付いてないからなー…ルート覚えとかなきゃ。典ちゃんの家まで、ここから約一時間…そこから琵琶湖まで二時間くらいか…明日は午前4時半起き。寝坊しないようにしなきゃ…』
琵琶湖までの道のりを頭に叩き込んだ義則は、時計のアラームをセットしてベッドに入った。
翌朝…
アラームに叩き起こされた義則。
鼻唄混じりで髭を剃り、歯を磨き髪を整え微かに香る優しい香りのコロンを手にしたとき、ふと手が止まった。
『俺…何浮かれてんだろう…。て言うか何に浮かれてる?』
自分で何に浮かれているのか義則自身は何となく分かっているのだが、それを認めてはいけない、という思いが自分の中にあった。
義則は出かける支度を終えて車に乗り込んだ。
早朝なので、一時間かからずに典子の住むアパートに着いた。
典子は青いワンピース姿で既に外で待っていて、義則は典子を車に乗せてすぐに出発した。
【典子の気持ち】
義則の妻だった沙羅の親友である典子は、沙羅とは仕事の同僚でもあった。
そして沙羅の勤めていた会社に、協力会社として出入りしていた義則に最初に興味を持ったのは典子の方だった。
内気な典子は、義則に自己アピールも出来ないまま数ヶ月が過ぎた頃、義則が沙羅に対して猛アピールを始めたのだった。
しかし沙羅は乗り気ではなく、義則の誘いも悉く断っていた。
その時点では、沙羅は典子が義則に好意を抱いていることは知らなかった。
そして連日の沙羅に対する義則の猛アピールがピタリと止まった。
そうなると、好きとか嫌いとか関係無く気になるのが人の心であり女心でもある。
沙羅は、そんな状況を典子に話すのだった。
『沙羅が事あるごとに断ってきたから諦めたんじゃないの?』
『だってさー…それほどタイプでもないし…会う度に映画だ食事だのってうるさいんだもん…』
『でも、沙羅はこうして彼の事気になってるんでしょ?心底嫌いなら清々するのが本当じゃない?
追いかけられると逃げたくなる、背を向けられると不安になるって歌と一緒じゃん。
心の何処かで彼を無視できない気持ちがあるんだよ…きっと。自分に正直になりなよ。
もしアタシが彼に声かけられたらOKしちゃうよ?あの人仕事も真面目そうで優しい感じだし…でも、あの人は沙羅に興味があるみたいだからアタシには声かけてこないし…』
典子がそう言って黙りこんだとき、沙羅は典子の義則に対する気持ちが、この時何となく分かった。
また、義則が来たときに典子の気持ちを伝えようと思った沙羅だったが、沙羅に会う度にデートや食事に誘っていた義則が会社で合っても挨拶するだけになった。
しかも、あろうことか沙羅の職場の女子社員と親しく談笑する場面にも沙羅はしばしば出会うのだった。
『なによなによ! あれだけアタシに言い寄ってきてたのに、もう別の女?』
この時、何故か沙羅の心に女としてのプライドが沸々と沸いてきていた。
そして沙羅は自分は義則の事が好きなんじゃないか?と気付くのだった。
しかし沙羅は、義則の罠にまんまと嵌まったのだ。
しかも、その罠は典子が義則に提案したものだった。
沙羅の性格をよく知る典子は、ショボくれる義則に見かねて提案した作戦が、一旦沙羅から離れて別の女性と仲良くする振りをして、沙羅に焼きもちを焼かせる、というものだった。
義則が典子に、その提案を受けたとき『その役目、藤谷さんでもいい?』と義則に聞かれたが『それはダメ。アタシと沙羅の友情が壊れかねないから』そう言って、典子は悪戯っぽく笑った。
典子は義則に対する情より沙羅との友情を選んだのだ。
もちろん、典子が最初に義則から声を掛けられていたら、典子は義則に誘われるままに交際を受け入れていた。
しかし、義則のお目当ては自分ではなく沙羅であり義則にとって自分は沙羅の友達という認識しかないんだ、と典子自身がそう思い込んでいた。
そんな状態で、二人の間に割って入るのは典子自身のルールに反していた。
その後、義則と沙羅の交際が始まり、2年の交際の末二人は結婚に至った。
典子は義則に対する気持ちを胸に秘めたまま、何人かとお付き合いもしてきたが、交際は長くは続かず現在も独身のままだった。
そして、今でも典子は義則と二ヶ月に一度くらいの間隔で連絡を取り合っていた。
そんなある日、義則と典子は沙羅の夢を同じ日の同じ時間に見たのである。
夢の内容も同じで、以前3人で行った琵琶湖へ来て、という沙羅のメッセージを義則と典子は受け取り、日曜日の早朝に車で家を出た義則は、途中で典子を乗せて琵琶湖へと向かっていた。
暫く走ってから、典子は義則に朝ごはんを食べたのか聞いた。
『義則さん、朝ごはんは?食べた?』
『まだ何も食べてないよ。典ちゃんお腹すいた?何処かで朝飯食っていこうか。俺も腹減ってきたし…』
『じゃあ、お弁当作ってきたから食べようよ』
『えー!マジか!手作り弁当なんて久しく食べてないよ。嬉しいなー』
『喜んでくれてよかった。サンドイッチとおいなりさんあるけどどっちがいい?』
『じゃあ、最初はサンドイッチがいいなー。おいなりさんはお昼に食べようよ』
『オッケー。待ってね』
典子はニッコリ笑って少し大きめのバッグからサンドイッチとウインナーと玉子焼きとマカロニサラダの入ったランチボックスを取り出した。
『サンドイッチはハムチーズレタスサンドとシーチキンサンドあるけど、どっちがいい?』
『俺の好きなものばっかじゃん。ハムチーズレタス食べたい!』
義則は喜ぶ子供のように返事をした。
典子は『ふふっ』っと笑いながらハムチーズレタスサンドを取り出して、サンドイッチを包んでいたラップを半分ほど剥がしてから運転している義則に手渡した。
『はい、どーぞ』
そう言って、典子は車内のドリンクホルダーに義則の好きなメーカーのブラックコーヒーを着いた。
義則の好きな食べ物は、沙羅に『遊びにおいでよ』という言葉に典子は誘われるまま、義則と沙羅の家に遊びにいっていたので義則の好きな食べ物は典子の記憶に残っていた。
『ありがとー!いただきます!』
サンドイッチを受け取った義則は、目で手作りサンドイッチを見て満足してから、口に頬張り美味しそうに食べて味を堪能した。
典子は美味しそうに食べてくれる義則を見て愛しく思い、胸がキュンとなった。
こういう気持ちって幾つになってもあるんだな…と改めて思う典子だった。
典子はソーセージや玉子焼きを爪楊枝で刺して、手渡すタイミングを見て義則に手渡した。
二人でサンドイッチとおかずをたいらげた。
コーヒーを手に取った義則には、ふと思うことがあった。
『典ちゃんさ、俺の好きなもの知ってた?このコーヒーといいサンドイッチとおかずにしても、俺の大好物なんだけど…』
『それは沙羅が教えてくれたようなものだよ。アタシ、けっこう義則さんの家に遊びに行ってたじゃない?
出てくる食べ物とか見てれば大体わかるし、沙羅との会話の中でも義則さんの好きな食べ物とか出てきてたから…だからそれを思い出したからかな…』
典子は照れ隠しに助手席の窓を少し開けて外を眺めた。
典子の長い髪がふわりと風に揺れて、女性らしい髪の良い香りが義則の鼻を擽った。
『そっか…ありがとう。美味しかったよ。
そういえばさ、典ちゃんのツバキのブローチ、今日も着けてるんだね。
昨日、アルバムを見てたら気付いたんだ。
典ちゃんが写っている写真には、必ずブローチが着いてるよね。
ツバキのブローチお気に入りなんだね。
ツバキの花言葉調べたら典ちゃんにぴったりの花言葉だったよ』
『そうね。出掛けるときはいつも着けてる。
可愛いでしょ?花言葉も女性らしいから好きなんだ』
ニッコリ笑う典子に義則の心は引き込まれそうになった。
義則の中で、沙羅を愛し続ける、他の人を好きにならないという自分のルールが、典子の横顔に崩れそうになるのがわかった。
というのも、昨日見た夢の沙羅の言葉が義則の気持ちをそうさせていた。
沙羅と結婚してから、典子の義則に対する気持ちも沙羅から聞いていた。
そしていじらしいほどの、今の典子の振る舞い。
10年も一人でいた寂しさは、二ヶ月毎の典子との電話にも義則の隠れた気持ちが見え隠れしていた。
しかし、義則は自分で決めたルールを破るのは沙羅に申し訳なく思い自分の決めたことを貫くつもりだった。
そうは思いながらも、典子の控えめな女性らしい振る舞いと夢の中の沙羅の言葉が義則のルールを揺るがそうとしていた。
それから暫くは、二人で昨日の沙羅の夢の話をしていた。
『やっぱり、ほとんど内容が同じ夢って…夢じゃないのかな…』
義則は運転したまま前方を見ながら呟いた。
『うん、アタシは…あれは夢じゃなくて実際に沙羅が居たのだと思う。二人が同じ時間に同じ夢を見るのは有り得ないもん』
『てことはさ…沙羅が言ってたように俺と典ちゃんの意識を呼んだってこと?』
『アタシはそう思ってる…』
『だよなー。そうとしか考えられないよな。沙羅が化けて出てきたってことか…。俺と典ちゃんをくっつけようとしてるんだよな…』
義則の言葉に典子自信、体が固くなるのがわかった。
そして膝の上に置いていた両手にギュッと力を加える典子。
『…あの…アタシじゃダメですか?』
典子は小さな声で言った。
『えっ?』
聞き返す義則。
『アタシも、もう45才だし…出来ることなら義則さんと一緒になりたいと思ってる。
今まではこんなこと言えなかったけど昨日の沙羅の言葉で思い切って言うことにした…。
沙羅もそれを願ってるみたいだし…。
アタシ…初めて義則さんに会ったときから好意を持ってたの。
でも、あの時の義則さんは沙羅に好意を持ってた。
だからアタシは沙羅を応援したの。
沙羅が居なくなって…昨日の沙羅の言葉を聞いて自分に正直になろうと決めたの。
義則さん、アタシじゃダメですか?』
典子は今まで言えなかった胸の内をここぞとばかりに吐き出した。
『典ちゃん…俺の返事は琵琶湖に着いてからでもいいかな…。
女の典ちゃんにそこまで言わせちゃって悪いんだけど…。
俺の気持ちも…今揺らいでるんだ…。
琵琶湖に着けば答えが出せる気がする…』
『うん…。義則さんの気持ちはこの十年でアタシも分かってるつもり。アタシは自分でずっと思っていた気持ちを言っただけだから…』
典子は溢れた涙をハンカチで拭いながら窓の外の流れる景色を見つめた。
それから一時間ちょっとで琵琶湖に着いた。
【沙羅双樹の下で】
草津市立水生植物公園はすぐに見つかった。
義則と典子は二人で植物園に入り、沙羅双樹を探した。
日本で唯一、ここにしかない沙羅双樹はすぐに見つかった。
園内は、まだ早い時間で観光客はまばらだった。
『典ちゃん…これが沙羅双樹だよ。沙羅の名前の由来の木…』
『うん、思い出したよ…この木…3人で見ながら沙羅の名前のこと話してたよね…沙羅居るのかな…今ここに…』
(いるよ。二人で来てくれたんだね)
『えっ?』
『沙羅?』
義則と典子は顔を見合わせた。
『典ちゃん…聞こえた?』
『う、うん…聞こえた…』
(二人に聞こえるように話してるんだから当たり前でしょ♪)
義則と典子は、昨日の夢の中の沙羅とは違い、ちゃんと耳で聞こえていて沙羅が二人のすぐ側に居るようだった。
『典ちゃん、これ夢じゃないよね。俺達琵琶湖に来てるんだよね?』
『たぶん…』
二人は半信半疑だった。
(まーだ信用してないのね…。まぁいいわ♪とにかく二人の答えを聞かせて?)
『沙羅?アタシの気持ちは義則さんに伝えた。
いいんだよね?沙羅?義則さんと一緒になっても…あっ、義則さんがオッケーくれたらだけど…』
典子は義則の顔をチラリと見た。
困惑した表情の義則。
しかし、それは典子と一緒になるのが嫌なわけではなく、自分で決めた沙羅への約束のことへの困惑だった。
『俺は…沙羅を愛し続けると決めた。典ちゃんの気持ちはもちろん嬉しいさ。でも、沙羅を想い続けながら…そんな気持ちで典ちゃんと一緒になることは典ちゃんに申し訳ない…だから』
(ちょっと待って。アタシは、もうこの世に居ない存在なのよ?アタシを想ってくれるのは嬉しいけど、もうアタシは居ないの!
この世の人じゃないの!
アタシのことは心の隅に思い出として置いといてくれればいいんだから!
典子の気持ちも少しは考えてあげてよ!
典子が未だに独身なのは義則のせいもあるんだからね!
アタシは典子と一緒になってほしいって思ってる。
アタシのことは思ってても、もうどうしようもないの!
アタシのことより義則と典子が幸せになってくれることが、アタシの一番の願いなの。
それを見届けてからじゃないと安心して眠れないの。
アタシを安心させてよ…二人とも…)
沙羅は涙を滲ませながら、煮え切らない義則の言葉を遮るように自分の言いたいことを捲し立てた。
『典ちゃん。俺も本当は典ちゃんのこと好きなんだ。
今朝、出掛ける支度してたとき、やたらとウキウキしてる自分がいたんだ。
久しぶりに典ちゃんと出掛けられることが正直嬉しかったんだ。
だけど、俺が自分で作った沙羅へのルールが典ちゃんへの気持ちを消そうとしてたんだ。
本当は二ヶ月に一度の典ちゃんの電話も楽しみにしてた。俺も自分に正直になるよ』
義則は典子を見つめながら本当の気持ちを伝えた。
同時に沙羅の気配が消えた。
『外に出ようか…』
義則は典子の手を繋ぎ琵琶湖の見える広場へと出た。
『ありがとう、義則さん。
アタシの長年の思いがやっと届いた。
これからもよろしくね』
七月最後の日曜日の朝…
二人はよく晴れた青空の下でベンチに腰掛け寄り添いながら、暫く思い出の琵琶湖を眺めていた。
【エピローグ】
琵琶湖の植物園から消えた沙羅は二人の愛を確認した後で、義則の部屋に来ていた。
二人で暮らした四年間…たった四年間の思い出しかないこの部屋。
それでもたくさんの思い出はあった。
沙羅は部屋の隅に座り思い出を一つ一つ辿り、楽しかった思い出だけを心に詰め込んでいった。
(典子…義則はきっとあなたを幸せにしてくれるよ…)
そんなことを思いながら、沙羅は狭い部屋をぐるっと見回した。
サイドボードの上に置いてある沙羅の写真と一日で枯れ落ちたナツツバキを見て沙羅はニッコリ微笑んだ。
(義則と知り合った歳が28才、アタシが死んじゃったのが35才、典子と義則の愛を確認できたのが…生きてれば45才のアタシ…運命ってやっぱり定められてたりするのかな…ねぇ、お釈迦様?)
独り言を呟いて何かを悟ったように、紗羅は鼻歌を歌いながらもう一度部屋を見渡した。
(…さて……、そろそろ行かないと…)
ポツリと呟いて、沙羅はその場から消えて深く安らかな眠りにつく場所へと向かった。
たくさんの思い出を胸に抱きながら…