(4-4)様々な問題【 45歳の自叙伝 2016 】
見て見ぬふり
水曜日の日中に父のマンションに出掛けると、父は玄関より先に入らせてはくれず、何故か下着姿で出てくることがよくあった。玄関を見れば女性物の靴が置いてあったのだが、そのことを問うことははばかられた。そして、そういった光景も数ヶ月間に渡って何度も目にすることがありながらも、私はそれ以上あえて気にしないようにしていた。
ある日、近江さんから「サトルの会の存続に関わる大事な話なんです…」と電話が掛かってきた。母と私に話を聞いて欲しいとのことだった。その内容は父の女性問題についてだった。やっぱりな…と思った。ただ、父に被害のあった女性が近江さんに相談したのかと思いきや、近江さんもその一人で、まだ関係する人が何人いるか分からないと言うことだった。その全容は掴めずにいたが、母は「しょうがない奴なんだよね。まぁ、大人同士がやっていることなんでしょ。私は被害者なんです、当事者同士で解決して欲しいですね。それにあいつに着いて行ったってお金は持ってないよ」と言ってあしらった。
近江さんとは、その後、幾度か電話やメールでやり取りをした。その最後に「義明さんも被害者なんですよね、責めたりしてごめんなさい」と言い残していった。それ以来、近江さんは会場へ来なくなった。不思議に思われるだろうが、私からは、父にこの一連のやり取りを知らせずにいたのだった。このことはあえて「言わない」と言うか、むしろ今まで通りの「言えない」が正しかった。また、その言わないでいる理由を無意味に考えている自分もいて、今まで父に一言も逆らわずにいる、どこかいびつな親子関係がそこにあった。
数日後、父のマンションに居たときに、近江さんから荷物が届いた。箱を開けることはしなかったが、すぐにそれは父のものだと理解できた。戻った父に箱のことを告げると、父はただ黙って部屋に持ち去っていった。母も近江さんと会うか話すかしたようで「あの人はお父さんの子供が欲しかったんだって、まったくとんでもないことだよ!」と話してくれた。そして、やはり妹の出生のことを思うと、父は一体何を考えているのか、その心の動きを疑問に思わずにはいられなかった。
実はこの話はまだ別の関連性をもって続いていた。そもそも近江さんの密告によって明るみに出てきたこの話は、近江さんとも違う別の女性問題があったからで、その当事者(たち?)は他の会員に父のことを暴露しているようだった。勢い、会場への参加者が急激に減ったりして、悪い影響が広がっているように思えた。
当時、父は「誤解をして邪魔する奴らがいるけど気にしないで良い、(悪く)思えばそうなるから、なっ」などと、実のところ、父自身に言い聞かせるかのような話し方をしたことがあった。私は「人の気持ちをないがしろにするから、こうなるんだよ…」と思ったのだが、いつものように口に出して言うことは出来ずにいた。この時、初めて「直江さんの息子さん?」と思われることが嫌になった。
思い返せば、朝一番のホームで父を待っているとき、入線して来る車両に父と武藤さんの二人を見掛けたことがあった。父のマンションで一晩を過ごしたであろうことは明らかだった。また、よく父はマンションに何人も集めて食事や雑談をして楽しんでいたが、私を見るあの時の有賀さんの、今にも泣きそうな目が何を物語っていたのか。近江さんからの話を聞いていた私としては、詳細は分からなくとも、何をか感じないではいられなかった。
そんなある日、父の車のタイヤが4本ともパンクさせられていた。明らかに故意によるものだった。私は父の依頼で、カー用品店までパンク修理に車を出しに行ったが、どうしても一連の問題と絡めて考えてしまっていた。これは、確認のしようがないこととは言え、目には見えない悪感情が現象となったように思え、父のことが少なからず心配になった。
この頃から、父のことを、勢いのみで人を大事に出来ない人なんだ…と、心の奥で強く思うようになっていった。それでいて、父に直言する訳でもなかったが、むしろ関わりたくない…というのも私の本音のひとつだった。
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「治る」という禁句
しばらくは、さすがの父も少しは懲りたのか、静かなようだった。この頃になって、それまで父しか行かなかった京都や大阪に、私も出掛けるようになっていた。関西でのヒーリングは参加費も割高で、参加者の父への(治して欲しいと言う)依存度も強かった。そして、関東でのヒーリングよりも少人数のヒーラーで、大勢の参加者を通さなければならない状況にあって、良い意味で、プレッシャーを感じるのだった。それは、より多くの人数を「通す」体験が積める…という、ある種独特の充実感にも繋がっていた。
ある時期から広島の福山への出張も始まった。福山に行ったときには、児島・下津井にある、波切不動教会の高橋昭瑞先生のご好意で不動明王とのご縁を頂き、まじないにも近い雑密の匂いが強く残る真言や陀羅尼の教えを受けた。長年、多くの信者さんを導いてきたであろう、ある種の気迫を感じさせる高橋先生に、思わず襟を正す自分も新鮮に映った。まぁこのことは良いとして、新たな問題はすぐに起きた。
福山の参加者たちは、東京の感覚にはほど遠く、京都や大阪の参加者よりもさらに治療目的だった。そういう傾向は、父しか通す者がいない会場に顕著なようだった。実際としては、父のヒーリングと話術が治療目的にさせ、人を依存性にさせる原因があったのだろうと思っている。
山口から来ていた女性は、家族や縁者、一族郎党を連れ立って通っていたが、ある時「こちらは勉強目的であり、治療はしていない」と父の代わりに説明すると、「そんな話は聞いていない!やってもらったところは治ってないし、大変な思いをしてやっと通っているのに、子供には糠喜びをさせてひどいじゃないか、訴えてやる!」と、えらい剣幕で怒り出した。舌鋒鋭いその話し方に、いささか閉口していると「こんな話、あなたのお父さんに直接話したって、どうせ埒開かないだろうから、あなたに言ってるのよ! 私が言いたいこと、ちゃんとお父さんに分かるように伝えておいて! あなたたち詐欺師なのよ!」と怒鳴り散らして言った。
恐らくこう言ったやり取りは、今回が初めてでは無かっただろう。私が知る限りでは、東京でも似たようなケースがあったのを覚えている。それは、お母さんを亡くされた息子さんと父との電話のやり取りで、その息子さんは「治るって言ってたじゃないですか! 母は死んだんですよ! 酷いじゃないですか!」と言った主旨で訴えていたようだが、父の説明は相手を察しているとは言えず、明らかに会話は噛み合っていなかった。このような話は、まだ氷山の一角で、病気が治る治らないに関わらず、癒やされに来たはずなのに、父の心無い言葉で傷つき、黙って去っていった人も多くいたと思われた。
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父に見えていないもの
父の話し方は勢いがあって頼もしくもあったのだろうが、ややもすると相手の都合はお構いなしに、父自身が言いたいことを言い切って会話が終わっていることが結構あった。父の方で「こっちで全部分かっているんだから、ぐちゃぐちゃ言わないで、黙って人の話を聞けよ!」と言った具合だった。端で聞いていると、キチンと聞いて押さえるべき肝心な文言を相手が話せず、父はその文言を聞かないまま会話を組み立てて行き、そして、相手の納得無しにその会話が完結すると言うことも散見された。
もちろん総てではないが、このことをそれとなく指摘すると「聞いていないよ、なんで話さないの? 信頼関係がないんだな!」と怒りだした。先の山口の女性の話でも「僕はやることはやったんだ、病気を作ったのは誰だよ、治すのは本人だろ! 嫌なら良いんだよ!」と言うだけで、父は何故相手がそう思うのかを慮ることには疎いようだった。結局は私のところでどうにか話を納めたのだが、父は「分からない奴はほっとけよ!」と気楽なものだった。こういった父の調子はその時に始まったことではないが、前しか向かない父には、私と山口の女性とのやり取りした内容などはどうでも良いんだろうな…と思えると、どっと疲れが出たのだった。
父の良さの一つ「強気」。これはイエスマンが増えるほど、この会では如何なく発揮された。相談事や病気に向かっていく姿勢も、行き詰ってくると最後は「強気」で押し切って、成就すれば成果であるとし、思ったとおり行かなければ、相手やその周囲の環境に否があるのだから、我々は悪くない…という風だった。
父はこの勉強をするにあたって「勉強は面白く、楽しく、愉快にするものなんだよ」と、よく話していた。それは、このとき既に解散していたが、私も学んだ小田原塾を運営していた「触れずに痛みを取る会」の会長と父との約束の一つらしかった。父には不思議な体験が数多くあるようで、解散前に、とある女性のお見舞いに行った病室で、その女性に憑依した会長と、解散後の勉強のありかたについていろいろ遣り取りしたらしい( 父によると、当時、別の病院で入院中だった会長は、執行部のやり方に反発し「触れずに痛みを取る会」そのものを解散させるつもりでいて、この2週間後、突然、会は解散したとのことだった )。父の勉強会は、その会長の意志を継いだもので、この出来事は父が講師活動を始める大きなきっかけだったようだ。
その「面白く、楽しく、愉快に」というフレーズに、私はどこかアレルギーを持っていた。何故なら、そのフレーズの裏で(父が動き回る、その外側で)思いのほか多くの方が悪感情を抱いていたからだった。要するに、表面の体裁だけ「面白く、楽しく、愉快に」と取り繕っても、個々の心の内側でそれと合致していなければ、うわっ滑りする軽薄な前向き…であろうと、私には思えてならなかった。「面白く、楽しく、愉快に」という、この当たり前のような正論も、その幅広の正論ゆえに、一見、誰も異を唱えることはしない、出来ない。今思えば、父はここに盲目だったのだろうと思う。
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この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。