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(5-4)大きな転機【 45歳の自叙伝 2016 】

◆ Information
 【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…

(5-4)大きな転機 登場人物、その他

 … ヒーリングの講師( 気功師・真理を学ぶ会旧サトルの会 )として、宇都宮で「新 波動性科学入門」をテキストに講義をしていたが、講義を終えたその夜に脳内出血で倒れてしまった。波乱の四ヶ月の入院後、母が代表を務めるパドマワールドの講師として活動を再開することになった。

 … ヨガと瞑想の講師。僧籍にあるが寺持ちではなく、むしろ独立独歩の行者の様相である。パドマヨーガ会(パドマワールド)の代表。母の瞑想体験「 とき子のインナートリップ ~ 直江幸法の瞑想体験(2001年) ~

目黒の佐藤さん と 奥さん

種市さん … 父の勉強会に参加されていた女性。高野山や宇都宮など、真理を学ぶ会で行ったイベントや研修にもご一緒させていただいた。佐藤さんの奥様とは親友同士とのことだった。

ヒーリング … 念と氣を流すこと・「通す」という行為・氣の実践

目黒の佐藤さん

 三月に父のマンションの引越しを続けている最中、私は「佐藤さん」という還暦間近の男性をヒーリングしていた。胃がんとのことだった。もともと種市さんの紹介で、父が倒れる前から佐藤さんは奥様と一緒に真理を学ぶ会に通ってくれていた。私が講師を務めた基本研修にもご夫婦で参加され、その「早く良くなりたい」という思いはひしひし伝わってきていた。

 父が倒れてからというもの、しばらくは会うことなく過ぎていたのだが、二月末になって「佐藤さんを診て頂けませんか?」と種市さんから依頼があり、佐藤さんのヒーリングを行うことになったのだった。そして、種市さんと一緒にご自宅を伺い、時間を見つけては個人的に会うなどして、その機会も増えていった。父がいなくなった今、出来ることの精一杯を…との思いで、私は佐藤さんへのヒーリングを続けた。

 佐藤さんには息子さんが一人いて、どうやら息子さんには、ご夫婦は佐藤さんの病状をあまり伝えていないようだった。息子さんは四月からアメリカに行くことになっていて、三月半ば頃は渡米の準備で忙しかったようだった。佐藤さんも息子さんのことを気に掛け、渡米の邪魔にならないように「元気になる!」と、ご自身の回復を目標に頑張られていた。

 始めのうちヒーリングをすると佐藤さんは元気になっていった。身体の痛みが和らぎ、笑顔が出ていたのだ。ご自宅まで一緒に出掛けていた種市さんも安堵の表情だった。帰り道は今後の対応について話して佐藤さんの回復を祈った。


◇  ◇  ◇

思念を強く

 父は倒れる前に「この能力はオールマイティだよ!」と いつも話していた。確かに、そのことを裏付けるかのような、相談者たちの幾つかの奇跡的な回復劇は嘘でもなかった。

 とある東北の女性は、ある男性のすい臓と十二指腸と総胆管の癌による酷い癒着を、写真を通すだけで劇的に回復させたことがあった。これは真理を学ぶ会でも有名な話となったのだが、余後三ヶ月と医者に見放されたその男性は、それから一年以上経ってもまだ元気に生きていた。とは言え、医学的に「通す」ことによる症状改善の真偽や、その因果関係は分かるはずもなかった。

 それでも、その東北の女性は父にアドバイスをもらいながら、男性の写真に掌をのせ、毎日必死に思念をかけ続けたのだ。そうして、終には医者も驚くような結果を出して見せたのだった。このことで他の会員も「思念を強く持てば奇跡は起こる!」と、思いを新たにしただろうし、父も殊更この話を取り上げ「ネガティブに思うとそうなるよ、思った通りになるからね。だからポジティブに思念を強くして通しきることが大事!」と大きく話題にしていた。

 さて、佐藤さんはと言うと、ヒーリング後の一時的回復は確認していたが、現実は時間が経つと元に戻っていった。奥様から「主人が血痰を吐いているんです、大丈夫でしょうか?」と不安げな連絡が入ると一心不乱に遠隔を行った。こういうときは「思念が弱いんだろうな…」と自分を責めたりしたが、そんなことを言っても、佐藤さんの苦しみの前には何の意味も無かった。思ったような結果が出ないときは本当に辛いものだった。


◇  ◇  ◇

奥様の心配

 そうした中でも息子さんの渡米の日は近づいていた。奥様が「主人大丈夫でしょうか?もしかして息子がアメリカに行っている間に、主人に何かあったりしないでしょうか?」と話してきた。以前から父に「奥さんの心配性が、ご主人の具合を悪くさせるんだよ」と、奥様はその心配し過ぎを指摘されていた。徹底的にポジティブじゃなきゃ駄目!と言うのが父の信条であり、それはそのまま、真理を学ぶ会の当時の雰囲気そのものであった。

 佐藤さんが回復することを前提に、各々が出来ることをひたすらに行っている中にあって、悪い状況を想像することは( 冷静に考えて、当事者ならば当然抱くであろう疑問や不安もその時は… )タブーだった。結局、ご夫婦はご主人の回復を信じ、息子さんをアメリカに送り出した。私もその判断を黙って見届けた。

 四月には父の回復報告を兼ねて、あの伊那の長谷村でパドマワールドの合宿を行うことになっていた。ちょうど高遠の桜が満開となりそうで、企画そのものは久々に楽しいものになるように思えていた。佐藤さんも合宿に参加して「ビールで乾杯する!」と、その随分と痩せてきた笑顔で目標を強く語っていた。


◇  ◇  ◇

弟の感覚

 そんなある時、佐藤さんの自宅でヒーリングをしていると何とも懐かしい感覚が押し寄せてきた。「兄ちゃん、助けて!」と、子供の叫び声が聞こえたような気がして顔を上げてみたが、そこには佐藤さんが静かに腰掛けているだけだった。

 佐藤さんは背中やお腹が痛いとよく言っていたので、その時は背中を擦りながらいたのだが、しばらくするとまた「兄ちゃん、兄ちゃん!」と聞こえてきた。その瞬間「あぁ、弟か!」と直感して「大丈夫だよ、任せとけ!」と心の中で呟いた。思わず抱きしめてあげたくなった。

 ヒーリングを終えると「失礼ですけど、佐藤さんは過去世のどこかで弟だったような気がします…」とつい言ってしまったのだが、佐藤さんは嫌な顔ひとつせず、優しい笑顔で「そうですか!」と返してくれた。まったく図々しいと思ったが、何かこのことを伝えられたことで不思議な安心感が広がり、私の方が癒されてしまっていた


◇  ◇  ◇

母の言葉、父の言葉

 それでも佐藤さんの状態はあまり良くなかった。むしろ実際は厳しいと言わざるを得なかった。そう感じるたびに「悪いことは思ってはいけない、良くなることだけ思うようにしなくちゃ…」と、ネガティブに思う私がいけないんだと思い、何度ももたげるその思いをひたすら打ち消していた。

 ある時、母に佐藤さんのことを相談したことがあった。母は簡潔に「大変だねぇ、でもその人、死についての理解はあるの?」と話してきた。この言葉に私は唖然としてしまった。それは、今になって佐藤さんに「死」について考えてもらうことなんか出来やしないと、率直に思ってしまったからだ。同時に、これまで種市さんと行ってきたヒーリングが意味の無いことのように言われたような気持ちにもなって、相談しておきながら、どこか馬鹿にされたような感覚と苛立ちを覚えてしまった。

 でも現実は違った。病を治すことはとても大事だが、この「死」に対する理解がどれだけ深くあるのか、またそれが揺るがないものになっているかどうか…と言うことが、本当の意味で人の心を救うことの現実感を、この時はまだよく掴めずにいたのだ。母は父のやり方へのアンチテーゼだったのかも知れないが、「治すことは大事だけど、そこ(死についての理解)が無いと厳しいね」と言った。

 父は「死」については観念的に説くのみだった。「死は卒業のようなもの、今世は来世への準備期間なんだよ」、「死は恐ろしいものじゃない。肉体を脱ぎ捨てるだけのことなんだ」、「死ぬことが分かっていても『大丈夫だよ』と励ましてあげることが大事なんだ」と話していた。

 父の言葉は、そのまま受け取れればそれで良いとも思えるのだが、実際、死に臨んだとき、心底そのように思えるのかどうか…。本当ならもっと深い観点からの安心を得させるべきなのに、逝く者も、残る者も、その「死」を受け止める以前にタイムアウトになってはいないのだろうか…。もしかしたら、人生で一番大事な臨終の時を無為に過ごさせてしまっているのではないか…。観念的に説かれた父の言葉は、結局は「死」を敗北にしたくないという思いのすり替えであり、その慰めに過ぎないのではないだろうか…。私は母の言葉を起点として、裏づけの無い父の言葉たちに疑問を持つようになっていった。しかし、どう言おうと当時の私とて父同様であり、所詮「死」への明快な理解と相談者への対応策や方便を持っていた訳ではなく、悔しいことに何かを伝えるには未熟だったのである。


◇  ◇  ◇

桜色の高遠で

 そんな中でも合宿の当日はやってきた。佐藤さんは自ら車を運転して、奥様と他の会員三人も乗せて伊那の長谷村まで来てくれた。ホテル( 長谷村・南アルプス生涯学習センター入野谷 )の前で合流すると、佐藤さんは痛みで辛そうな表情を浮かべていた。奥様が早く父のヒーリングを受けさせて欲しいと言ってきて、早速その場で父は佐藤さんを通すことになった。その後、佐藤さんには夕食までの間、ホテルの自室で休んでもらうことになった。

長谷村・南アルプス生涯学習センター「入野谷」
※当時の名称

 合宿では夕食前に全体で集まって父の快気報告会を開いた。質疑応答になったとき、父は佐藤さんの反応を出して「癌なんか無いよ、ほらっ、なっ」と私に確認させてきたが、正直、その父の反応は良く分からなかった。それよりも現実の佐藤さんの状況を思うと、とても父が診る通りとは言えなかった。それでも私は父を否定することなく、父がほぼ無自覚に作り出している「場」に流され、皆の前で半ばフリーズしたかのように固まってしまっていた。そして情けないことにただ「うん…」と頷くのみだった。またいつものように父には何も言えなかった。そうなると、どこか佐藤さんに申し訳なくも思えてきて、気持ちは重くなっていった。

 やがて夕食の時間になった。初顔会わせの方もいて、自己紹介などをしながら場も次第に盛り上がっていった。私の席から佐藤さんご夫婦は離れていたが、よく姿は良く見えていた。最初の乾杯も佐藤さんは何とか出来たようだった。夕食を終えたとき「乾杯出来ましたね!」と声をかけると、奥様に支えられお腹に手をあてながら「ありがとうございました、美味しかったですよ!」と必死の笑顔で返してくれた。そんな佐藤さんの頑張る姿を見ていると心の底から「どうか佐藤さんをお救いください!」と祈らずにはいられなかった。

 翌日も良く晴れて清々しい朝となった。高遠の桜は満開真っ盛りで最高のお花見日和となっていた。会員たちは三々五々、桜を愛でながら帰るとのことだった。佐藤さんたちも往きと同じメンバーで一緒に帰るということで、別れ際に「楽しかったです。ありがとうございました。乾杯が出来ました!」と、佐藤さんの方から笑顔でお礼を言ってきてくれた。後で聞くと、奥様たちは桜に見に高遠城内まで回ったとのことだったが、佐藤さんはやっぱり痛みがあって、駐車場に停めた車内で休んでいたとのことだった。そして、その帰りの道中は、佐藤さんの痛みを和らげようと、会員みんなでずっと通していたそうだ。

南アルプスと高遠の桜( 六道の堤 )


◇  ◇  ◇

お別れ

 合宿の翌日、佐藤さんが目黒の病院に入院されたと、種市さんから連絡が入った。分かってはいたが胃がんとの診断だった。説明を聞いていると、施されている内容は緩和ケアのそれだと分かった。もう既に何か治療を施す段階にはないと言うことだった。

 とにかく時間を作って病院に向かった。着いたとき佐藤さんは病室のベッドで眠っていた。痛み止めが効いていたのか、呼吸は細いながらも落ち着いて安定しているようだった。ベッドの脇に腰かけると佐藤さんは目を覚まして、「義明さん、ありがとうございます。合宿はお疲れ様でしたね。帰りにはペットボルトですけど、お茶持って行ってくださいね…」と気遣ってくれた。少し話をしてヒーリングを行った。ヒーリングは擦りながら氣を流すだけだった。佐藤さんは「楽です…」と短く言うと、そのまままた眠りに着いていった。私もそっと病室を後にした。

 その後、もう一度病院を伺うことが出来たのだが、それが最後のヒーリングになってしまった。佐藤さんは一週間ほど頑張られて、ご家族や友人に看取られて亡くなったとのことだった。息子さんもどうにか病院に駆けつけることが出来たと伺ったのだが…

 この知らせ聞いたのは刈谷からの帰りの車中だった。思わず母の言葉なども頭を過ぎり、本当に私がしてきたことは正しかったのか疑問に思えてならなかった。やるだけのことはやった…と言い聞かせようとしても結局は救えなかったのであり、通すことにどこまで意味があるのだろうか…と自問自答する始末だった。そして佐藤さんの冥福を心から祈りつつ、「死」を理解することの重要性をさらに強く感じた。


◇  ◇  ◇

大切にすべきもの

 一方、父は近隣の会場に顔を出すようになっていた。とある会場では講義を再開したが、あろうことか「癌は取れても人は死ぬんだよね」などと言って、居合わせた佐藤さんの奥さんと種市さんを傷つけることになってしまった。奥様は泣いて席を立ち、種市さんの怒りを買った。佐藤さんが亡くなって間もないなかで当然のことだった。何とデリカシーのない発言なのか!と思ったところで後の祭りだった。それでも、父は全くといって良いほど気づいていない様子で講義を続けていた。今もって、父は先の言葉を繰り返すことがあるが、私には言い訳としか聞こえてこない。そんな言い訳するよりも、もっと心そのものが大切にされるべきだと考えるようになり、最後はその心こそ救われなければ何の意味があるのか…と思うようになっていった。




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この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。


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