(3-6)オープニングスタッフ【 45歳の自叙伝 2016 】
厚木の新店
いつものように仕事場に行くと、上司が「お前、今度厚木でオープンがあるから行ってみないか」と話しかけてきた。急な話で少し面食らったが、日頃の高圧的な彼の勤務態度が面倒になっていた私は、何の解決でも無いのだが、この話が「渡りに船」のように思えていた。それ故、あまり悩むことなく、オープニングスタッフとして働くことに同意をしたのだった。もちろん実家に近いということも、その理由に大きく作用した。
その後は、新店準備で頭がいっぱいとなって、去ることになった百貨店の店のことは、引継ぎを滞りなく行うことのみに注力するようになっていった。そして、彼のこともあまり気にならなくなっていった。※上司と彼については、下記記事「地に足を - 陸軍と海軍」に経緯を掲載しています。お読み頂けましたら幸いです。
厚木の新店は、他の既存店舗などから、私を含めて四人がメインスタッフとして人選されていた。それに加え、オープン前後には喫茶事業を超えて、本社からも多くの社員が現場にやって来ていた。この仕事を通じた新しい出会いは、それまで仕事場とは店の中だけ…と思っていた狭い感覚を、喫茶事業や会社全体を意識するように変えていった。そして同時に、大勢で一つのことを作り上げていく楽しさも教えてくれたのだった。これらは、たかがアルバイトであっても、とても貴重な経験となった。その後、厚木の店は無事オープンに漕ぎ着けることができ、瞬く間に半年が過ぎていった。
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町田から文京区役所
喫茶事業では、次に町田店をオープンする話が進んでいて、私はアルバイトのまま、再び新店スタッフとして異動を命じられたのだった。この頃から喫茶事業はオープンラッシュで店舗数が急拡大し始めていて、その町田店のオープンから半年後には、文京区役所の中にも新たなカフェをオープンすることが決まっていた。そして、厚木店・町田店に引き続き、文京区役所内の新店にも参加することになった。
アルバイトのままで、ここまでの異動というのはあまり例が無かったのではないかと思う。とにかく私としては、今まで以上の使命感を持って、がむしゃらに仕事をせざるを得なかった。様々な人に教えてもらった知識や技術、判断基準、価値観など、全てを総動員しないと追いつかない感覚を持つようになって、常に気持ちが張っていた。
その文京区役所の新店は年明けに開店となっていたのだが、仕事に余裕が無くなると、自ずと帰りが遅くなり、終電間近の電車でやっと実家まで戻ったりしていた。そして、翌朝一番の電車で、また文京区役所に向かう日々が続いた。当時は冬場であったので、日が昇る前の暗闇を、駅に向かって歩いていると、眠っている動きの鈍い身体が寒風にさらされ、不意に涙が出てきてビックリしたことがあった。
しかし、文京区役所の新店はオープンしてもどこか落ち着かず、どうしても帰れない日が何日かあった。家に帰れないとなると、前の上司と足繁く通った歌舞伎町のカプセルホテルに一人で泊まるのだった。西武新宿駅の脇を歩いていくと、上司に連れられた中華料理屋やスナックがあって、漂うタバコの煙とアルコールの吐息が混じったような、重く気だるいにおいや、野暮ったい呑んだくれの千鳥足なんかが、どこか懐かしくさえ映った。
その晩も疲れ果て、テレビを点けたまま寝入ってしまったのが、朝起きてみると神戸で大地震があったと、どのテレビ局も同じニュースを流して大騒ぎだった。1月17日、あの阪神淡路大震災である。年が明けて、この冬から春にかけてはオウム真理教関連のニュースが多く、地下鉄サリン事件などもあって、世の中は何か不穏な空気が流れていた。
私はアルバイトの身でありながら、オープニングスタッフとして、三店舗目を経験させてもらっていた。昔のバイト仲間は「会社に良いように使われているだけだよ」などと言っていたが、私は役に立てている…という実感が十分にあった。これまで、この会社で学んだことは本当にたくさんあって、次々とやってくる仕事に、気持ちはとても充実していた。ただ、そこにほんの少しだけ「いつ社員になれるのだろうか?」と思ったのも、また事実だったが、それでも頑張っていれば誰かが必ず見ていてくれる…と信じていた。私はとにかくは目の前の仕事に専念するのみだった。
ある時、本社の人から「直江君ね、今採用すると別の事業部の配属になるから、悪いけど、もう少し頑張って待っていてくれないか…」と聞かされたことがあった。私はその一言で十分だった。そして、会社は考えてくれている、続けていて良いのだ…と思えるとやはり嬉しかった。
喫茶事業は文京区役所の次に新宿エルタワー、新宿第一生命ビルと二店舗のオープンが続き、この二年間で最も落ち着かない状況になっていた。私も社員の人たちが余裕無く、額に大きな汗をかいて駆けずり回っている姿を端で見ていて、次に何かを頼まれても何時でも対応できるようにと、たかがアルバイトであるにも関わらず、常に気持ちは自分の店の外を向くようになっていた。
そんなある日、代理がしばらくぶりに文京区役所の店にやってきて「お前、今度NSだから!」と話してきた。NSとは都庁の真ん前にある日本生命(N)と住友不動産(S)の新宿NSビルのことだった。要するに、またもやオープニングスタッフとしても異動であった。「あぁ、まだ社員は先なのか…」とも一瞬思ったが、それよりも私にとっても四店舗目となるオープンに「次もしっかりオープンさせなきゃ!」とモチベーションは高まっていった。
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ようやくの入社
数日して再び代理が文京区役所の店に現れ、「今度本社に顔をだせ。履歴書用意しておけよ!」と言ってきた。この一言も「やっと社員になれるぞ」などと言わない代理がどこか私は好きだった。数日して本社で通過儀礼のような採用試験を行ってもらい、ようやく社員になることが出来たのだった。
振り返ってみれば、薄っぺらな夢ばかりで思慮浅く、勝手に大学を辞め、そのことを正当化するために「何かしら、これで家計の役に立ったんだ」と自己弁護して慰めたときもあった。友人たちが就職をして、弟たちが大学を卒業したのを横目に、不甲斐なく映る自分にやるせない気分でいたこともあった。こうして社員になれたことは、社会人としてようやくスタートを切れたのであり、何とか一人前に成れたと思えて本当に嬉しかった。同時に会社側の人間になれたという実感もまた嬉しく思えていた。
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新宿NSビル店
新宿NSビルの新店はオープンしても不思議なことに店長が不在だった。社員は私より年下だが、先輩二人と新入社員の私の三人だった。代理の店舗巡回の時に「店長っていつ来るんですか?」と尋ねてみても、「そんなの俺も知らねーよ、何かあれば俺に電話をよこせよ」と代理も分からないようだった。
この新宿NSビル店は、まさにオフィス街の中にあって、目の前は都庁と言うこともあり、サラリーマンやビジネスマンのお客様が大半だった。30階建ての大きなビルには有名な企業が幾つも名を連ねていた。都庁では工事の入札(特に下水道関係が多かった)があって、一癖も二癖もあるような土建屋さんが午前中の客席を埋め尽くした。昼になれば、あっという間にランチ目当てのサラリーマンで一杯になった。午後からはビルのテナントからの出前コーヒーがひっきりなしだったし、一日を通して店は本当に忙しかった。
そんな中、私は好んで午後からの出前に出てテナントを回って行った。それは様々な企業に顔を出して、行く先々の社風と言うかその雰囲気の違いを見ることがとても楽しく思えたからだった。大勢の社員がワンフロアでひしめき合っている会社、恭しい雰囲気作りが上手な会社、保険会社は壁一面にスローガンや目標がベタベタ貼ってあって一種独特だった。銀行はいちいちセキュリティが厳しかったが、行員の女性と仲良くなってくるとその不便さも早晩に解消された。
こうして外からではあったが、様々な企業を見ていると、バブルが崩壊して久しくあっても、日本経済と言うか企業の活動量みたいなものを感じ取るようでワクワクしていた。以前に漠然と夢見ていたもの、私は部外者に過ぎないが、人間の活動が企業と言う形を取って、今まさに目の前で激しく動いている…そんなエネルギーのようなものを感じていた。
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店長に昇進
喫茶事業の開店ラッシュは新宿NSビル店で一段落となり、私たち社員三人の営業は店長不在のまま半年を過ぎ、年を越していた。店は相変わらず忙しい日々にあって、気付けば喫茶事業の新店の中でも上位の利益額を計上するようになっていた。
いよいよ春の辞令が出る頃なり、ついに店長が赴任してくるか…と予想していた最中、代理がいつもの店舗巡回で店に現れた。代理は開口一番「おい、店長!」と私のことを呼んだ。私は冗談と思って「何のジョークですか?」と返すと、「これ見ろよ!」と辞令の出ている社内報を見せてきた。見ると「新宿NSビル店店長を命ず」と私の名前で出ているではないか!自分が店長になってしまったのだ…。代理は「お前、これからもっと引き締めていかないと駄目だぞ、会社中で目立っているからな!」と注意を促してくれた。実際、身の引き締まる思いで辞令を受け、緊張もしていた。
アルバイトから社員となって、店長になると言う流れは、何も珍しいことではなかったが、新入社員になって一年にも満たない人間に店長を任せたのは、この会社では初のことだったらしい。こうして私の店長としての日々は始まった。
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この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。