(3-2)紀伊半島一人旅【 45歳の自叙伝 2016 】
雰囲気の変化
その後、7月になってバイト先で唐突な異動があって、厨房に他の事業部から新しく社員がやってきた。その社員は私より一つ年下だったが、体重は 100㎏を超えているらしく身体が大きかった。そして、その振る舞いはまるでチンピラのようであって、よく通勤途中に喧嘩をしてから出勤していたそうだ。
店では前の職場で問題を起こしたのではないかと噂が飛んでいた。その社員の不満が何はよく分からなかったが、以来、みんな厨房を怖がってしまい、店長やチーフが居ないときなど、ホールと厨房とのやり取りに支障をきたすまでになった。こうして店の雰囲気は一変してしまった。
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卵と包丁
ある夜、卵の不足が出るとホールから厨房に補充を依頼する場面で、私が補充のお願いをすると、その社員は「てめぇで取り来いよ!」と語気を荒げ言い掛かりをつけてきた。そんなやり取りに、私もほとほと嫌気がさしていて、つい小声で「わかったよ、取りに行ってやるよ…」と言ってしまったのだった。
仕方なく厨房に入ると、その社員は包丁を持って近づき「ほら、卵だよ!」と、卵が入ったダンボールを包丁でザクザク切り刻んで開けると、「てめぇで取れよ!」と凄んできた。言われるまま、卵を取りにそのダンボールを覗き込んでいると、いきなり「お前バイトだろ、ふざけんな!」と罵声を浴びせて背中を素手で叩いてきた。勢い、取り出した卵が床に落ちて割れると、その社員は「何汚してんだよ!」と、さらに凄んできた。思わず私も「何すんだよ、やるのかよ!表出ろよ!」と、喧嘩で勝つ見込みなど殆ど無かったのについ流れで言い返してしまった。
そうこうしているうちに、店長がようやく騒ぎに気づいて仲裁に入ってくれた。私は内心怖くて仕方なかったのだが、このときばかりは、やられたことの理不尽さが、やっぱり悔しくてたまらなかった。
閉店後、店長に呼ばれ事情を尋ねられた。私はまだ半ば放心状態にあって、あまり深く物事を考えることが出来ずにいた。店長は最後に「お前、明日の早番もちゃんと出ろよ」と念を押してきたので、「はい、大丈夫です…」と体裁良く答えたのだった。しかし、帰宅の途につく頃になると、やっぱり悔しくなって、明日無断欠勤をしてその社員を困らせてやろう…と考えるのだった。
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無断欠勤
翌朝は日の出と共に自宅を出て、当てもなく電車に乗り、目的もなく西に向かっていた。私は初めて仕事をエスケープしてしまった。心の中とは裏腹に、夜明けの清々しい空気は妙に心地良く感じた。次第に車窓に流れる風景が、夏の日差しに照らされ力強く映りだしていた。
時計を見れば、新宿の店が朝の一番混んでいる時間帯になっていた。本当なら私も店に居なければいけないはずだった。忙しいときに、スタッフ一人欠けただけでも、現場が大変なことになることは良く分かっていた。その同じ時間に、ただ漫然と電車に乗り、何もしていない自分に恐ろしくなってきた。そして、この取り返しのつかない状況に慄き、胸が苦しくなるのだった。
それでも時間が経ち、昼近くになる頃には「店の混乱もきっと納まってきたに違いない…」と勝手に想像し、無責任にも、ある種の解放感が沸き起こっていた。そしてこの先どうしようか…、どこまで行こうか…、などと考え出していた。
当時、携帯電話はまだ無く、後で聞けば、店長や社員の人たちは心配して、自宅を訪ね、実家に電話して所在の確認をしていたらしかった。私はそんなことも知らずに、そのまま西に向かっていた。全く行き先を決めずに出てしまったので、取りあえず、祖父の出身地で、直江の本家が美術館を寄付したと聞かされていた、和歌山市を目指すことにしてみた。
この後、二週間ほど一人旅をすることになるのだが、そうやって日が経つにつれ、もう店に自分の居場所は無いな…と思えてくると、それまで築いた信頼関係が一瞬で崩れ去ったのを実感したのだった。また、そう思うたびにチーフの言葉が何度も脳裏をよぎって行った。このまま関西で仕事を探そうかと思うこともあったが、結局は何も決められずにいた。そして、途中で紀伊半島の周遊券を購入して、大阪や奈良、和歌山、三重と無為に各地を放浪することになった。※「初めての高野山」はこの時のことでした。
夜はあえて夜行列車に乗り、車中泊をしてやり過ごしていた。ときに駅のホームで野宿をしたこともあった。それでも数日すると、さすがに布団で眠りたくなり、たまたま立ち寄ったのが御坊市だった。
日も暮れ、夕立でグレーがかる雲行きの中、どうにか木造の小さなビジネスホテルを見つけ、行き倒れるように部屋の畳に寝転んだ。夕食は地元のスーパーで割引していたフランスパンと烏龍茶だけだった。ようやく風呂にも入れて、何日かぶりの布団に吸い込まれ、あっと言う間に眠りに落ちていった。翌朝は寝坊をしてしまって、慌てたチェックアウトとなった。既に日は高く、夏の強い日差しが私を突き刺した。
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魂の嗅覚
これは最近になって(平成二十六年になり)聞かされたのだが、今まで和歌山とばかり思い込んでいた直江の本家が寄付したという美術館は、実は御坊にあるとのことだった。その時、和歌山で目当ての美術館を見つけることが出来なかったのは無理もなかった。振り返ってみると魂の嗅覚とでも言えばいいのか、結果としてその場所を訪れていたのであり、今更ながら不思議な必然を思えてならなかった。
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空と海
私はその後も彷徨っていた。
電車に揺られていると、南紀の海とその水平線が目の前に広がり始めた。紺碧の海はキラキラと光って、遠くまで広がる眩しい青空と一緒になって、嫌なことなど、もうどうでも良いと思えてきそうだった。
すると、各駅停車の普通列車は海岸に程近い無人駅で停車した。誰の乗り降りも無いなか、一人下車してみる。道も知らないのに海を目指すと、地元の人しか通らないような小道が、私を連れて行ってくれた。
誰も居ない、石ころだらけの静かな海岸だった。
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戦わずして勝つ
一人旅に出ているあいだ、私は「孫子」の解説本を持ち歩いていた。「戦わずして勝つ」と副題がついたその本は、読み進めても、まだ人生経験の浅い私には抽象的に映って、今ひとつ実感に乏しかった。実際は現実逃避だったその時、少しでも強くなりたいとか、暴力に屈したくないとか、恐らくは漠然とした自己肯定のために、思わず鞄に詰め込んだものだった。
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帰宅
紀伊半島の一人旅も日が経つにつれ次第にお金もなくなり、残金も千円を切るまでになってしまった。周遊券の期限が尽きたら家にも帰れない状況だった。奈良で途中下車をして、住み込みで働かせてくれそうな場所を探して、一日中歩き回ったりもしたが、結局は無一文直前で身動きも取れなくなり、すごすごと実家に戻るのだった。
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仕事場に復帰
実家に戻るまでの間、新宿の仕事先から、何度か電話が来ていたようだった。私もこのままでは良くないと思い、恐る恐る、店長に連絡を取ってみたのだった。実際はすっかり迷惑をかけてしまったのであり、とにかくお詫びをして、自分のしたことを謝った。店長は「お前のしたことは本当に良くないが、一度店に来て話を聞かせろ…」と水を向けてくれた。
数日して店に戻ると、店長とチーフ、そしてその社員が席を用意して待っていた。席に着くとその社員は私に謝ってきた。チーフは「お前は信用を失ったんだ、そんなに甘くないんだ、わかってんのか!店長、俺はこいつを信用できねぇんですよ!」と叱ってくれた。店長は「迷惑をかけた仲間にひとりひとりキチンと謝れ。それでもし、お前にやる気があるなら、またシフトに入れてやる」と話してくれた。
私にはまだ居場所があるのかも…と安堵して、改めて働かせてもらえるようにお願いしたのだった。他のスタッフに謝って回ってみると、思いのほか温かく迎えてくれた。同世代のアルバイトからは「あの人(その社員)、あれから静かになって怖くなくなったのよ」などと言われ不思議な感覚だった。こうして気持ち新たに、また仕事をさせてもらえるようになった。たかがアルバイト如きではあったが、それからは、以前よりも増して仕事に打ち込もうとする私がいた。
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この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。
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