百次のサムライ-薩摩平氏と石塔1- 上野氏関係石塔群
はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏)ゆかりの石塔をめぐり、戦国乱世を駆け抜けた兵どもの夢のあとをお伝えします。
平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏と呼ばれました。やがて薩摩半島各地に拡がった良道の子孫たちは薩摩平氏と呼ばれました。
上野氏関係石塔群
上野氏は薩摩平氏一族で、平良道の三男頴娃忠永(えいただなが)の六男薩摩忠直(さつまただなお)が薩摩郡(川内地方)を領し、この忠直の次男が上野氏初代上野忠宗(うえのただむね)です。
鹿児島県薩摩川内市百次町上野(ももつぎちょううえの)には上野氏3代目の上野忠真夫婦の墓とされる宝塔のほか周囲には一族のものと思われる宝篋印塔3基、五輪塔15基がみられます。この上野氏関係石塔群は薩摩川内市指定文化財となっています。
上野氏は、薩摩川内市の南部にある百次町上野の丘陵地に上野城を築城し、鎌倉時代前期から南北朝時代前期にかけて活躍しました。忠真の生きた時代は蒙古襲来から鎌倉幕府滅亡へと激動する時代でした。
向かって左側の宝塔には元亨四年甲子(1324年きのえね)六月廿九日の銘があり、その年代から3代目上野忠真のものと推定されています。この2基の石塔内部には納骨孔があり、左側の石塔には骨灰が残っていたようです。右側は婦人のものといわれます。
特に上野忠真夫婦の墓とされる宝塔は古く、赤色溶結凝灰岩石を使い極めて珍しいものとされています。
【参考文献】
鹿児島県史料 旧記雑録拾選 地誌備考三
川内市史上巻
川内市史 石塔編
ほかの薩摩平氏の石塔についても随時アップする予定です。