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百次のサムライ19 -薩摩平氏と城跡- 吹上町永吉の勇介城跡 

はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏)ゆかりの城跡をめぐり、戦国乱世を駆け抜けた兵どもの夢のあとをお伝えします。

平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏(いざくへいし)と呼ばれました。やがて薩摩半島各地に拡がった良道の子孫たちは薩摩平氏と呼ばれました。


吹上町永吉の勇介城跡(ゆうがいじょうあと) 


鹿児島県日置市吹上町永吉の草田原(日置南郷)に、北方へ半島のように突き出た字野首に勇介城跡があります。野首とは野山の細くなっている土地を意味する「首」に由来し、この丘は西・北・東は断崖に囲まれ自然の地形を生かした要害地になっています。

平安時代後半の天永3年(1112)、伊作郡の郡司に補任された伊作平次郎良道が伊作郡を領していました。この地は日置南郷(へきなんごう)とよばれ、おとなり伊作郡(伊作荘)とともに古くから伊作平氏一族による開発が行われた場所です。

平安時代末期ごろ、この城は伊作平氏である伊作平四郎忠盛の居城であったと伝えられており、日置南郷に桑波田氏が郡司となって赴任する以前からの歴史を持つ城跡です。現在は雑木林となっており当時の面影はありません。

勇介城跡(南西側から望む)
勇介城跡(南西側の真下から)

建久3年(1192)、そのころ日置南郷、日置北郷、伊作荘、谷山郡などを郡司として領していたのは同族阿多忠景(あたただかげ)の娘婿平宣澄(阿多宣澄)(たいらののぶずみ)でしたが、幕府は平家に加担した謀反人として平宣澄の所領を没収(平家没官領)し、島津忠久を地頭として知行させました。ただし、日置南郷は万揚房覚弁(まんようぼうかくばん)(桑波田氏祖)が郡司として治めることになり、以降、桑波田氏が日置南郷の領主となります。

城跡の南西側には広い水田が広がっており、ここで稲作が800年以上続けられていると思うとすごいことだなと思います。

勇介城跡周辺の水田地帯
勇介城跡(南東側から望む)
赤丸が勇介城跡の場所(地理院電子国土Web)

【参考文献】
吹上郷土誌(2003)吹上町教育委員会



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