百次のサムライ-薩摩平氏と石塔8- 串木野氏の墓
はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏)ゆかりの石塔をめぐり、戦国乱世を駆け抜けた兵どもの夢のあとをお伝えします。
平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏と呼ばれました。やがて薩摩半島各地に拡がった良道の子孫たちは薩摩平氏と呼ばれました。
串木野氏の墓
鹿児島県串木野市上名(かみみょう)の串木野インター近くの墓地の一角に串木野氏の墓があります。
串木野氏は薩摩平氏一族で、平良道の孫薩摩忠直の四男串木野忠道(くしきのただみち)を初代とする一族です。
串木野氏の初代忠道は、串木野城を構えて現在の串木野市下名(しもみょう)一帯を治め、串木野三郎忠道と名のり、忠行、忠秀、平次郎、忠秋と五代続きました。
築城は1215~1221年の頃で、1220年に忠道が冠岳霊山寺に土地を寄進しており、この頃には串木野一帯の領地を治めていたようです。
南北朝時代の1342年8月、忠秋の時に島津貞久によって串木野城は攻め落とされ島津氏の居城となります。忠秋は息子の知覧忠世(串木野忠世)を頼り知覧に逃れました。
【参考文献】
川内市史上巻
串木野市郷土史
川内市史 石塔編
ほかの薩摩平氏の石塔についても随時アップする予定です。