百次のサムライ -薩摩平氏と城跡1-
はじめに
ここでは鹿児島県の薩摩半島に点在する薩摩平氏(伊作平氏)ゆかりの城跡をめぐります。ここでは主に現在の薩摩川内市周辺で栄えた一族について紹介しています。追々、南薩摩の方にも足を延ばしたいと思います。
平安時代末期、桓武平氏の流れを汲むといわれる平良道(たいらのよしみち)が薩摩国伊作郡(鹿児島県日置市吹上町付近)に郡司として下向し、伊作姓を名のり伊作平氏と呼ばれました。やがて薩摩半島各地に拡がった良道の子孫たちは薩摩平氏と呼ばれました。
1.上野氏と上野城
上野氏は薩摩平氏の一族で、平良道の三男頴娃忠永(えいただなが)の六男薩摩忠直(さつまただなお)が薩摩郡(川内地方)を領し、この忠直の次男が上野氏初代上野忠宗(うえのただむね)です。
上野城主の変遷について鹿児島県史料[1]では
訳「鎌倉執政の時、薩摩郡百次村は守護島津忠久に属す。当時薩摩六郎忠友の弟忠宗が百次村を領し、上野城に居り上野太郎と称す、忠持(忠朝)、頼員(忠真)、良頼、良国、忠国が受け継ぐ、・・・」とあります。
島津忠久が守護職に任じられたのは1197年ですから、その頃すでに百次に上野城があり、初代城主は上野太郎(忠宗)と名乗っており、上野氏が城主の時代が5~6代続いたことが分かります。
築城は源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年頃でしょうか?時代はまさに2022年放送のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のころです。
上野氏初代忠宗は、上野太郎、上野四郎太郎、上野平次郎忠頼、山口二郎など多くの別名がありますがここでは同一人物として扱っています[2]。
上野氏の2代目は上野忠朝、その弟忠光は串木野忠道(串木野氏初代)の娘と結婚し、その子忠行は婿養子となって串木野氏2代目串木野忠行と名のりました。
3代目上野忠真は、串木野忠道の子忠貞が上野忠朝の養子となったものです。ここはややこしいです。4代目上野良頼は、1333年の鎌倉幕府滅亡の時に鎮西探題攻めに参戦しました。
5代目上野良国とその弟上野三郎四郎は、1336年の市来城合戦に北朝方に属して島津氏の配下で参戦しましたが、1341年に島津貞久によって上野城が陥落しました。これで上野氏の居城だった約140年余り[3]の時代は終わり、6代目忠国を最後に没落したものと思われます。
後に、上野氏は同族の成枝氏と共に南朝方の入来院氏をたよりその家臣となったようで、入来院重朝の頃(1550年頃か)、おそらく良国の子孫と思われる「上野源次郎」の名が記録に残っています[4]。
同じく入来院氏の家臣として上野良長が1597年に豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参加[5]しており、良長には良直という子がいたようです。
上野城につて千台第13号[6]には
訳「上野城は岩田ガ城とも呼ぶ。百次の西方にあり高さ十丈(30m)周囲およそ十町(1,000m)、本丸と二の丸の施設があり、巨木が鬱蒼として昼なお暗く冷たい風が音を立ててふき、足元には粟が生えるっそり寂しい地なり。今は旧大手口から搦手口にかけて(南北にかけて)道路が通り、白砂採取の地として年々その跡形が失われている。」とあります。
東西に走るといわれる「一の堀」や「二の堀」は道路からはよく見えませんが、和田集落から坂を登る途中左手側にあるようです。
現在、城の外側も埋め立てられて住宅地になっており当時の面影は殆どありません。
上野城跡地南の上野集落には串木野から3代目上野忠真に随身してきたという伝承をもつ人々が現在も暮らしており、集落内の民家裏に「上野氏関係石塔群」が残されており、薩摩川内市指定文化財となっています[7]。
1600年、関ケ原の戦いで徳川家康が天下統一した後の1615年、国の「一国一城令」により上野城は廃城となり、忠宗の築城以来、約400年の歴史に幕を閉じました。
上野城は、築城から廃城までの間、島津氏や入来院氏などの居城となり岩田ガ城や百次城と名を変え幾多の戦場となりましたが、やがて歴史の表舞台から消えていきました。
【参考文献】
[1] 鹿児島県史料 旧記雑録拾選 地誌備考三
[2] 川内市文化財要覧、千台第13号
[3] 約140年余り:1197年~1341年(築城~没落)の期間。築城年代不詳。
[4] 千台第13号
[5] 「さつま」の姓名
[6] 千台第13号
[7] 川内市史上巻、千台第13号
2.串木野氏と串木野城
串木野氏は薩摩平氏の一族で、平良道の三男頴娃忠永(えいただなが)の六男薩摩忠直(さつまただなお)が薩摩郡(川内地方)を領し、この忠直の三男が串木野氏初代串木野忠道(くしきのただみち)で串木野三郎忠道ともいいます。忠道は、串木野城を構えて現在の串木野市下名(しもみょう)一帯を治めました。
串木野城の築城は1215~1221年の頃で、1220年に忠道が冠岳霊山寺に土地を寄進しており、この頃には串木野一帯の領地を治めていたようです[8]。
外曲輪の一部といわれる地頭仮屋跡の石垣は、明治30年前後に築かれたものです。
上野氏3代目忠真は、始めは上野城当主として上野城にいましたが、後に串木野に帰って「浜ヶ城」を築きました[9]。浜ヶ城は、五反田川沿いにあった串木野城の支城です。現在、浜ヶ城跡は串木野神社や幼稚園・宅地となっています。
1342年8月、5代目串木野忠秋の時、島津貞久によって串木野城は攻め落とされ貞久の居城となりました。忠秋は息子の知覧忠世(串木野忠世)を頼り知覧に逃れました。こうして串木野氏が串木野城主だった5代120年余りの時代は終わりました[10]。
串木野氏は上野氏と養子をやり取りする親しい関係だったようです。また知覧氏とも親密で、忠世は父祖の地である知覧氏の養子となっています。
串木野城跡近くの南方神社は、明治維新以前は諏訪大明神と呼ばれており、古い昔、長野県の諏訪大社から勧請したものです。
串木野城跡周辺には中世の麓町が残っており、武家屋敷の武家門などが当時を偲ばせます。
【参考文献】
[8] 串木野市郷土史
[9] 千台第13号
[10]串木野市郷土史、川内市史上巻
3.薩摩忠友と平佐城
薩摩氏は薩摩平氏の一族で、平良道の三男頴娃忠永(えいただなが)の六男薩摩忠直(さつまただなお)が薩摩郡(川内地方)を領し、忠直の長男が薩摩忠友(さつまただとも)で薩摩太郎忠友ともいいます。
平佐城は、別名諏訪之尾城(すわのおじょう)・是枝城(これえだじょう)とも呼ばれました。「古城主来由記」によれば、1190年頃は薩摩郡司薩摩太郎忠友の居城でした。
系図には、忠友、忠持、忠能、忠任、忠氏(忠武)の名がみえ、平佐城には代々薩摩太郎忠友の子孫が居住したものと思われます[11]。
鹿児島県史料[12]には、
訳「大昔、薩摩太郎忠友のことか、建久九年(1198年)の鎌倉御触状(支配者が庶民に命令を伝える公文書)に薩摩太郎と有り、隈之城のほか平佐にてもこれあり、」とあります。
鎌倉時代前期には薩摩忠友が隈之城および平佐一帯を治めていたことが分かります。
南北朝時代以降(1337年頃か)は、碇山城を本拠とした総州家島津氏が当城を使い始めたようです。
1407年には島津忠朝が当城を拠城としていたようですが、1417年の戦によって奥州家島津元久の居城となりました。
1587年、豊臣秀吉の九州征伐(九州平定)の時、島津義久の家臣桂忠昉(かつらただのり)が約300の兵をもって平佐城に籠城し、秀吉の7000余りの大軍と戦って城を守り抜いたと云われています[13]。
現在、平佐城跡地は平佐西小学校となっています。
【参考文献】
[11] 川内市史下巻
[12] 鹿児島県史料 旧記雑録拾選 地誌備考三
[13] 鹿児島県の中世城館跡
4.薩摩忠友と二福城(隈之城)
薩摩氏は薩摩平氏の一族で、平良道の三男頴娃忠永(えいただなが)の六男薩摩忠直(さつまただなお)が薩摩郡(川内地方)を領し、忠直の長男が薩摩忠友(さつまただとも)で薩摩太郎忠友ともいいます。
二福城(にふくじょう)の築城年代は定かではないですが、建久年間(1190年〜1199年)頃に薩摩郡司薩摩太郎忠友の本拠地であったと伝えられ、鎌倉時代を通じて薩摩氏一族が居城したものと云われています[14]。
室町時代になると二福城は総州家島津氏の所領となり島津忠朝の城になります。1417年、忠朝は平佐城で奥州家島津元久との戦いに敗れて永利城に逃れます。1419年、今度は島津・市来・入来院の連合軍に敗れて二福城に逃れました。
1421年、二福城は島津久豊の攻撃を受け落城しました[15]。その後、この地は島津直轄領となりますが、入来院氏、島津氏などの領地として変遷し、1615年の一国一城令により廃城となりました。
二福城は隈之城小学校の南側にある小高い丘の上に築かれました。山頂付近は竹林で山麓は宅地となっており、城からの抜け穴が国道の方に続いていたようですが今はありません[16]。城の南側には隈之城川が流れており天然の外堀となっています。
江戸時代には、二福城周辺に麓集落をつくり武士を住まわせました。
【参考文献】
[14] 千台第15号、川内市史下巻
[15] 千台第15号
[16] 川内市史下巻
5.薩摩氏と都城(都八幡神社)
鎌倉時代、都城は二福城の支城で薩摩氏の城でした。都城は隈之城駅の南西約1.7㎞の高さ50m程度の高台の北東端に位置し、現在は、杉や雑木林に囲まれた都八幡神社(1855年社殿重興)となっています[17]。
二福城の支城として都城の他に矢倉城、南城(総徳城(しとくじょう))などがあったようです。
都城(都八幡神社)の山裾周辺には隈之城川の支川が縦横に流れる水田地帯が広がっています。この地にはかつて荘園があったようで建久図田帳には正八幡宮領(万得領)都浦10町と記載されています[18](10町=約10ヘクタール)。さらに古代5~6世紀ごろにはヤマト王権の直轄地である屯倉(みやけ)が木場谷川周辺に置かれており、この辺は古くから稲作が盛んな栄えた場所=都だったようです。
また都町周辺は古い時代から人が住んでいたようで、近くには霜月田遺跡、都原遺跡(しもつきでんいせき、みやこばるいせき)がみられ縄文時代早期の土器などが発見されています。
【参考文献】
[17] 文献:川内市史下巻
[18] 文献:川内市史上巻