アフリカ生まれ、鈴木民民の冒険【第八話】
【第八話】
帰国後、僕は父に内緒で大学を休学し、食品加工工場でバイトを始めた。
父には、今回の旅行で僕のアイデンティティが却って混乱してしまったことはおくびにも出さなかった。
トイレに駆け込んだのも時差で具合が悪くなったからだと、またしても取り繕った報告をした。
休学の際には書類に親のサインが必要なのだが、細心の注意を払い父の筆跡をまねて提出したら受理されてしまった。
工場をバイト先に選んだのは人間関係が希薄そうなことと、マスクや帽子で多少なりとも黒い肌を隠せるだろうと見込んだからだった。
僕に割り振られた仕事は単純で、とんかつにパン粉をまんべんなくつけ、次から次へと油の煮立ったレーンに投入していくだけ、というものだった。
入社初日、二時間も経たぬうちに飽きが来たが、連絡事項以外ほとんど人と関わることなく働けるのは今の僕にはありがたかった。
ネットで調べると、僕の住む街にも外国籍や外国出身でありながら、幼い頃から日本に住んでいる人たちが少数ではあるものの存在していて、月に数回集会を開いていることを発見した。
似た者同士への期待に胸を高鳴らせ、早速ホームページのメールアドレスへ参加希望の旨を送信すると、その日のうちに返事は来た。
「鈴木民民さん、初めまして。会を主催しているポールと申します。僕らの会にコンタクトを取ってくれてありがとう。僕はイギリス出身で四歳の時から日本で暮らしています。メンバーにはアフリカ系の女の子もいますよ! ぜひ経験や悩みなどをシェアして交流しましょう」
自分と同じような境遇の人たちが、こんなにも身近にいると思うだけで心躍った。彼らと会って、話して、今までの経験を分かち合いたい。
それは、ほとんど本能からの抗いがたい希求だった。
日曜日。
心待ちにしていた集会の日を迎えた。
前日はワクワクしてあまり眠れない程だった。
駅の柱に寄りかかっていると、欧米系の若者がキョロキョロと辺りを見回しながら現れたので、すぐにポールさんだと分かった。
僕を見つけると流暢な日本語で
「鈴木さんですよね」とニッコリ笑い手を差し出してくれたので、ガッチリと握手を交わす。
ポールさんの身長は百七十五センチくらいで僕とほぼ同じ背丈だった。くしゃくしゃの茶髪に青の瞳で、あごひげを少し生やしていた。
「日本語に全然なまりがないですね」
僕が褒めると
「鈴木さんもね」と返され、二人で笑った。
バスで隣町まで移動し十分程歩くと、真新しいマンションに到着した。
「ここの四〇六室にいつも皆集まってるんです」とポールさんが教えてくれた。
広めのリビングに入ると、若いインド系とアフリカ系の女の人がテーブルのお菓子をつまみながら話しているのが目に入った。
二人は僕に気付くと愛想よく微笑んでくれた。
「鈴木民民です。よろしくお願いします」
僕が挨拶をすると
「私はネハです」インド系らしい女性が座り直し、名乗った。浅黒い肌にベリーショートの髪、紫の首巻きスカーフが印象的な女性だった。
「普段はプログラマとしてバリバリ働いてる。両親がインド人なんだけど、私は日本育ち。あ、ちなみにここは私の部屋ね」
「僕はブルキナファソ生まれで、一歳の時に日本人の父に引き取られました」
「ブルキナファソ出身の人は初めて会ったなァ」ネハさんが目を丸くして僕を見た。
続いて黒人の女の子が感じよく微笑み
「私はキワナ。母が日本人で父がアフリカ系のアメリカ人です。四年くらいアメリカにも住んでたんだけど、両親が離婚しちゃって、それからはずっと日本在住です」と自己紹介してくれた。百六十センチ程の細身で、肩までの髪にストレートパーマをかけ、目鼻立ちの整ったなかなかの美人だった。
ポールさんが「遠慮しないでくつろいでね」と言ってくれた。
「自分の家みたいね」ネハさんがからかうと
「半分くらいそうでしょ?」ポールさんは笑った。
自己紹介の後は、菓子をぱくつきながら歓談した。
話しているうちに、僕たちは驚く程似通った経験をしてきていることが分かった。会話を重ねるうちに、まるで遠い昔からの親友に久々に再会したような懐かしさを覚える程だった。
中でも、キワナさんは気になる存在だった。日本語を母国語とする黒人に会うのは初めてだったから、いつか二人きりで話してみたい、という気持ちが早くも芽生えつつあった。
その日、僕たちはそのまま夜まで和気あいあいと語り合った。
日曜日。
僕たちは街中の映画館で新作映画を鑑賞した後、すぐそばのレストランに入った。
席に着くなり、ポールさんとネハさんがトイレに立ったので、僕はチャンスとばかりにキワナさんと連絡先を交換し合った。
注文した料理を待っている間に、ホールに備え付けのテレビから、コンビニ店員が万引き犯を撃退したというワイドショーのニュースが流れた。
僕は興味を覚えテレビに見入ったが、横に座ったポールさんは、店員が犯人を追い払う映像を見るなり、いかにも気まずそうな表情を浮かべ目を伏せてしまった。
「どうしたんですか?」不思議に思って尋ねると
「小学生の頃、万引き犯にサッカーボールを蹴ったら、そいつの股間に直撃して地面をのたうち回るようなことになっちゃって、やり過ぎだって叱られたことがあってさ。ちょっとした黒歴史なんだ」と渋い顔で答えた。
「それは痛い……」
「犯人を倒した後、買い物してたおじいちゃんに意気揚々と報告したら、叱られちゃって。あの時はショックだったなあ……」
慨嘆する様子がおかしく、僕と女性陣はクスクスと笑い出した。
「その話、詳しく聞かせてよ」
ネハさんが興味ありげに言うと、ポールさんは少しの間逡巡したのち、語り始めた。
「小学五年の夏休みの話なんだけど、俺一人でイギリスに帰省したことがあったんだ。おじいちゃんにシャーロックホームズ博物館に連れて行ってもらった帰りに、ショッピングモールに寄って、おじいちゃんが買い物してる間、俺はモール内の書店で立ち読みしてたんだ。そしたら、後から入ってきた背の高い男が店員から見えない位置で棚の本をいじくってるのが視界に入ったわけだよ。不審に思って、バレないように観察してたら、そいつ、本のバーコードだけを器用に切り取ってるんだ。万引きだ! と思ってドキドキしてたら、男は数冊の本を手提げバッグにそっと入れて、足早に店を出て行った。セキュリティゲートがあったんだけど、当然反応しない。俺は慌てて、そいつの跡をつけていった。俺は男を追いかけながら、絶対この手でとっちめてやるぞって功名心で頭の中がいっぱいになってた。冷静に考えれば従業員とか周囲の助けを借りた方がいいに決まってるのに、それは手柄を横取りされることだと認識しちゃってたんだな。それで、男がモールの外に出て行って、自分の車の横でバッグの本をチェックしてたから、俺は走り寄って『本を返せー!』と大声で叫んで、いつも持ち歩いてたサッカーボールを男のまたぐらに向けて思い切り蹴った。するとボールは一直線に飛んでって、男の無防備な股間にズバーーン! と猛烈な勢いで命中した」
そこまで聞くと、ネハさんは堪え切れない、といった様子で吹き出した。
キワナさんは半笑いで「痛そう」という表情を浮かべている。
「幸い、男が軽いけがで済んだから、俺はお咎めなしになったんだ。でも帰りの車中、俺はおじいちゃんに説教された。正確には七割叱られて、三割は褒められるって感じだったけど。それでも当時の俺には大ショックだった。おじいちゃんはいつもホームズみたいに鹿追帽にインバネスコートを羽織ってて、飼い犬にワトスンって名前を付けたり、家でホームズのセリフを口走ったりするような探偵マニアだったから、怒られるなんて想像さえしてなかったんだ」
「まあ、そこは若気の至りってことで」
僕がフォローすると、ポールさんは「若すぎたよ」と笑った。
「それにしても、おじいさんのキャラ濃いですね」
「面白いおじいちゃんでしょ? おばあちゃんは死んじゃったけど、今も元気でやってるよ。相変わらずホームズのコスプレが普段着なんだ。すごく保守的な人だったんだけど、最近になって外国文化に心を開き始めて、今は日本の探偵アニメを字幕で見てるらしい」
「私もそんな個性的なおじいちゃん欲しいわー」
ネハさんが羨ましそうに言った。
「ネハにはスピード狂の親戚がいるじゃないか」
とポールさんが言うので、僕は俄然興味が沸き
「スピード狂? どんな人ですか?」
とネハさんに訊いた。
「えっと、私の親戚で、インドで稲作をやってるけっこうイケメンのいとこがいるんだけどね、彼は毎年、収穫物を小さいボートでお客さんに届けてるんだ。三年前にどこからか強力なジェットエンジンを調達してきて、ちょうど遊びに来てた私に『ネハも一緒に乗ろうよ』って誘ってきてね」
そこまで言うとネハさんは、スマホをポケットから取り出し、僕に見せた。
茶色に濁った水を湛えた河にボートが浮かび、ネハさんと顔立ちの整った浅黒い肌のお兄さんが、ボートの床にしゃがみこんでいる。
ボートの後部には米俵がいくつか置かれ、最後部に新品らしいエンジンが取り付けられていた。
お兄さんがエンジンをスタートさせると、重低音が唸りを上げ、ボートがゆっくりと前進し始めた。最初の数秒間はゆったりとした速度だったが、突如エンジン音が高音に変わり、水面を爆走し始めた。
映像はボートに取り付けられたカメラに切り替わり、船床に突っ伏して叫び声を上げるネハさんと、上半身だけを起こし前方を見てヘラヘラ笑うお兄さんが映し出された。
あまりの速さに周囲の景色が飛ぶように変わっていく。
河の脇を走る車の数倍の速さだったので
「車より速いじゃないですか」と僕が驚くと
「たぶん百キロ以上出てたと思う」とネハさんはさらりと言った。
今度は岸辺から撮影した映像に切り替わった。河の彼方にボートが見えたと思うと、あっという間にカメラ前の水面を切り裂き、轟音と共にフレームアウトしていった。
動画はお客さんと思われる人にお兄さんが米俵を渡すシーンで終わった。お兄さんが笑顔でお金を受け取る間、ネハさんがボサボサになった髪を必死に撫でつけているのがおかしかった。
「豪快な人だなあ」僕が素直な感想を言うと
「あれで普段は意外と繊細なんだよ。恋人に『あんたって大型犬みたいね』って言われて大喧嘩して十日くらい寝込んだり」とネハさんはなぜか嬉しそうに言った。
その後は、僕が父親の太鼓作りの話を披露したりして、陽が傾きかけた頃に解散となった。
連絡先を交換した後、変に意識してしまってキワナさんとまともに話せなかったので、その日の夜早速ラインすることにした。
まどろっこしいやり取りは面倒だったので、「今度、フクロウカフェに行きませんか?」と直球で誘ってみた。
フクロウカフェを選んだのは、キワナさんのスマホの背景がフクロウの画像だったから、という実に安直な理由だった。
ラインを送りドキドキしていると、二つ返事で「行きたーい!」と返信が来て、翌週の日曜に会うと決まった。
とんとん拍子で約束を取り付け、僕は嬉しさのあまりベッドで雄たけびを上げた。
日曜。
僕とキワナさんは、二人きりでフクロウカフェに入った。
人間関係の親密さを増すには、隣り合って座った方がいいとネットで見たので、窓際のカウンター席に二人並んで座った。席の周囲には、ケージから放たれた何匹ものフクロウたちが好き勝手な場所にとまっていた。
「今日はわざわざありがとう」
二人分のコーヒーを注文し、僕が改めてそう言うと、キワナさんはニッコリ笑った。
「全然。日本語ネイティブなブラックの子なんて滅多にいないから、誘ってくれて嬉しかった」
「それを聞いてほっとしたよ。集まりにはいつから参加してるの?」
「一年くらい前からかな」
「けっこう長いんだね。メンバーはずっと三人?」
「他にも二人いたんだけど、国に帰っちゃった」
「どこの国?」
「ブルガリアとロシア」
「へえー。てっきりアジア系ばかりだと思ってた。キワナさんみたいな人に会えるとは思ってもみなかったよ」
そう言うと、キワナさんはニッコリ微笑んだ。そして、
「なんか、こんな外見だと色々あるよね?」と内緒話をするようなトーンで言った。
「うん……。まあ、色々あるね」
「私、スポーツとか苦手なんだけど、どこに行っても運動神経抜群だって思われるんだよね」
「それは俺もある」
「大食いだと思われるとか」
「あるねー」
「漢字が読めないと思われるとか」
「ある」
「初対面の人に自己紹介する時、定型文を用意してるとか」
「あるある!」
僕がそう言うと、二人は顔を見合わせて大笑いした。
そうしているうちに、じんわりとした同類意識が心の中に兆し始めた。そして、この人に隠す必要はないだろうと、僕は冤罪事件からアフリカ行きまでの流れをかいつまんで話した。
キワナさんは深い同情を寄せつつ、話を聞いてくれた。僕が財津に責め立てられる場面では、涙ぐんでさえいた。
聞き終えると
「酷い……」と呟き、黙り込んでしまった。
「それから人間不信にもなったし、自分がどの国の人なのか、さっぱり分からなくなっちゃったんだよね」
「無理ないよ」
キワナさんはそう言い、自然な共感を示してくれたから、心の傷が少しだけ癒えるような気がした。
そして、今度はキワナさんが自らの生い立ちを語り始めた。
キワナは日本人の母多恵子と、アフリカ系アメリカ人の父マイクとの間に、東京の古びた病院で生を受けた。
母多恵子はライブハウスに通うのが趣味の社交的な女性で、父マイクはデトロイト州出身のラジオパーソナリティだった。
キワナを宿した多恵子は、いわゆる里帰り出産で、生後九ヶ月まで母子ともに日本で安静に過ごしたのち、父マイクが居を構えるデトロイトへと本格的に移住した。
デトロイトはあまり治安がよくないこともあり、幼少期のキワナはほとんど家の外に出されずに、蝶よ花よと育てられた。
マイクの勤める小さなラジオ局は、ヒップホップ専門のチャンネルを扱っていたから、マイクにはラッパーの友人が多かった。そんな事情もあって、家族以外の遊び相手といえば、タトゥーが体中に刻まれていたり、派手なアクセサリーを身に付けたりしている強面の男たちばかりだった。
そんな環境で、キワナは周囲からたっぷりの愛情を受けて暮らしていたのだが、四歳の頃、夫婦は破局を迎えてしまう。
マイクがディスクジョッキーを務めるラジオ番組で、アマチュアのラップバトル大会の優勝者をプロデビューさせる企画が持ち上がったのが事の発端だった。
マイクも乗り気で企画を進めて行ったのだが、大会前のある日、出場予定の若いラッパーの親から、カネを払うから息子を優勝させて欲しいとメールが届いた。
誠実なマイクは当然、申し出を断り、そのラッパーに対し出場禁止の措置を取った。
そして、SNS上で息子と親の名前を晒し、「この卑怯者はラップを辞めるべきだ。このような行為はヒップホップ文化に対する冒涜だ!」と強い語調で非難した。
SNSには多数の「いいね」が付き、賄賂親子の醜態がネットに晒される結果となった。
そのまま、大過なく大会は開催され、無事に優勝者をデビューさせる流れとなったのだが、マイクの番組に優勝者をゲスト出演させたその日、事件が起こる。
無事に放送を終え、地下駐車場に向かうと、マイクの愛車が無惨に叩き壊されていたのだ。
マイクは慌てて警察に連絡し、次いで多恵子にも電話をかけたのだが、何度コールしても応答がない。急いで後処理を済ませタクシーで帰宅すると、家中の窓が叩き割られていて家はもぬけの殻になっていた。
「私と母親がキッチンで父の番組を聞いていたら、突然窓ガラスが割れる音が響いて、家の中が真っ暗になったところまでは何とか覚えてる。家に侵入してきたのは暴力的な白人至上主義グループのメンバーたちだった。賄賂親子が復讐のため、うちを襲うよう彼らを焚き付けたのよ。私と母はさらわれ彼らのアジトに閉じ込められた。幽閉されていたのは二日間だったんだけど、私はショックが大きすぎたのか記憶がほとんどないの。母から聞いた話では、アジトはごく普通の一軒家の地下室で、メンバーは白人が八割くらいだったけど、なぜかアフリカ系やアジア系も数人混じっていたそうよ。母は死を覚悟していたけど、身体を拘束されただけで暴力行為はなかった。二日後の夜中に警察が突入してくれて、私たち親子は無事に救助された。父と再会できた時、私は緊張の糸が切れたのかギャンギャン泣いてたって。幽閉されてる間に、母は結婚生活はもう続けられないと決心してしまったみたいで、それから半年くらいで離婚が成立して、日本へと引っ越したの。私は父が好きだったから離れるのは寂しかったけど、身の安全が第一と説得されて、しぶしぶ『分かった』って言ったんだ」
その日から、何度か二人きりで遊んだ。
集会でも会っていたから、ほとんど毎週のようにキワナに会っていたことになる。
キワナについての事柄が断片的に集まってくるにつれ、僕の思いは揺るぎないものへと変わっていった。
彼女のことが好きだ、と。
恋をしていた。
日曜日。
僕たちは二人でドライブしていた。
僕は奮発してオープンカーをレンタルし、海沿いの道を走った。
二人ともサングラスをかけていて、ハリウッド映画のワンシーンみたいだと思った。
砂浜に程近いスーパーの駐車場に車を停めると、海に落ちる夕焼けが正面に見えた。濃いサングラスのおかげで眩しくなかったから、そのまましばらく海を眺めることにした。
「きれいねー」
助手席のキワナが感嘆の声を上げた。
心の内には恋心が抗いがたく巣食っていて、キワナがそばにいるだけで心臓の鼓動が速くなった。
(この人さえいれば、他に何もいらない)
恋の熱情に浮かされて、僕は本気でそう思っていた。
夕焼けを眺めるキワナの横顔を見ていると、愛おしさが溢れてしまい
「俺と付き合おうよ」とつい口走ってしまった。
キワナは驚いて僕を振り向いたが、その表情は困惑を隠し切れていなかったから、次第に焦燥感が湧いてきた。
「ごめんなさい。ちょっと難しいんだ」
視界が暗くなる程ショックだった。
心臓が嫌な感じに脈を打ち続けた。
「…………どうして……?」
やっとの思いでそう尋ねると、キワナは心底申し訳ない、という様子で
「ミンミンのことは嫌いじゃないんだけど、実は近々ニュージーランドに移住しようと考えてるの」と言った。
(嫌いじゃないなら、もう少し検討してくれてもいいんじゃないか?)
抗議めいた気持ちが微かに兆したので、女々しく映るぞと必死に自分に言い聞かせた。
「分かったよ」
僕はぶっきらぼうに言って、虚勢を張った。
家に帰ってベッドに身を投げ出すと、心にぽっかりと大穴が開いたような喪失感が僕を覆った。
(あんなにうまく行きそうだったのに……痛い。心が痛い)
比喩ではなく、本当に心臓が痛むような感じがした。
痛みに悶えているうちに湧いてきた感情は、怒りだった。
(断るんなら、あんなに二人きりになるなよ。二人でデートしてあんだけ楽しそうで『気が合うわー』って態度だったら、フツー勘違いするだろうに。まったく、人を小バカにするのも大概にしろよ)
そんな怨嗟に近い感情がこんこんと湧き出るようにしつこく続いたので、僕はクタクタに疲れ果ててしまった。
(俺は自分で思ってるよりも随分ガキなのかもしれないな)
僕は暗い部屋の天井を見上げながら、自らの幼さを恥じた。
翌日の夕食後、僕は自室でニュージーランドで就ける仕事について無意識に調べ始めた。
ふいに、日本語教師としてニュージーランドへ移住する自分が思い浮かんだが、すぐに打ち消した。
(いや、それ普通にストーカーだから)
僕は頭を振って雑念を払った。
ため息をつきパソコンの電源を落とし、何となくスマホをいじっていると、サフラから国際電話がかかって来た。
急な着信に驚き、出るかどうか迷ったが、帰り際のサフラの涙を思い出し、出てやることにした。
「民民久しぶり。今大丈夫?」サフラの元気な声が耳に響いた。
「……大丈夫っちゃ大丈夫だけど」
「ちょっと聞いてほしいことがあってさ。あ、それとこの前の日曜、ずーっと車を運転してたでしょ? アプリの位置情報がすごいスピードで動きっぱなしだったから、どこに行ってたのかなって気になっちゃって」
僕は生傷を突かれたような気分になり、苛立ってしまった。声に出ないよう冷静に
「サフラちゃん、それストーカー予備軍かもよ」とやんわり注意した。
「……あ、ごめん……」サフラは声を落として謝った。
「で、聞いてほしいことって何?」
「……実はね、ポンのことなんだけど」
「ポン? あいつまだサフラに用があるの?」
「そうみたい。この間、家にポンの手紙が送られてきて『二つの波動を持つ者の居所を教えろ。二つの波動だぞ。サフラは当然知ってるだろう?』とだけ書いてあったの。ポンは最近怪しげな霊媒師の所に通い詰めてるらしいから、それと関連してるんだと思うんだけど、何か不気味で。バリーは霊的なことが大の苦手で頼りにならないのよ」
「うーん……二つの波動って何のことだろう? 僕にもさっぱり分からないよ」
「だよね……。いいの、民民の声を聞いて安心したかったっていうのもあるから」
そして、サフラの気が済むまで話を聞き、さしたるアドバイスもできず通話は終わった。
僕は溜息を吐きベッドに横になり、二つの波動とかいう中二病的ワードについて少し考えたが、頭が疲れてきて十分も経たぬうちに眠ってしまった。
冤罪事件、アイデンティティの混乱、失恋というトリプルパンチに見舞われ、僕はノックアウト寸前だった。
工場の手仕事が気を紛らわすいい手段だったのだが、失恋のショックが加わることで、作業中に突然集中力が途切れるようになってしまった。
失恋から数日後の仕事中、危うく煮えた油が手にかかりそうになり、これは危険だ、と仕事終わりにリーダーに配置替えの指示をもらい、僕は這う這うの体で帰途についた。
駅のそばを通りかかると、肩を叩かれた。振り返ると同じく仕事帰りらしいネハさんだった。
「元気ないじゃん」
そう言われ
「最近、色々あって」と言うと
「キワナ?」と図星を突かれた。
「やっぱ、分かります?」
「そりゃ分かるよ。最近集会に来ないのもそれが原因でしょう?」
「バレたか……」
「ねえ。今から時間いい?」
ネハさんはきびきび言い、僕を駅前のファミレスへと連れ込んだ。
席に着き、適当に安いコーヒーを頼む。
「君が来ないと寂しいって皆言ってる。やっぱ、キワナがいると辛い?」
「そうですね……。告白して、玉砕しちゃいましたから。何かキワナさん、ニュージーランドに行っちゃうらしいですよ」
「ニュージーランドか……。あれ、結構行く行く詐欺だったりするんだけどね。お母さんも渋ってるらしいし」
「日本に残る可能性があるってことですか?」
「大アリよ」
僕は急に元気が出てきて
「じゃあ、まだ付き合えるチャンスがあるってことですよね」とネハさんをまっすぐ見て言った。
「ある……と、思うよ。そうだ! 私、キワナのお母さんの電話番号知ってるから、ニュージー行きを諦めさせるよう、入れ知恵してあげよっか」
「そ、そんなことしてくれるんですか?」
「うん。私もキワナは日本にいるべき人だって思ってるからさ」
翌々日、ネハさんから連絡があり、入れ知恵の結果、キワナのお母さんはニュージーランド行きに大反対になったと教えてくれた。
これで、キワナが日本に残る可能性が高まったと、僕は期待を持った。
そのまま、一週間が過ぎた。
僕は配置替えで少し楽になった仕事に精を出すよりなかった。
そして日曜、誰もいない居間でテレビ碁トーナメントの対局を見ていると、スマホが鳴った。ネハさんだった。
「もしもし民民君? 今大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
「吉報だよ。キワナが日本に留まるってさ。しばらくは海外渡航へ色気を出さないらしいから、チャンス! 頑張って」そう早口で言うなり、一方的にガチャリと電話を切った。
僕はスマホを耳に当てたまま、希望の光が心に差し込む思いだった。
僕とキワナは、まだチャンスがある。
そう思うと、期待に胸が高鳴った。
が、しばらくすると揺り戻しが来て、ニュージーランドに行くというのは方便で、僕自体に関心がない可能性も大いにある、等とネガティブな考えにも捉われた。
しかし、とにもかくにも、まずは二人で会わなければ何も始まらない。
僕は久方ぶりにキワナに電話してみた。
キワナは、元気そうだった。
「今度、二人で会わない?」
「……私が日本に残るって聞いたんだ」
「うん。風のうわさで。またフクロウカフェに行かない?」
「いいよ。今度、またね」
あっさりデートの約束を取りつけ、僕は天にも昇る気持ちだった。
カフェのフクロウたちが、また僕たちを出迎えてくれた。
「やっぱり、僕はキワナと付き合いたいよ」
雰囲気が落ち着くと、僕は単刀直入に言った。
「私も民民と一緒にいたい」
「離れてる間に僕のよさに気付いたとか?」
「そういうこと」
キワナは照れたように笑った。
そこから、僕は壊れた。
キワナ。
好きだ。
君だけを。
寄り添うキワナと、ポールさん。
「ポールが本命。民民は遊び」
なぜ。
なぜ。
なぜ……。
嘔吐。
空港。
旅客機。
モロッコ。
古い宿。
小さな部屋。
輪っかのついた、ロープ。
朦朧とした、意識。
輪っかに両手をかける。
乗ったテーブルから、足を踏み出す。
首に、ロープが締め付けられる。
世界が、地獄の業火に包まれた。
息が、できない。
一呼吸たりともできない。
息を吸わせて……。
お願いだから……。
息を吸わせて……。
お願いだから……。
息を吸わせて……。
お願い……。
お願い……。
お願い……。
苦しいよ……。
苦しいよ……。
苦しいよ……。
どれだけもがいても、ロープは外れない。
地獄の苦しみ。
意識を失いかけたその時、ロープが切れ、僕は床に落下した。
首の痛みが少しずつ、少しずつ収まってくると、僕はのろのろと起き上がった。
そして、赤ん坊のように無様に号泣した。
一晩宿に泊まった後、僕はモロッコの玄関、ムハンマド五世国際空港内のカフェに立ち寄った。
窓際の席に座って適当にコーヒーを頼み、人でごった返している外の通りを呆然と眺めた。
脳みそが活動することを拒絶しているかのようで、何も考えられなかった。
そのまま、スマホをいじるふりをしながら小一時間程無為に過ごしていると
「死相が出てますな」
突然、日本語が降ってきた。
驚いて顔を上げると、隣の席で日本人らしい中年の男が僕を覗き込んでいた。図星を突かれ、咄嗟に言葉が出なかった。
【第八話 終わり】