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植木等に学ぶ、「無限ループ」からの外れ方

〝わかっちゃいるのに、やめられねぇ。”
昔むかしの大昔、植木等というコメディアンがテレビの中で踊りながら歌っていた。(『スーダラ節』というぶっ飛んだ曲です。)
それを見て「よい子」だった私は首をかしげた。
「どうして、わかっているのにやめられないの? いい大人なのに。」

「いい大人」。
「未完成の子ども」と違って、分別があって、賢くて、正しくて、立派なのが「大人」だと思っていた。

でも自分自身が「いい大人」になってみて、それがとんでもない誤解であったことを思い知らされた。

なんのことはない、「いい大人」だからこそ、いや、「いい大人」になればなるほど、「わかっちゃいるのに、やめられねぇ」ことが増えていくのだった。

さらにやっかいなのは、大人になればなるほど、「やらないといけないこと」が加速度的に増える。ところがそれと比例するかのように「やめられねぇ」ことも増えていくのであった。

実は早くからうすうす分かってはいた。「やらないといけないこと」は「できるだけ早く取りかかって早く終わらせる」のが結局いちばん確実で、なおかつ結果的にいちばん楽であること。

ところがところが、「やらないといけないこと」はなぜかなかなか始められず、取りかからなければ、と思うと反対に、「やらなくていいこと」ばかりに手を出してしまう自分がいた。

期限ギリギリ(日本語より、”deadline”という英単語の方がむしろ真に迫っていますね。)まで放置して、もう本当にどうにもならないところに達したところで、まさに「尻に火がついた」ようにあわててドタバタとやり始めること。

そうして、いざやり始めてから思い知るのは、「あまりにも時間が足りない」という厳然たる事実。
そのまま最後はおおかたの予想通り、時間切れの不完全なままでの終了となるばかり。

そんな絶望の中にただひとり茫然と立ち尽くし、今さらながらのことのように呻く。
「ああ、もっと時間があったなら。」

違うだろ、そうじゃないだろお前。

「時間」は山ほどあった。むしろありすぎるほどあった。もしくはありすぎるほどあると「あえて」錯覚した(思い込んだ)。

しないといけないことを早く始める前に、しないといけないことを本当にしないといけなくなるまで(なんかややこしくてスミマセン)、「やらなくていいこと」の方を始めてしまった。
「しないといけないことは直前までしないでおくほうが、いざ始めたら火事場の馬鹿力が出せるのだ」とかうそぶいて。

「火事場の馬鹿力」は、「早くからゆっくり始めた力」に遠く及ばない。
ウサギにどんなに瞬発力があっても、カメの持久力にはかなわなかったように。

そんなことをもう何十回、何百回も、いやヘタをしたら何千回も、味わってきた。それでなんども修羅場をかいくぐってきた。
身から出た錆によって、身も心もズタズタ、ボロボロになったことも。

いいかげん学べよ自分、と思う。

ところが愚か者は歴史に学ばない。
愚か者は習慣に従うばかり。

かくして、「わかっちゃいるけど、やめられねぇ」のである。
冒頭の偉大なるコメディアンは、偉大なる人生の真実を歌っておられたのだった。安心して、これからの人生も「先延ばしで締切ハラハラドキドキタイム」を味わおう。


…と、ここまで書いて、ハタと気づく。
「わかっちゃいるけど、やめられねぇ」と歌った植木等本人は、「そういう人」じゃなかった。
「そういう人」を演じたのだ。
「わかるよわかるよその気持ち。俺にもそんなところが多分にあるもの」と「そういう人たち」に寄り添いながらも、自分自身は「やるべきこと」を光の速度で次々にやりおおせていったのだ。

愚かさも馬鹿らしさも含めて人間の現実をしっかり見据え、その上で自分のやるべきことを次々とやっていった。

だからこそ、あれだけの仕事量をこなし、国民的な人気を博するコメディアン、俳優となれたのだ。

そんな当たり前のことを、今さらながらに気づいてこうしてnoteに書いてみる。
書くことで、ほんの少しだけでも「無限ループの外に出る」ことができることを期待して。

自分よ。

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