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地震物語(15)
【1995年4月】
通勤するためにJRに乗る。西宮市と尼崎市を隔てる武庫川を越える。すると倒壊家屋が激減する。大阪・梅田に近づくにつれて地震の被害はあまり目に見えなくなる。逆に西に向かうと爪跡は激しかった。私は休日になるたびに西に向かっていた。幹線は規制されていたが被災地相互の交通が遮断されている訳ではなかった。土地勘のある私はクルマで何度も西宮から須磨に至る被災地を通った。
西宮、芦屋、東灘、灘、三宮のある中央区、兵庫、長田、須磨、どこがひどくてどこがマシとは言えない被害だった。ある時は王子動物園に息子を連れて行き、ある時は元町に買物に出かけ、ある時は姫路方面からの帰途に神戸市内を通ることを選んだ。カーラジオは自衛隊が作った風呂や銭湯の情報、避難所での催しやインタビュー、連絡が取れない人々への個人情報を流し続けていた。それを聞きながら、焼けた町やひっくり返ったビルや達磨落としに遭ったマンションを見る。悔しさが募る。
正直言って確かめたかった。事実をこの目で見届けたかった。あの災害が今この町をどう変貌させてしまったのか。好奇心は否定しない。被害はまだら模様に広がっていた。ある地域は殆どの家屋が全壊し、ある区画は何事もなかったように人々が生活していた。煙突が傾いた銭湯が繁盛している一方、仮設の市場には客が全くなかったりした。運と不運がまだら模様に濃淡を描いている。自然に私たちは無口になった。分かっていたことだがこの現実の前に私たちは無力だった。