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-(n-1) 解説

この物語を書こうと思ったのは、「私」という名をどう使うことができるかについて、最近私が気になっている使い方の一つを表現したいと思ったからです。それはいわば日記の「私」です。この「私」と対比して、これまで自分が主に考えていたのは他者を前にした「私」でした。例えば、「私は~と思う」や「私の場合は~だったよ」というときです。こうした私はいざ他者の目を離れると消えていくものだと、すなわち運動と知覚の連環とか身体感覚の所在とか疑りだすあの危なっかしい状態に逆昇る反対側にある、いっときの幻であり、他者達から伝わる体熱や流速によってかろうじて維持される「効果」であると言えます。これに対して、日記の「私」は必ずしも他者の存在を前提にしません。それを示すため、この物語の舞台は無人島(一人住んでいますが)に設定しました。日記の「私」は、私を強くするために存在します。この「私」がない状況では、人はまるでお尻の不快感にただ泣き喚くばかりの赤子のように、言葉にならない感情に渦巻かれて無力に陥ってしまいます。しかし私は「私」という名を用いることで、「〇〇ということがあった。私は嫌だと思った。」と自らに語り聞かせることで、仄かな誇りのようなものを取り戻すことができます。それは譬えるなら、とめどなく押し寄せる不快感の川流をいなし、その内の柔らかさ・脆さをかろうじて守り抜く砂堤のようなものです。

世界に第一主語なるものがあるとすれば、それこそが「私」であると考えます。あらゆる経験(主語の分節化)は「私」という芯から流出し、しかし私は「私」という芯が空洞なのか中が詰まっているのかを振り向いて見ることはできません。私は「私」の表壁に背を張り付いて外と向き合っているからです。「私」という芯を一本立てることで、中心と外縁という形で世界が構造化されるのです。そして私はその中心から、確かに足場を踏んで外界と向き合うことができるのです。(ただしその「私」は日記的な形式で絶えず更新・確認されなければなりません。)

このように「私」は『我思う故に我あり』などという限界状態にならずとも、『知覚の束』などと放り捨てずとも、確かにあって、外界と向き合う私にとってすでに大切な砦なのです。そして、それはあらゆる経験が(私によって反省されて)経験となるための始まりの点でもあるのです。かといってそれは自明な実体では決してなく、私によって私のために絶えず維持管理されなければ見る間に流失してしまう仮初の安定にしかありません。
そのような、まさに川の中の砂堤のような確かさ/脆さのものとしての「私」という捉え方を、ここに提出したいと思います。

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