スーダラ節
スーイスーイスイダララッダ スラスラスイスイスーイ♪
平成生まれでも耳にしたことがあるだろう、ひょうきんでなじみやすいメロディ。
僕も以前まではこの部分をかろうじて知っている程度だった。だが、つい先日星野源の『よみがえる変態』というエッセイがきっかけで、改めて「スーダラ節」と出会うこととなった。
エッセイには、ライブでこの曲をカバーした時に涙してくれたお客さんがいたことがきっかけとなって、星野源が音楽によりいっそう打ち込むようになったことが語られている。そのカバー(と同じか分からないが)は音源化されていて、今はサブスクリプションでも聴くことができる。僕はまずその星野源カバー(正式にはSAKEROCK名義)から聴いた。
ふんわりと優しい星野源の歌声で、「ちょいと一杯のつもりで飲んで♪」と始まる。「気がつきゃホームのベンチでごろ寝」、そんな歌詞だったんだ。そしてあの明るくやるせない一節がやって来る。「わかっちゃいるけどやめられねえ」((ヨイショ!))スーイスーイスイダララッダ、スラスラスイスイスーイ♪…
インストバンドらしく、フルートとトロンボーンの合いの手が美しい。大勢の声が加わるラストの大合唱も感極まるものがある。めちゃくちゃ良い曲だなと素直に思った。ライブでお客さんが涙したという話も腹の底から納得した。
その後、本家の方も聴いてみた。つまり植木等の歌う「スーダラ節」だ。1990年の紅白歌合戦に出場した際の「スーダラ伝説」というメドレー版を観た。
これがまた圧巻のパフォーマンスだった。植木等はまず歌が上手い。そして、なんともいえない気品のあるおどけ方。周りの出場者を巻き込んで、というよりは伴奏だけで皆とりこになってしまっている様子だった。時おり周囲に振り返って笑いかけ、笑いかけられた方は一人残らず彼の倍以上の笑顔になっている。たくさんのスターの中心に立ちながら、彼は誰よりも輝いて、その場の全てを照らしていた。その場の全ての人々の心に眠る、大小様々な日々の鬱憤を、まるごと肯定する力があるようだった。
「スーダラ節」のこの良さの源は、いったい何なのだろうか。あのサビ。軽薄さの感覚をそのまま具現化したようなメロディとフレーズ。しかし繰り返せば繰り返すほど、妙な説得力が込み上がってくる。そうだ。スイダララッダのスラスイスイだ。人生なんて、か、あるいはオレなんて、か、主語はよく分からない。そもそもスラスイスイが何かも分からない。だけど、分からないままだけど、いや分からないままであるからこそ、このメロディは聴き手を直接肯定してくれる。直接、というのは意味の外側で、ともいえる。とにかくこのサビには、言葉にならない力が備わっている。
サビ前の歌詞では、酒に博打に女にと、昭和の駄目オトコを詰め合わせたような物語が歌われる。ここもまた大切な部分だ。星野源カバーでは、そのオトコは星野源本人ではないと感じられる。もちろん聴いている我が身に重なるわけでもない。けれど、その中年オトコの、悲哀に溢れる背中を想像するのは簡単なことだ。僕はそのオトコの肩に手を回したくなる。夜道をひとりトボトボ歩く彼は、だけど僕の10m先にいて、伸ばした手は届かない。そんな姿が思い浮かぶ。
いっぽう植木等の歌唱でも、たしかに彼も駄目オトコになりきっているわけではない。しかしその代わり、彼は僕たちみんなに眠るあらゆる「駄目オトコ」(オトコでもオンナでもきっとある、「わかっちゃいるけどやめられねえ」に引っかかる引け目みたいなもの)を一身に背負って歌っている。そして彼自身の肉体が持つ圧倒的な力で、それをまとめて昇華してしまう。植木等の「スーダラ節」は晴れやかで、それは実際彼が、皆の心の中の曇りを晴らすからなのだ。
僕はどちらのバージョンも好きだ。星野源版は楽器隊が豊かで、フルートの音色が意味を超えて直接心に沁みてくる。おそらく意味を超える(というような)ことはアーティスト星野源のテーマの一つで、だから楽器の使い方や楽曲の汲み取り方が物凄く上手いのだ。また、彼の歌声もすごく好きだ。植木等のバージョンは、完成された一つのショーだ。途中の世情的な歌詞に笑い、最後にまた「スーダラ節」へ帰ってきた時のあのメロディにウルッとくる。たった数分間に笑いも涙も凝集されている。何より、歌手本人の人柄が楽曲と溶け合い、幾重もの相乗効果を生んでいる。
スーイスーイスイダララッダ スラスラスイスイスーイ♪
スーイダ スイダララッダ スラスラスイスイスーイ♪
帰り道、繰り返し口ずさんでいると、なんだか気持ちよくなってくる。音楽の魔法とでもいいたくなる感覚だ。もしまだ聴いたことのないあなたは、騙されたと思ってぜひ一度聴いてみてほしい(できれば両バージョンとも)。