世の中の「正解」の側にいなきゃと思ってしまうから苦しい
韓国のイラストレーター、ハ・ワン(하완)さんの『あやうく一生懸命生きるところだった』を読んだ。
本の帯には「毎日、走り続け疲れきったあなたへ。」というキャッチコピーが書かれている。私はというと、「毎日、走り続けてもいないのになぜかいつも疲れきっている」といったところなので、厳密に言うとこの本のターゲットとは少し違っていたのかもしれない。それでも、読み進めるごとに共感できたし、笑ってしまう言葉もあれば、新たな気づきを与えてくれる言葉もあって、読み終わったあとは心が穏やかになった。あやうくどころか今までもずっと一生懸命生きなかった、生きれなかった私だからこそ、この本の発するメッセージを素直に受け取れたのだと思う。
まだ学校に通っていたときから、私はどうしても一生懸命に生きれなかった。勉強が嫌いだったから大学受験のときも何にもしなくて、唯一できた英語の点数で行けた大学になんとなく進んだ。なんとなく真面目に講義だけを受けて、うっかり卒業できてしまったあとは、社会でやっていく自信があまりにもなさすぎて、大卒で非正規で働き始めた。どうしても、もうどうしても、いい大学やいい企業に行くために努力をすることができなくて、かといって自分でやりたいこともなくて、生きるということそのものにいつまで経っても慣れないまま、何もしてないのに毎日疲れ果てていた。いた、というか今も、今日も、ずっとそうだ。
何もしてないのにどうして疲れるんだろう、と思っていた。
この本は、その問いに答えをくれたかもしれなかった。
タイトルにある「一生懸命」は、決して努力することそのものではなくて、「何かひとつのことを正解だと執着して頑張ってしまうこと」だと、中身を読んで思った。本の中でも著者が「なんで結婚しないの?」という問いを「まるで暴力のように感じた」と綴っている箇所があるように、世の中にはどうしても「正解の生き方」の意識と、そうでない人を特別視してしまう風潮が残っている。進学、就職、結婚、子どもを持つ、家を買う、車を持つ、そういったことが「正解」とされる考え方を世の中から完全に消し去ることは難しいし、私自身、それをどこかで「正解」だと思ってしまっている部分がある。
世の中と自分の中にある「正解」に追いつかなければと思うからこそ、現実とのギャップに気持ちだけが費やされていって、その劣等感や徒労感が、私を疲れさせているのかもしれなかった。その「正解」を信じてそこをゴールにしてしまっている限りは、どうしたってこの周回遅れは埋められないし、声援のないマラソンが終わることもない。正しくない、という事実だけが日々を先行して、私の存在はそれによって常に否定されてしまう。
誰かより上、誰かより下、誰かと誰かの「中間」ともいえない、本当は存在しないかもしれない閉じられた空間の中で、時に満たされながら、時にひどく打ちのめされながら、自分の輪郭を確かめようとする。彷徨っている。
ふたつ前のnoteにちょうどこんなことを書いていた私は間違いなく、周りとの比較、本当は違うかもしれない「正解」との照らし合わせで傷ついているし、苦しんでいるなあ、と思う。
いきなり全部の考え方や感じ方を変えるのは難しいけれど、まずは本にもあったように今の自分を「認める」ことから始めようと思った。今自分が楽しいと思うこと、幸せだと感じられること、こうしたいと思うこと、それが周りの誰かより上か下かだとか、本当はこうすべきなのにとか、そういうことは抜きにして純粋に認められれば、自然と「正解」から抜け出していけるんじゃないだろうか。
今までも今もずっと、周りが期待する通りにも、同世代の周りと同じようにも生きれなかった。そのことの罪悪感や劣等感はすぐに克服できるものではないけれど、いつか、それでよかったんだよ、と心から思えるようになりたいし、この本が私に力をくれたように、いつか私と似た誰かに確かな気持ちで、「大丈夫だよ」と言えるようになりたいなあ、と思う。
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