瓢箪から駒
しっかりめの昼食をとるため、行き帰りは歩こう、と意識高い系女子を演出する。
いつもと違う風景は興味深いが、道を間違えないようにと神経を擦り減らす。あのコンビニが見えたら曲がるのね、とひとりで納得してスマートフォンをポケットに仕舞う。交通量は多いが、人通りは疎らだ。というのも今日は平日でお昼時を過ぎている。この時間なら空いているかもしれない、と思いながら足はぐんぐん前に進んでいく。
久しぶりに訪れたこの辺りには知らぬ間にぽつりぽつりと新しい店が出来ていた。わたしが今まで気付かなかっただけかもしれないが。立ち並んだ目新しい店たちに背を向け、懐かしい気持ちで戸を引く。
大きなテーブル席がひとつ、どんと空いていた。4人席であろうその席にたったひとりで座って良いのか悩んでいると、そちらにどうぞとレジの奥から声がかかる。
まだ社会人になって1年も経たないときに一度来た。あれから5年が経つ。あの日に食べた味が忘れられなくて注文は決まっていたけれど、すぐには注文しない。店内をぐるりと眺めると、壁には日替わり定食のメニューが書き記されていた。《ベジミートの生姜焼き》というなんとも好奇心に駆られるメニューに奪われた心をぐっと数十秒前のわたしに呼び戻す。
《大豆のからあげ定食お願いします》
ここに来る前までのわたしがそっと胸を撫で下ろす。今日はこれが食べたかったんでしょ。そう思ったのも束の間。
《ごはんは玄米と雑穀、どちらにしますか?》
すっかり忘れていた。ベジミートに現を抜かしていたからだろうか。玄米と雑穀がぐるぐると頭の中を駆け巡る。最近、雑穀米を食べてなかったかもという理由で雑穀ごはんをお願いした。そして、ごはんは半分。摂食障害を患ってから食が細くなってしまったわたしは、残すのも申し訳なくてこれだけは来る前に決めていた。
待っている間に本でも読もうか、と鞄に忍ばせておいたが、黒板に添えられたミモザのスワッグに目を奪われている間に美味しそうな香りが近づいてきた。
大皿の上にちょこんと座る色とりどりの小鉢たち。優しいお顔が脇を固める。そんな彩られた空間の中、華やかにセンターを飾るのが《大豆のからあげ》。
ここはヴィーガンの方たちも楽しめるような食材で彩られたごはんやさん。最近、友人たちのポストに度々登場しており、何かのご縁と思い(しっかり影響を受けまくって無性に食べたくなってしまい)訪れた場所。
社会人になった年の瀬に逃げるように訪れたオアシス。からあげ=お肉という凝り固まった等式を知らぬ間に刻み込んでいた脳内に猛スピードで駆け込んできた味。あんなに勢いよく走ってきたのに吹き抜ける風はものすごく優しくて。
ひとくち食べて半分にしてもらったごはんのことを心底悔やんだ。脇を固めていたはずの野菜たちがそれぞれに美味しさを主張してきて、わたしの味覚を刺激する。優しい味と歯ごたえに食べることの喜びを噛み締める。センターのからあげは絡めたソースを味方につけて最高のパフォーマンスを届けてくれる。大豆のからあげ⇄雑穀ごはんというコールアンドレスポンスが最高の瞬間だった。
数十分前までは後悔していたはずの半分のごはん。
どんなに美味しくてもおなかは満たされる訳で。
お皿が綺麗になる頃には、半分にすると決断した数十分前のわたしに盛大に拍手を送っていた。
社会人になって働く人のすごさを痛感していたあの頃よりも食べられる量は減ってしまったけれど、美味しいごはんを存分に味わう感覚は損なわれてはいない。
様々なことを経て、数年前よりも視野も許容範囲も広くなって、これまで考えが及ばずにいた真後ろのことにまで目を向けられるようになった(もちろんまだまだ成長途中)。
きっとあの頃のわたしなら、食べられなくなったことを悔やんだり、未だタイムマシンが現実化されていない世界で過去のことを嘆いたり、デメリットばかりが頭のなかを行ったり来たりしていたのだろうけど。
あの頃のわたしからしたら、今のわたしそのものが《瓢箪から駒》なのかもしれない。
ぬくもりのあるその泉にまた休息を取り参ります。
美味しい驚きと嬉しい気づきをもたらしてくれる
《おやさい食堂 カラコマ》にて。
《カラコマ》と聞いて可愛いという印象しか出てこなかったわたしは勉強不足。《瓢箪から駒》から来ている店名に、《意外なところから思いもよらないものが飛び出す》という意味に、なぜ店名に?と好奇心で胸がいっぱいになった。あの頃すとんと腑に落ちたはずだった記憶はいろいろな出来事に上書き保存されてしまっていた。だからもう一度。帰りにレジのあたりを見渡して見つけたショップカード。綴られた店名の由来が、またすとんと腑に落ちた。