𝐦𝐢𝐬𝐚𝐭𝐨
味わい深い喫茶室での美味しい随想を
精神疾患を患った際のおはなしを綴りますので、覗いていただいたにもかかわらず申し訳ありませんが、苦手な方や不安感等を感じた方は途中で読むのをストップしてくださいね。 《シンタイヒョウゲンセイショウガイ》 聞き馴染みのない言葉に戸惑うわたしに、先生は丁寧に漢字とその意味を説明する。 《身体表現性障害》 ふわふわした頭にこれは大切なことだと言い聞かせて、自分を鼓舞する。気持ちが表に出せず身体的な症状として現れてしまっている、とそんな説明を受けたと思う。 当時のわたしは、
27歳が終わる。 気持ちが落ち込んだ27歳。 思い返せば一年前、《27歳おめでとう》と煌びやかなLINEが来ても、心の底から喜べなくて、どうしたら良いのか分からなくて、既読をつければ返さなくてはという義務感に駆られて未読のまま翌日を迎えた。 未読無視なんて良くないと、何度も何度もiPhoneのメモに当たり障りのないような、気丈な振る舞いに見えるような、モヤモヤを押し殺した、元気なわたしを演じ切った返信になるかを考えた。 せめて自分のモヤモヤを相手にぶつけぬように、と。
画材が変わると、絵のタッチが変わると、同じ人間が描いた作品とは思えなくなる。何面にも色が変わる、味が変わる多面体のような作品を生み出すひと。いくら目を凝らしても、見入っても飽きることのない作品たちがそこにはあった。わたしのような素人には、絵本の表紙に刻まれた《画》や《絵》の文字を確認しなければ、同一人物が描いたのだと認識できないのだけれど。 幼き頃に耳と目で追いかけた記憶はもうすっかり色褪せてしまった。それでもちょっぴり大人になった小学校低学年の記憶は頭というより心の奥にポ
短いこの時間を惜しむかのようにシャッターを切る。 桜色に色づいた花が散る。 木を鮮やかに染める緑色を見上げる者はぐんと減る。 果たして人々は覚えているのだろうか。 そこに、《春が来た》と《美しい》と眺める花が咲いていたということに。 かくいうわたしも桜の木だと認識するために呼び起こすのは桜色に色づく木の記憶。 さまざまな木々に同化するようにして姿を消す桜の木。実際はそこにしっかり根を張って存在し続けているというのに。 彼ら彼女らの声が聴けるとしたら、どんな言葉を
昨日は雨だった。桜の開花宣言を耳にした後の雨。雨の奏でる音もひんやりした風が連れてくる雨の匂いも好きだけれど、折角、寒い冬を越して暖かい春の訪れを察知して咲いた桜が雨に打たれてアスファルトの萎れた絨毯と化すことが悲しくてたまらない。 どうか耐えてくれ、と願いながら桜の木をみつめる。 一度行ったカフェにもう一度行きたくなる理由は様々ある。わたしにはその理由が大きく3つある。ひとつめはまた居たくなる空間、ふたつめはまた会いたくなる接客、そしてみっつめはまた食べたくなるあの味。
SNSのおすすめにあがってきた1件のアカウント。飛んでみるとフィナンシェの上にぱっと咲いた桜。 週に3回という貴重な開店日のチャンスをうかがう。テイクアウトもできると知り、《桜のフィナンシェ》をテイクアウトしようと心に決めていた。 お目当てのフィナンシェは『お待ちしていましたよ』と言わんばかりの視線をわたしに向ける。ショーケースに行儀よく並んだ焼き菓子たちはどれも魅力的だ。 桜のフィナンシェとアーモンドマフィンを買って帰路に着く。 家に帰ってから頬張ったフィナンシェは
心にゆとりを。 そうすることで、誰かに優しくなれるはず。 そうすることで、ひと息つけるはず。 そうすることで、まわりに手を差し伸べられるはず。 余裕のある素敵なレディになります。 いつかは意識せずとも余白のある人間に。 2024.04.02
しっかりめの昼食をとるため、行き帰りは歩こう、と意識高い系女子を演出する。 いつもと違う風景は興味深いが、道を間違えないようにと神経を擦り減らす。あのコンビニが見えたら曲がるのね、とひとりで納得してスマートフォンをポケットに仕舞う。交通量は多いが、人通りは疎らだ。というのも今日は平日でお昼時を過ぎている。この時間なら空いているかもしれない、と思いながら足はぐんぐん前に進んでいく。 久しぶりに訪れたこの辺りには知らぬ間にぽつりぽつりと新しい店が出来ていた。わたしが今まで気付
祖母が亡くなった。 わたしが大学を卒業する頃には認知症はだいぶ進行していた。就職のために引っ越しを余儀なくされたとき、《いってらっしゃい》の声はあったが、《おかえり》の声はもう実家にはなかった。帰省したときには病院での生活がすでに始まっていたのだ。 病院と介護施設での転院を繰り返しているなかで、ごはんを食べることもままならなくなったらしい。コロナ禍で会えない日々が続き、コロナが終息しつつあるなかで、面会の時間が取れ、ようやく会えたときには別人のように細くなってしまった祖母
日本という国で生まれ、日本という国で育ち、日本という国で暮らしているわたし。四季が巡ってくるのはあたりまえになってしまっている。 3月になると春が来る!と直感で理解するのと同時に、桜を纏いたくなる衝動に駆られる。わたしが纏いたくなる桜は、咲き誇る満開の桜というよりは、蕾からぱっと咲いたあの瞬間の桜のことだ。花吹雪のような大胆なドレスも素敵だけれど、指先にそっと秘めた繊細なフレンチネイルの方がわたし好みといったところだろうか。 だから、この季節はコスメポーチやドレッサーを桜
春が近づいてくる!と心躍っていたわたしを諭すように窓の外には雪が積もっている。 そんなときはまろみを帯びた香りに包まれたくなる。 火にかけた小鍋がコトコトと音を立てる。ゆっくりと張る膜が厚くならぬよう、その一瞬を見極めて火を止める。 ふわふわのブランケットにくるまれたように優しい香りが辺りいっぱいに立ち込める。 まだひとくちも味わっていないのにほっとひと息ついてしまうのは魔法だろうか。 静かに注いだマグカップから伝わる熱ですっかり暖まったわたし。 あんなに待ち遠し
昔から三半規管だけは強いわたしが通勤時間のお供にしている本たち。基本どんなジャンルでも読みたい欲は湧くのだけれど、この時間だけは小説を読みたい欲に駆られる。転職してから通勤ラッシュと疎遠になったわたしは、揺れる公共交通機関の内側でめいっぱい物語の世界に浸ることを喜びとしているのだ。 わたしの読書遍歴には波がある。 幼稚園のときには祖母の読み聞かせが楽しみのひとつだったと記憶している。誕生日に園で用意されるバースデーブックなるものにも《ほんやさん》と将来の夢の欄に先生の綺麗な
昔ながらの街並みが好き。新しく建設されるマンション。空まで伸びる高層ビル。AIと共存していく社会のなかであの頃から変わらない場所。忙しなく動かされる足がだんだんとスピードを弱めていく。路地を曲がり少し歩を進めると奥に見える望楼にトレードマークの赤い屋根。大正時代の面影を残した目的地は、大正という時代を生きていないわたしのことですら、懐かしいという気持ちにさせてくれる。 引き戸を開けて手前に並ぶ雑貨たちに心を奪われる。《欧州アンチック市》という名の催しが開かれており、なんて素
紅茶の香りを愉しむためのこの喫茶店に香水の香りはそぐわない。ランテルディもジャドールもこの日だけは留守番をしてもらう。 扉を開けるとカランコロンという鈴の音と共に茶葉の香りが鼻腔を擽る。この店のシンボルといえよう大階段を上り席に着く。予約を入れた訳ではないが、いつもわたしを出迎えてくれる角の席。わたしの特等席、と勝手に呼んでいる。 《はちみつミルクティーとシフォンケーキをお願いします》 紅茶の香りが立ち込める店内で一冊の本を開く。この瞬間が好きだ。別に重い荷物を持ってい
ノートの1ページ目を丁寧に書くタイプになったのはいつからだろうか。睡魔と闘う学生ではなかったと記憶しているが、パラパラとめくる途中の一枚と見比べても明らかに美しい。終わり良ければ全て良し。そんなよく耳にするフレーズとは不釣り合いかもしれないが。 今、新たなノートの1ページ目を綴っている真っ只中。あの頃のわたしに伝えたい。このノートは1枚、1枚丁寧に綴るからね、と。果たして、このノートに最後の1ページや1冊書き上げるという概念は存在するのかすらわからないけれど、いつが終わりに