ゼーガペインSTA~「私を細切れにする」とはどういうことか
前置き
ゼーガペインの新作なんて本当に出るんですね。
前作ADPの後もリセット祭り等で界隈が盛り上がり続けていたのは知っていましたし、昨今のリバイバルブームも知ってますけど、去年かな? プロジェクトが立ち上がって、新作の一報が出たときはびっくりしました。
根強いファンの応援と、スタッフの地道な思いが実ったものではないかと想像します。いやーよかったよかった!
私自身としては、ゼーガペインは好きですが、放送後に視聴しています。TVシリーズとADPの円盤は買ったものの、ファン交流やイベントの類は参加しない、ひっそり応援組。先日あったADPの特別上映は足を運んだものの、情報はあまり追えていないので、パチスロの情報は全く知らずに臨みました。
しかし、私のようなにわかではない強火ファンが多い印象のゼーガペイン。変な続編を出したら評判が地の底まで落ちるんじゃないかという気がして、なんだか勝手に戦々恐々としながら、舞台挨拶つきのチケットを取りました。
基本情報
ジャンル:アニメ映画(SF、ロボット)
企画・制作:サンライズ
原作:矢立 肇、伊東岳彦
監督:下田正美
脚本:高山カツヒコ
上映期間:2024年8月16日(金)~9月5日(木)
備考:STA=Statement Alphaのこと。TVシリーズと前日譚の劇場版『ゼーガペインADP』を振り返る「レミニセンス編」と、その後日談「オルタモーダ編」の二部構成になっている
↓ハッシュタグがまだnoteにないようなので追加↓
#ゼーガペインSTA
早々に監督のインタビューなども出ています。3週間限定上映なので、どんどん情報出すからまた観てね、ということなのでしょう。
本編あらすじ
ガルズオルムの脅威から世界を救ったはずのソゴル・キョウは、なぜか冬の舞浜で目を覚ます。過去の記憶を失って動揺するキョウの前に、突然、オルタモーダと呼ばれる者たちが現れ、街を破壊し始めた。彼らを止めるため、AIのルーパに導かれながらキョウは再び戦いに身を投じていく。
ネタバレあり本編感想
「あ~~~ゼーガペインってこうだったよね。」
上映直後に一番に心に浮かんだのがこの感想。あとで落ち着いて分解してみると、こんな要素じゃないかと思います。
要素①物理的制約を取っ払うことで見えるもの
今作、というかオルタモーダ編のキモは、”人格の分裂”だと思います。
そもそもゼーガペインの一つの大きなテーマとして、存在の証明、すなわち何が私を私にしているのか? という問いがあると思いますが、今作は、「私を細切れにする」ことを大きく肯定している点に特色がありそうです。
きっとすでに議論が尽くされているだろうと想像がつくので私が再考するのも恥ずかしいですが、例えば「私と同じ記憶を持っている者は私と呼べるのか?」という問いと「あなたと同じ記憶を持っている者であればあなたとして愛することができるのか?」という問いは、本質的には同じでしょう。
今作は、シズノを救う物語として成立させるため、その点をはっきりと否定しました。つまり、月でアルティールを自爆させたキョウ(Ver.1と呼ばれる)と、リザレクションシステムを再構築中のキョウの存在を同時性の中に置き、独立した人格として分裂させたわけです。
一方で、分裂したキョウたちは、お互いに強い信頼を見せます。つまり、同じ記憶を持つことをアイデンティティとして認め、その点において互いに絶大な信頼を寄せるわけです。しかし、お互いの思っていることは「わからない」ことを前提としたコミュニケーションをとります。遺伝子と家庭環境を一定同じくした双子が持つ、身体的・時間的な同一性が生む確信に似た信頼のようなものを、記憶をもとに瞬時に成立させている。しかし、相手が「今このとき」何を思うのかまではわからないから、他者としてコミュニケーションをとり、互いの選択の否定も尊重もするわけです。
まあこのあたりは過去作でも描いているわけですから、目新しさはないかもしれません。はっきりと絵にして見せたというところはひとつポイントでしょうか。しかしそれよりも、目的語の「私」でなく、動詞の「細切れ」の方をちゃんと理解できているのかが気になっています。
たまたまキョウが世界で唯一の肉体を持つ人間であるからわかりにくいですが、幻体が何らかのアクシデントで分裂した場合、あるいは幻体データの損傷により復元の見込めないほどに散り散りになった情報たちにとっても話は同じはず。幻体Ver.1.0とVer.1.1とVer.2.0はもう別人格ですよ、ということなのであれば、①ナーガが無限と言える数の存在を生み出したことになり、②深刻な倫理的問題が発生します。
①人間を量子データ化したことによって、原理的に人間を細切れにすることが可能になり、それは「復元者」のように何度も蘇ることや、半永久的に探究ができることとはまた違う問題を抱えているように思えます。またイェルも同様で、生まれた瞬間から無限の存在であると言えてしまうことです。
②それは自らが自らをどのように扱ってもよいという自由を制限するものです。なぜなら分裂する可能性をはらんだ身体(データとしての身体)は、すでに他者に対する責任を負うからです。
それを回避するためには、存在に対する線引きが必要になるでしょう。ゼーガペイン風に定義するのであれば、「痛みを覚えている限りは存在であり、痛みを忘れたものは存在ではない」でしょうか? または、素朴な感覚から言えば「人格(=自我)を持っていたら存在、持っていなければ存在ではない」でしょうか。
オルタモーダサイドは、結果的にハル・ヴェルトというひとつの存在から生まれた人格が複数の幻体(幻体って名乗ってたかは忘れたけど)として現出したものでした。一般的に多重人格と呼ばれるものを具現化していると言えそうです。
ここで示されているのは、ハルは自分がオリジナルであり、他の人格たちをどれだけ失っても問題ないと考えていること。そして、他の人格たちは、自らは”光立つ者”で、失うものはなく、ハルを守ることが存在理由(レゾンデートル)であるということ。つまり、存在の価値がオリジナル優位であることに疑問を抱いていないことになります。
これはツクルナも同様と考えられそうです。ツクルナは明らかにハルの相反した心(監督いわく良心)から生まれており、自らの存在理由を守るため、ハルの行動を制限しようとします。しかし、その制限をハルは自在にコントロールできない。彼らは互いにコミュニケーションをし、独立した人格を持つ点でキョウたちと何ら変わりはないように見えます。
この場合、ハルやツクルナ以外の”痛みを忘れた”、”自我を持つ”人格たちは、「存在」でしょうか? 痛みを感じているツクルナだけは「存在」で、ハルとは異なる者? あるいは、どれもハルが無限に生み出し得るのだから、「存在」ではない?
シズノを救いたいあまり、大変しんどい問いが生まれてしまったように思えます。この問いを突き詰めると、AIへの扱いや、リザレクションシステムを作り上げることに対する倫理性みたいな問いも出てきてしまいそうです。
物理的制約を取っ払った瞬間に、無限という概念が我が事となり、空間的・時間的に歯止めが利かなくなった世界に突き立てる刃として「痛み」を提案する。それが正しい答えなのかはわからないけれど、それを問うていくのが「ゼーガペイン」なのだなと思います。
今作は”分裂”によって、新たな一石を投じたと言えそうです。
要素②主人公の独自性
ゼーガペインの一番変なところ(失礼)は、キョウのキャラクターにあると思います。
キョウは陽キャの不良で、一匹狼のリーダーで、肉体派で内向性を持ち、先のことを考えないバカなのに論理的な正解を知っています。しかも人間たらし。
ちょっと完璧すぎてムカつきますね。私はクラスにこんな奴がいたら嫉妬で狂いそうになりますけど。
彼の根底にある「理屈のいらない自己肯定」と「理屈を理解する頭の良さ」の両立がゼーガペインに必須の要素だと言えます。
まず冬の舞浜に目覚めてすぐ、ルーパの発言を瞬時に理解する都合のよさ。はい、「でもキョウだしね」で解決。
オルタモーダとの戦いで突然現れた光対装備に対する順応力。「でもキョウだしね」で解決。
自らの運命を知ったときの落胆と、そこから瞬時に正しい死に場所を見出す達観しすぎな精神力。「でもキョウだしね」で解決。
視聴者が感情移入しやすいように作られるべき主人公なのに、こんなに頭がよかったら通常はついていけないし、なんでそんな底抜けに明るいんだと訝しんじゃいそうなところを、キョウのキャラクターが主人公として成立させています。それは過去作で丁寧に描いているからこそであり、そのようなキャラクターを作ったのは、「小難しいこと」と「人情物語」の両立に大いに貢献している。
また、今作では限られた時間内でオルタモーダを出すのに、いわゆる異能バトルみたいな今までではありえなかった表現方法が必要になったのだと思いますが、それもキョウがなんとかしてくれちゃっています。今後も描きたいことの幅を広げる上でとても有効な方法だと言えそうです。
要素③客を信用しすぎ
レミニセンス編を作ったのは、新規の客にも入ってほしいとのこと(劇場パンフの監督インタビューより)ですが、これは失敗していると言っていいでしょう。
無理ですって、あれだけで新規の客が理解するのはw
そもそもレミニセンス(回顧録)と言っている時点で、思い出すものがないと回顧もできないわけですから、新規では無理があることは承知なのかなと思います。
では、レミニセンス編の本当の狙いは何かというと、「当時TVシリーズ見ていたけどあんまり覚えてない、でも好きだったな~」というような視聴者の取り込みです。または私のような者(本編もADPも観たけどだいぶん前だなあ)へのリーチですね。これは成功しているんじゃないでしょうか。
そして、オルタモーダ編の作りといったら、ある意味ひどいもんですよ。
これはTVシリーズやADPでも思ったことですが、ゼーガペインは視聴者を信用しすぎています。ちょっとわかんないことや突飛な展開があっても、すこーし我慢して観てもらうことを前提としている、いかにも古風(平成風)で、忍耐力を求める、”タイパ”を無視した考え方です。
しかも作中の用語は、かなり抽象的で高度なものを平気で使ってくる。それも雰囲気づくりで使うというよりは、ストーリーを理解するために必要な使い方。
自分が理解できないことがあっても、とりあえずかじりついて読み進めてみる、読者側に気概を要する専門書のようなつくりをしています。
しかし、それこそがゼーガペインの色になっているわけです。そもそもが、記憶を失ったキョウが様々なことを理解していくという展開は、TVシリーズと同じです。それは決して新規の客にやさしくしている(なっている)わけではなく、キョウの思い出を追体験することで、我々が放り出された世界の複雑さを否が応でも突き付けられていると言えるのではないでしょうか。実際、どんな世界も複雑なものなので、それを描けることが物語としてのおもしろさを裏付けるものであるのですから。
要素④キラキラ
私が読み取るのが苦手な視覚的要素についても少し触れます。
オルタモーダ編に出てくる、新たなロボットたち。オルティックゼーガや最新のアンチゼーガですね。そしてオルタモーダが駆使するサブスタンスシェイド。
上映中は新しいロボもデザインかっこいいよお~~SUKI!! としか思ってなかったのですが、振り返ると、そもそもゼーガペインたちの良さの根本に気づいてしまったんです。
それはキラキラ。またはピカピカ。あるいは透明感。もしくはシュッとしてる。
光り輝く、透明感があるものって「キレイ」の象徴じゃないですか。日光を反射する海面。月光を吸い取る宝石。闇夜に妖しく輝くネオン。透き通ったケースの中で七色に光る躯体。
そしてそのキラキラを強調するようなしなやかさ。素材から削り出したような凹みが人工感を際立たせていて、人型の「肉感」を消している。
この「キレイ」と「人工感」が、どこか人間的な暑苦しさを突き放していて、冷静さの象徴となっています。一方で、人型の機械が多くを占めている。ルーシェンの戦い方がわかりやすいですが、鮮やかな剣さばきと盾づかいなどの戦闘能力は搭乗者や使用者たちに依存するものだし、羽だけは生物的な趣があり、体温を感じます。(もしかしてゼーガペインやオルティックゼーガには羽があって、アンチゼーガに羽がないのは何か……例えば人間かどうかの象徴ですかね?)
今作では今まであったキラキラの要素をもっと突き詰めて、透明感やシャープさを強調することによって、よりオルタモーダの冷静さ、または存在の不安定さを表現しているのかなと思いました。
それでも気になる点
上記踏まえて、総合的に、生み出してくれてありがとう! やっぱりゼーガペインおもしろいな! といえる作品になったと私は思うのですが、いくつか気になる点がありました。
まず、物語の核になる「キョウの分裂」のロジックですね。
肉体を持つキョウVer.2(っていうのかな?)がキョウVer.1の記憶を保持している点で、記憶が分裂していないのはなんででしょうか。
記憶が有限であることを前提にその存在の有限性を説くのであれば、これは悪手のような気がします。そのあたりの論理武装があれば知りたいです。
また関連して、シズノが「記憶があるはずのキョウVer.2を捨てた」ように見えてしまう点も気になります。選択には常に犠牲が伴うものですが、TVシリーズを終えたときには明確に示していなかった(ように記憶しているけどどうだろう)選択が、今作では残酷にも浮き彫りになるため、この辺りはセンシティブに感じる人もいそう。コハクラ先輩とかもどうなるんだろうね。
次に、オルタモーダの異質性を際立たせるためにキャラクターデザインを変えたと思うのですが、それがあんまり活かされていないと感じた点。
これは私が視覚的情報の処理が苦手なだけかもしれないんですが、やるならもっと極端に異質なデザインにしてもよかったかなと思っています。ただ、これがもし意図されたものだとしたら、並行世界であるオルタモーダの世界とはこの程度の差異しかないのだ、ということなのかも。
最後に、3週間という短い期間の上映のために戦略的には仕方がないかもしれませんが、インタビューなどで制作側(監督)が情報をバンバン出しちゃってますよね。これは見方によっては、そんなのは製作者の怠慢だ、本編でちゃんとわかるように描きなさい、と言われてしまうでしょう。
ただまあ、現実問題として予算の関係もあるだろうし、手放しで非難できることでもない。もしファンであるならきちんと貢献して、この先も物語を紡げるようにしましょうね、というのが落としどころな気がします。
映画の品質について
作画、演技の品質については、正直わかりません。
遊技機との接続があったとは思えないくらい新規カットが自然だったので、その点は丁寧に作られているのではないでしょうか。
トータルで映像がめちゃくちゃ綺麗かといわれるとそうでもない印象ですが、過去の映像を使っていることもあって、シームレスな鑑賞体験になるように調整しているのかも。
よく話題になるキョウやカミナギの演技については、懐かしい~~あの頃を思い出しちゃう~~くらいの感じでした。むしろ最初の方のルーシェンの演技がちょっと違ったかな。音が低すぎるような気がする。
音楽についてはもう、感動です。「キミヘムカウヒカリ_2024」も、ROCKY CHACK新作「君と。」もよかったですね。即、ダウンロードしました。
新居昭乃とROCKY CHACKが歌うとやっぱりゼーガペインだなって感じがしますし、流れるシーンもよかったですね。
理解できるのは、もう少し聞きこんでからかなとは思いますが。
直接的な品質とはちょっと違う視点ですが、令和に作られたことによる良さなのか、私がずっと気になっていたガンナーとウィザードのジェンダー配置がやっとこさ破られていました。
今までは男がガンナー、女がウィザードみたいな感じで(記憶違いだったらすいません)、AIにはそこそこ人種が配慮されている割に、そこだけは古くさくてツマランと思っていたのですが、今回カミナギがガンナーをやっていたのであ~やっとか、と思いました。
今後の展開への希望
何にしろ昨今オリジナルのSFアニメが少ないので、こんな抽象概念だらけで脳みそ酷使されるようなオリジナルSFアニメをもっと見たいです!
最後に去っていったオルタモーダたちについての展開も制作サイドが匂わせているわけですから、できればまた何回か劇場で観て応援したいですね。本編ではオルタモーダに愛着を持てるほど時間を割けていないし。
愛着といえば、もし可能なら過去キャラが出る新作も欲しいところです。ゼーガペインは、私が敬愛してやまない声優さんがバンバン出まくっているのが本当にうれしい点なので、たくさん演技を聞きたいし。松本保典、坪井智浩、ゆかな、吉野裕行が出ているところからして、自分好みすぎて並行世界の私がキャスティングに入っている可能性まである。こわい。
いや、それならシマがメインの作品をあと3本は作っているはずだからそれはないか……。そんな権力が私にあればな!
舞台挨拶
日時:2024年8月17日(土)11:45~13:45
会場:新宿ピカデリー
登壇者:浅沼晋太郎(ソゴル・キョウ役)、花澤香菜(カミナギ・リョーコ役)、川澄綾子(ミサキ・シズノ役)、下田正美(監督)、廣岡祐次(司会)
備考:上映前の実施
舞台挨拶にも行ったので、断片的に覚えている内容をメモします。正直、そのあとの映画本編に気を取られすぎてあんまり覚えておらず……。時系列も適当でダラダラと書くので、適宜、飛ばしてください。
上映前だったため、本編のネタバレ話はNG。上映後のチケットも取ろうとしたんですが、抽選にことごとく外れました。。
廣岡さんがもう退職しているのに司会に引っ張り出された話。話がちょっと長かったから司会に徹してくれると嬉しいですけど、まあ気持ちはわかる。
浅沼さんがもう役者をやめて田舎に引っ込もうと思っていたのに、ゼーガペインのオーディションに受かって東京に残った話。
キョウの年齢に関して、何かが奇跡的って話をしてたな……なんだっけ。キョウが2006年生まれで、TVシリーズ作中設定の2022年時点で16歳、ADPが2016年公開、今作STAが8/16公開、とかそういう16つながりの話だったっけかな?
とにかく、自分のキャリアを大きく変える奇跡的な作品で、そして長い年月をかけて今新作が出ることに喜びを感じると。
ADPのときは10年ぶりで、新人だったTVシリーズのときと、キャリアを経て技術を得た今の自分とのギャップを感じた。STAについてはそんなにギャップはない、って話だったような(あいまい)。
花澤さんも同様に。TVシリーズ後、何かの収録で久々にカミナギを演じたときに納得のいく演技ができず、もうリョーコには会えないのだ、と思って帰り道に泣いた。ADPではそれを乗り越え、ありのままの自分でよいと考えて(だったかな?)演技をした。STAでもその気持ちをもって演技ができた。
川澄さん。二人(浅沼・花澤)とも、よく当時と今のギャップを埋める話をして話題になるが、私も当時シズノのような大人っぽいキャラクターは珍しかった。私も当時はいっぱいいっぱいだったのに、ADPやSTAなど時間を経て演じても何も指摘されない。当時から成長していないってこと!?(笑)
それに対し二人。いやいや当時は我々が素人すぎて、川澄さんは先輩で今も昔も完璧にしか見えない。台本の読み方や業界用語まで、基礎から教えてもらったことを覚えていると。
下田監督。三人が演じればそれぞれのキャラクターになる。STAでは特に演技指導などの口出しはする必要がなかった。今回新作を出せて感無量。あとは、異質な感じを出すために、新キャラクターのキャラデザをあえて変えた。また、シリーズとしてこの先も考えているので期待してほしい(!)、など。
新キャラクターで気になる人はいるかという質問。ネタバレがない範囲で。
花澤さんが新キャラじゃないけどルーパの話をよく聞いて、と言っていた。浅沼さんはシドだっけ? 川澄さんはハルだったかな。。監督は全員? すいませんあいまいです。
ほかにも、遊技機(パチスロ)の時に先出ししていた情報や演技とのすり合わせの話や、今作に合わせて制作された曲の配信開始、3週間上映するなかで来場特典が週ごとに変わるといった宣伝情報。
また客席に、もうすでにSTAを観た人がいるか、今作でゼーガペインを初めて観る人は? 等の質問。それぞれパラパラと手があがる客席。初めて観る人は大変だね、がんばってください、と。
全体を通して、浅沼さんのテンションが常時おかしかった(?)。ゼーガペインのこと本当に大好きなんだろうな。
最後に花澤さんの掛け声で、会場みんなで拳をあげて「エンタングルー!」。「蒼穹のふぁふにゃー!」みたいなやつですね、わかります。
後書き
そういえば、映画上映に合わせて出版されたスピンオフ小説、『ホロニック:ガール』を買ったので、近々読もうと思います。『エンタングル:ガール』は読んでないですけど、未読でも問題なさそうなので、まずは新作から。
そして小説の作者、高島さんのSF考証に関するインタビューも面白かったよ。
おわり。
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