家庭の変化と就職
こんにちは、こんばんは。
専門学校を卒業し、アルバイトや時折、就職活動をしたりして過ごしていたが、
専門学校時くらいから、
認知症や肺気腫にて自宅で療養していた祖母が、
自宅で脳出血で倒れてしまう。
早朝で家族みんながいる時間だったので、
すぐに救急車を呼び、搬送され、一命はとりとめた。
しかし、右半身麻痺(言葉や意思疎通は大丈夫)は残った。
療養中より、デイサービスなども利用してきたが、
祖母は思った以上に頑固でそういったものにも馴染まず、
母とわたしが仕事をしながらみていた。
親戚は時折、気晴らしなのか、祖母の顔を見に来てはいたが、
ただ、一時、祖母のご機嫌をとるくらいで、
それもわたしたち親子にとってはストレスだった。
しかし、この機会に、わたしは、もう母が主介護者として、祖母を見ていくことの限界を感じていた。
施設に見てもらうことを、わたしは母に提案し、
疲れ切っていた母も賛成していた。
その上で、
母の兄弟を全て集めて、今後、どうするかを話しあう場を設けたが、
結局、みんなが言うことは、
「えっちゃんは福祉系の学校に行ったんだからおばあちゃんの介護をバイトとして、してくれないか」
「わたしの母が中心として家で介護してほしい」
「老人施設や病院はお金がかかる、お金は出せない」と予想通りの言葉だった。
本来なら母が祖母を見てきたし、
意見を押し通す立場なのだが、
気弱な人なので、わたしが母を守る形でその提案を話し、
まず入院先から→介護も含めて見てもらえる老人病院→老人ホーム探しが始まった。
それまであまり話をしてこなかった叔父の一人が、
わたしの働きかけを感謝してくれたが、
「おばあちゃんは、倒れた時に死んだ方が幸せだったんだ」そういった叔父の言葉は衝撃的だった。
たくさんの子供も孫もいるのに、
祖母と仲良くはない、それだけで、
人の死を願う言葉を平気で姪に話せる叔父がいることが恥ずかしかった。
わたしが自分の地域の福祉関連で働いていたこともあり、
親戚からは早く祖母の行くさきを見つけるようにと急かされながら、
不幸中の幸いと言っていいのか分からないけれど、
二ヶ月ほどで、祖母の老人ホームは決まった。
そこは祖母の愛した実家からは2時間離れた、
全く縁もゆかりもない土地であった。
まず、祖母の入院している老人病院へ区役所のケースワーカーさんと共に迎えに行き、
自宅へ帰ることができると思っている祖母に、
タクシーの中で事情を話す。
いくら認知症があるとはいえ、祖母には感情がある。
責められ泣かれ怒られ、
でも、何を言われてもわたしが受け止めるしかないのだと思った。
老人ホームについて、タクシーの運転手さんもケースワーカーさんも、
祖母のいない場所で、わたしを慰めてくれた。
全くの他人なのに、いちばん、わたしの心に寄り添ってくれていると励まされたのはこの出来事で、
この瞬間だった。
その後、祖母は亡くなるまで八年余り、
この施設でお世話になり、
わたしも母と、できる限り会いに通った。
春には桜の綺麗な穏やかな場所にある施設だった。