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21歳のヨーロッパひとり旅17_(1989年の夏 45日間)

●シチリア滞在中のサブリナと会う
(1989.7.28-31)
 夕方やっとペンフレンドのサブリナのいるリカタに着いた。
 サブリナはふだんミラノに住んでいるが、今はバカンス中で、親戚がいるリカタの別荘に滞在していた。
 はっきり言って「シチリアといえばマフィア」という短絡的なイメージしかなかった私は、この島を訪れるのは正直少し怖かった。
 「シチリア?あのマフィアの発祥地?マフィアってねぇ、本当に怖いんだよ。人ひとり始末した後、薬で溶かしてトイレに流しちゃうんだってよー」と旅行前に丁寧にも忠告をしてくれた友人もいたが、余計な心配だった。

 サブリナは友達のルイーザと車で駅に迎えに来てくれていた。思ったより小柄だったがさすがミラノっ子、おしゃれな雰囲気をまとった陽気で美しい人だった。名前を呼ばれた瞬間から、文字通り百年の知己のように打ち解け合う。もうかれこれ数年来の文通相手である。

 サブリナのもてなし方は驚くほどだった。いや、サブリナだけでなく、親戚や近所の人、それに彼女の友達全員が、日本人がこんなシチリアのはずれの町を訪れるのは珍しいと言って歓待してくれた。
 サブリナから紹介を受けて何十人と握手をしたことだろう。彼女の友達のお母さんからも、日本の女の子と会ってみたいと言われ、お宅にお邪魔したぐらいである。

 サブリナからはここを使ってと小さな家一つをあてがわれた。同じ敷地内におばさんの家があり、彼女はそこで寝泊まりしていたのだ(今年の夏は彼女の家族は用事がありリカタに来れず、サブリナは一人で来ていた)。あとで「寂しいでしょ」と言って、同じ部屋にあるもう一つのベッドに寝てくれた。

 着いた日はすぐシャワーを浴びて夕食をとり、街に出かける。そこでまた多くの友達に紹介された。
 サブリナのおばさんは同じ町内の住宅地と海辺に2軒家を持っていて、夏の間は海辺の家つまりサブリナの別荘と同じ敷地内の家に主に住んでいた。どちらの家も仮住まいという雰囲気はなく、シックな調度品が置かれていた。
 食事はサブリナのおばさんが面倒を見てくれたので、二人でその間をバイクや車でよく行き来した。バイクで行ってもほんの20分しか離れていなかった。
 町なかの方の家は、今を盛りとジャスミンの花が咲き誇り、かぐわしい香りが漂っていた。その白くて小さな可愛い花で、門から玄関までアーチを作ってあった。海辺の家の庭にはレモンなど果実のなる木がたくさん植えてあり、朝食のデザートにはもぎたてのイチジクが出たりした。

 食事といえば、名物のジェラート、ピッツァをはじめ、スパゲッティ、ラビオリ、鳥の丸焼き(イタリアでは店先でグリルされているのをよく見かけた)、シチリア名物のアイスクリームケーキ、あと具を詰めて揚げたライスボール、お菓子など、いろんな料理でもてなしてくれた。
 サブリナのおばさんは料理上手で、特にパスタは毎回最高に美味しかった。

 ここに来ている若い人たちの一日の過ごし方は、もちろんゆったりしている。朝は9時くらいに起きて朝食をとり、それからビーチへ行く。日差しが強くなる頃に戻ってきてお昼をとった後は、夕食まで家の中やテラスでくつろぐ。
 薄暗くなると、軽く食事してダウンタウンに繰り出す。島のはずれの町とは言え、夏の間は大賑わいだった。
 滞在二日目の夜は土曜日で、ディスコで朝までみんなと踊り、2〜3時間仮眠をとった後、また海へ泳ぎに行くという割とハードなこともしたが、楽しすぎて疲れを感じない。

 あっという間に三日間が過ぎた。サブリナとも多くを語り合った。適当な英会話は私だけで、彼女のほうは4ヶ国語くらい話せるドクター志望の賢い人である。

 シチリアに列車で入った時、窓から見える風景はあまり人家も緑もなく、ただ灰色に乾燥した土地がなだらかな丘を作って左右両窓の外に果てしなく広がっているだけだった。
 何が悲しくてこんなところにバカンスに来るのだろうと思っていたが、リカタの町に近づくと次第に緑も人家も多くなり、何より青く光る地中海が眼下に開けてきた。
 やはりシチリアは独特の雰囲気がある。

 4日目の昼、おばさんの最後の美味しい手料理を食べ海辺の家を後にした。
 バスに乗る直前、「それじゃ気をつけてね」とサブリナが私の頬に当てた時、急に胸が熱くなり、まともに彼女の顔を見てさよならをいうことができなかった。
 発車してからなぜか涙が止まらない。
 あれほど心のこもった、でもさりげないもてなしを受けたことはなかったかもしれない。
 国が違っても伝わるものは伝わるのだ。

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