世界を自分の延長ととらえるかそうでないか
私には子供が2人いる。
野生的ながらも感受性豊かな6歳の女の子と、ようやく母ベッタリから卒業しかかっているようにも見受けられる3歳の男の子だ。どっちも自慢の子供達。
それにしてもこの2人、本当に観察のしがいがある。
最近気がついたのだけど、2人の世界を見る目がちょっと違って面白い。
上の子は多分どっちかというと自分の延長として外界を捉えている。
他方の下の子は、自分と他者、他物と他物、、、と、とにかく個々のものを独立した存在として捉えようとする傾向があるように思う。
たとえば、歌。
2人とも歌を歌うのが大好きだが、上の子は歌詞をろくに覚えず、イメージで歌う。同じ歌でも歌詞を正確に覚えているかどうか、という意味では圧倒的に6歳より3歳の方が上だ。
以前、赤ちゃんから言葉を習得していくプロセスというのは、自分と外界を区別するプロセスだというのを読んだことがある。例えば、「ワンワン」という言葉を覚えることは自分と犬を隔てるプロセスだと。下の子がまさにそんな感じ。
でも、下の子よりも上の子が劣っていると言いたいわけではない。おそらく上の子は全体を感覚的に捉えて、自分の感覚で何かを表現しようとしているのだと思う。
行ったことのある場所についての記憶もそう。
上の子はイメージで物事を記憶しているため、行き先で楽しいことがあると、同じような感覚になった記憶を甦らせる。下の子は、目的地に着くまでに通った道、何かを食べた場所を結構正確に覚えている。
、、、などと考えていたら、今朝も面白いことがあった。上の子を小学校に送った後、下の子と保育園に向かう途中、下の子が「あ、ユーカリだ」と指差した木。
息子君、ご名答。その通り、ユーカリです。我が家の玄関にはユーカリがあって、息子君はみごとにうちの木と同じ木を言い当てたのです。
でも、続けて、私から「なんでユーカリだと思ったの?」と聞くと、無言。。「うちの玄関の木と同じだと分かったのはなぜ?」「だって、そこに植えてあったから」
ユーカリを言い当てたにも関わらず、とにかく質問への応答が要領を得ない。
仕方がないので、続けて聞いてみた。
「ユーカリの葉っぱはどんな形かな?」「まーるいよ」「そうだね。じゃあ色は?」「みどりだよ」
おぉ、、息子よ、もう少し。。
「そうだよね。みどりだね。でもさ、みどりはみどりでもいろんなみどりがあるね。たとえばユーカリみたいにさ、、」
この辺りで私は気づく。下の子は私の問いかけに全く関心を示していないことを。。私としては、下の子が、ユーカリ特有の葉っぱの形状(丸い)や色(白みを帯びた緑)を認識してるからこそ、ユーカリをユーカリだと分かったということだし、下の子の気づきを言語化して整理してあげようかと思ったのだけど、まだそこまでの言語能力は本人が必要としていないらしい。
今日の学童の帰り道、同じ質問を上の子にしたらどんな反応をするかな。世界の捉え方がどうあれ、6歳はユーカリを言葉でうまく説明するんだろうか。。
そんなことを考えながら、今日もワンオペのために家路を急ぐ。。