2023.7.韓国行 ~LG アートセンター~
今回の韓国行きは「ちょっと光州ビエンナーレに行ってくるわ」という気分で予定した旅だったが、ソン・ソック出演の演劇「木の上の軍隊」が発表され、行きがかり上、貧乏性の私は当初の予定に盛ってみた。もう山盛りの旅だ。貧乏性はビョーキです。
太平洋戦争終戦後約2年を、沖縄の伊江島にあるガジュマルの木の上で暮らした兵隊の実話を元にした井上ひさし原案、蓬莱竜太脚本による「木の上の軍隊」という演劇作品自体が相当に興味深いが、キム・ヨンジュン、イ・ドヨプ、ソン・ソック、チェ・ヒソという韓国俳優らによる「木の上の軍隊」の上演があるLG アートセンターは、旅の前に調べるほどに興味が深かった。
LGアートセンターのある麻谷ナルという地域
LGアートセンターは江南で22年間舞台演劇を興行していた劇場を閉め、ソウルと金浦空港、仁川空港を結ぶ空港鉄道線の途中、金浦空港の手前に新しく出来た「麻谷ナル(마곡나루)駅」に安藤忠雄設計で新装リニューアルした劇場だ。この劇場がある地域の成り立ちが面白い。
元は穀倉地帯だったこの地域に、国内主要企業の研究開発部門などIT基盤の誘致だけでなく(LGも研究部門をここに移している)、LGアートセンター、サッカー場より大きいソウル植物園、ギャラリースペースKなど、麻谷ナルで働く人々が自然に親しみ文化芸術を楽しめる空間も配備された期待の地域なのだ。
ちなみに「賢い医師生活」で病院の外観に使われている梨花女子大学医学部もこの地域にある。そう言えばBTSが米トークショーで披露したBUTTERは、まだ開通していなかったワールドカップ大橋でのパフォーマンスだったが、あの橋は江北とこの地域を繋ぐ橋のひとつとして増設され、漢江に架かる橋を渡れば新村、弘大もすぐそばという具合なのだ。
LGアートセンターの中を通るチューブの意味
「ここにしか存在しない公演会場を作りたかった」と言う安藤忠雄設計のLGアートセンターには2つのエントランスがある。ソン・ソックとチェ・ヒソによる劇場案内にも登場していた「チューブ」と呼ばれるトンネルが、全く違う表情を見せる表エントランスと裏エントランスを結ぶように貫通している構造になっている。
「木の上の軍隊」を観る日、私は、彼らが紹介してくれた劇場直結の空港鉄道線の麻谷ナル駅からではなく、地下鉄5号線の麻谷駅から劇場に向かった。
周辺地域をうかがった印象からすると、このLGアートセンターの「チューブ」は、ソウル植物園側と研究都市センターを接続するトンネルのように見える。植物園側から来る人も、研究センター側から来る人も、このLGセンターで出会う、そんな仕組みにも感じる。
「文化芸術」のトンネルを抜けると、そこは「科学」が存在し、一方には「自然」が存在する地域ならではの意味のある形だと感心した。
物語のある町、この地域にしかないものを提示することは、都市基盤には重要な要素だと思うが、自分の国を振り返るとその思想は全滅という気がして悲しくなる、とほほ。
このように、LGアートセンターのハードウェアたる建築物は、再開発地域の中でソフトウェアとして大いなる期待を背負っているようだ。
最近、新設される東京の貧しい劇場環境(とりあえず三宅坂の国立劇場リニューアルを見守る)を思うとうらやましい限りなので、これについてはまた別途、書きたい、書ければ、書ける時…。
そして「木の上の軍隊」を観る
この劇場に着くまで韓国内をワッタカッタし、長距離バスは本当に来るのかとか、突然行ってチケットは買えるのかとか、昼ごはんを食べる店はあるのかとか、集めた情報である机上の理論を試すチャレンジ旅を続けていたので、LGアートセンターに着いたら安堵しまくってしまった。だって持ってるチケットを出して椅子に座ればいいだけだから(笑)。
そして見終わった後の印象を呟いています。
作品の流れを作るチェ・ヒソ
劇場に一歩足を入れるとまずは観客と舞台との距離の近さに驚く。
そして上官と新兵をがんじがらめにするような抽象的なガジュマルの木とその背景に大きな円が存在する舞台が目に入る。
このシンプルな舞台を変化させるのは、多方向から多彩な光を照らすライティングで、大きな円は太陽にも月にも変化する。
また遠くから近づいて頭上を去っていくヘリコプターの音や、虫の声などが、まるで自分のすぐ近くで聞こえるような立体的なサウンドシステムは、雰囲気をよりリアルに盛り上げる(光州の映画館で観た“犯罪都市3”の劇場が全く同じような音響だった)。
このような装置の中で、まず私は、チェ・ヒソの演技が素晴らしいと思ったんだよな。
発音、発声がとてもクリアであること、ガジュマルの木の精霊を演じる彼女の身体が表現する優雅なジャスチャーが作品の雰囲気を幻想的に見せてくれること、ナレーションをしながら時に上官の嫁にまたは新兵の恋人に憑依しコミカルで愛らしい多彩な表情を見せる。これぞ狂言回しと言える最高の演技だった。
それは抽象的な舞台美術と絡み合い、戦争の悲惨を縷々リアルに見せるのではなく終戦を迎えても木の上に居続けた上官と新兵の内面の葛藤を抉り出すことに成功していた。
日本人には難しい俯瞰的な視線
第二に、アイロニーに満ちた笑いを引き起こす演出は、日本のそれ(上官が山西惇で新兵が松下洸平が演じたバージョン)とは全く印象が違っていた。劇場はしばしば笑いに包まれるほどだ。
脚本は蓬莱竜太とされているので台本をいじったと言うより、翻訳によるニュアンスの違いだろうし、戦後生まれの韓国人俳優たちの解釈の違いというのも当然あるだろうから(韓国のプロデューサー曰く、自分はメンバーを取りまとめる長男みたいな存在だったと言っており、4人の議論は多くされたように見受けられる)日本のそれとは、全く違うアプローチに見えてとても新鮮に感じた。
戦後80年を経たとしても当事者たる日本人には(最早、戦後生まれが多数を占める現代の日本人が当事者と言えるのかどうかも不明だが)、LG韓国版のように、戦争の悲惨さや残酷性を笑いというアイロニーに包んで語ることは難しいだろうなと感じる。
私個人の考えではあるが、私は子供の頃から毎年終戦記念日付近には沖縄や広島、長崎を中心とする戦争の悲惨な部分を刷り込まれ、悲惨な故にもう二度としませんと誓うことばかりを繰り返してきた気がする。日本の物足りない近代の歴史教育のためか、なぜこの戦争に突き進んだのかという議論もあいまいなままに、ただ悲惨で残酷だと思うばかりだった。そして日本は外交努力を置き去りにし何故か防衛費は増大している。
韓国版「木の上の軍隊」が持つ俯瞰的視線は、朝鮮戦争を背景とした風変わりな韓国映画「トンマッコルへようこそ」を思い出させたし、その視座を持つことの重要性を感じさせた。
マイクを付けて舞台に上がった俳優たち
365席の小劇場に俳優たちはマイクをセットして登場した。
ソン・ソックは上演前の記者懇談会で、以下のような抱負を語っていた。
元々、ソン・ソックは演劇メソッドを習得したタイプ(韓国にはメソッド俳優がたくさんいる)ではなく、豊かで鋭い感性を演技に投影するタイプであるし、それが新鮮であり魅力のひとつである俳優だ。
彼が言っていることは「舞台演劇に求められる独特な発声が、リアリティのないこともあるんじゃない?」であって、常々気になっていた案件をこの際、「木の上の軍隊」で実験しようじゃないかという意気込みが、舞台演劇では半ばご法度な「小劇場でマイクを付ける」という挑戦になったと思う。
ところで、私の席は前から5列目だった。手の届くところで俳優たちが演技をするそんな臨場感を充分に感じられる席だった。
ところが、イ・ドヨプやチェ・ヒソのセリフはとてもクリアだが、ソン・ソックの声は時にくぐもり、よく聞き取れないこと(韓国語が理解できないという話とは違う話)は確かにあった、マイクを通してでもである。
ソン・ソックは以前から、歌舞伎で言うところの口跡が悪い(セリフ回しが悪い)とも言われていて、自身はあえてやっているのかもしれないし、ドラマや映画では技術的にカバーしてきたんだろうが、舞台でセリフが伝わってこないのは致命的だなとは思った。
上演期間中、3日ほど韓国語の字幕が付いた日があったのだが「時々、字幕を頼った」とレビューしている韓国語ネイティブ観客もいた。
これだけの小劇場であれば、言葉が理解できなくても自然とその世界に引き込まれるものがあるが、私にはそういうものは感じられなかった。それは元の脚本によるものかもしれないのでなんとも言えない。
だとしても、この演劇をすることになった発起人である旧知のイ・ドヨプとソン・ソックの掛け合いの自然さ、4人が作り上げたもうひとつの「木の上の軍隊」をとても興味深く楽しんだ。
サンデー先生と子供たちが島の噴火で死んでしまったところから始まる「ひょっこりひょうたん島」というブラックな人形劇を作った鬼籍の中の井上ひさしは結構喜ぶんじゃないかな。
ソン・ソックのチャレンジを受け止めたベテラン俳優
「木の上の軍隊」は演劇ファンというよりソン・ソックファンが駆けつける(すみません)演劇として少しく「イロモノ」扱いをする向きもあるようだったが、滞りなく上演を消化していた。
が、そこにソン・ソック新兵が上演前に仕込んだ地雷に反応するベテラン舞台俳優が登場した。
それはナム・ミョンリョル俳優で、私の記憶では「未生」でチャン・グレ(イム・シワン)の囲碁の師匠として出演していたのが印象的だが、俳優自身も現在、大学路で「ラストセッション」という舞台を演じているまっ最中だ。
自分の演劇に集中しなければならない折に、ナム・ミョンリョン俳優はソン・ソックの上記の発言記事をリンクし、SNSで意見を述べた。
がび〜〜〜ん!
「神の存在について討論する」演劇で、フロイト博士を演じている先輩俳優の言葉っていうのがそもそもヤバい(苦笑)。
でも面白いですね(笑)。
いいですねえ(笑)。
こういう場外乱闘を挑んでくる先輩に出会うことは中々ないです、貴重です。ソン・ソック俳優、持ってます。
うはっはっは。
私は「まがいものの演技」と訳したが、ソン・ソックは「가짜 연기(直訳すると偽物の演技)」とはっきり言っていた。そこだ。
マイクだ、発声だというよりも、真の演技とは何かを日々追求しているベテラン俳優は、広告に出まくってる若い俳優が舞台の演技を「まがいものの演技」としたことに神経が逆撫でされたに違いない。
ナム・ミョンリョル俳優が持つ演劇に対する深い愛情が感じられるものであり、ご尤もですと深く首を下げるしかないものがある。
先輩は、ソン・ソック俳優をセレブだと認識し演技も見たことはないが、よく広告で見るなあ、今売れてる若い俳優みたいだなあ、(昔舞台を一緒にした)パク・ヘス俳優とイメージが似ているなあ、という印象で発言をしたことを明らかにし、言っておくけど有名だとか無名だとかには関わらず発言してるから誤解するなとは言っている。
そしてシェークスピアの時代から続く本質的な議論なんだと言い、
なんという鮮やかさ!
あ〜〜〜、どうしよう、私。
ナム・ミョンリョル先生の発言にやられ、暑さのせいもあるかもしれないが「ラストセッション」が観たくなったし、なんで大学路にも行かなかったのか、ふわふわしてんじゃねえよ、あたしと思った。
「ドラマ、映画」と「演劇」の間にある深い溝
ナム・ミョンリョル先生の言葉からは「ドラマ、映画」と「演劇」の間には深い溝があることがわかった。
ソン・ソックは今回の演劇で、自身の演技論に基づいた演技を試すだけでなく、ドラマや映画をする俳優に演劇を薦めたいとも語っていた。
彼は「ドラマ、映画」と「演劇」の間にある深い溝を「私の解放日誌」のミジョンのように突き抜けようとしている。
そしてLGアートセンターがそういう場をソン・ソックに提供したことは、広告絡みとは言え、結果としてとても興味深いんじゃないかということですね。
このLGアートセンターの「文化芸術」のトンネルを抜けると、そこは「科学」が存在し、一方には「自然」が存在すると書いた。その二つを接続するものであるとも言った。
そんな場所で、ソン・ソックという俳優を通して「ドラマ、映画」と「演劇」が行き来し、そして大いに議論ができ、その結果、これからもファンに素晴らしいコンテンツが届くことを願う。
ソン・ソックがあのトンネルを突き抜けたかどうかは観客が判断すればよいです。
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