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姐さん!ドラマ「遊んでくれる彼女」の心意気や、上等です!

 頼もしいがどこか間が抜けている。
 ときめくがどこか気恥ずかしい。
 対照的な感情線を微妙に行きつ戻りつさせる韓国ドラマ「遊んでくれる彼女/놀아주는 여자」は、うっかりカタギの女性に恋をしてしまう元ヤクザを、アウトレイジな印象が強いが、実際は極度のシャイで通っている(「車輪のついた家シーズン1」9話参照)オム・テグ俳優が演じるというだけで、奇跡のような値打ちがある。

 子供向け動画を配信するYouTuber(ハン・ソンファ)に恋した、モテソロ(모태솔로=人生で一度も彼、彼女がいない人)の元ヤクザ(オム・テグ)がドスの効いた深いため息をつきながら「小っ恥ずかしさ」という石橋を叩いて渡る自我との抗争が面白くないわけがない。
 あろうことか、日により「私の好きな監督ベスト1」にランキングされることが多いビリー・ワイルダー監督の「麗しのサブリナ」のハンフリー・ボガートにすら見えてくるのだ。

 「麗しのサブリナ」は、大富豪の息子2人(ハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデン)とその家の運転手の娘(オードリー・ヘップバンーン)が繰り広げるロマンチックコメディだ。
 スーツしか着ない仕事人間の長男ライナス(ハンフリー・ボガート)が、ごくつぶしでプレイボーイの次男に好意を寄せる小娘サブリナ(オードリー・ヘップバンーン)を弟から引き離すためにあれこれ画策するが、皮肉にも逆にサブリナの虜になってしまう。
 時には弟の代わりと言ってボート遊びに連れ出すために、今ではもう着ることのない昔着てたストライプのパンツやニット帽などカジュアルな洋服をクローゼットから引っ張り出す。
 訳ありなので面倒を装っているが、鼻歌を歌いながら着用しそれを鏡で見て「神経痛の大学生みたいだ」と気を落とすあの堅物で小っ恥ずかしいライナスに、オム・テグ演じるソ・ジファンがシンクロしてしまう。

 ウィリアム・ホールデンがまさかヘップバーンに振られる役だとは思わなかったと言うくらい、ハードボイルドなボギーの恋敵が意外であったように、オム・テグ俳優がまさかのロマンチックコメディにキャスティングされた時点で、このドラマは無条件で見なければいけない作品になる。

ロマンチックコメディという包装紙の中身にあるもの


 ロマンチックコメディの醍醐味は、他愛もない話の中にある奥行きとか陰影とかそういうものを如何に感じ取るかにある。それに尽きる。

 その風香は1話の冒頭からムンムンする。
 ソ・ジファン(オム・テグ)率いるブルドック組(滑稽なネーミング!)の抗争の歴史の小噺シーンには、韓国ノワール映画、例えば「悪いやつら/범죄와 전쟁 : 나쁜놈들 전성시대」「新しき世界/신세계」なんかのエッセンスがぎっしり詰まっている。
 チェ・ミンシクやファン・ジョンミンの役割をオム・テグが引き受けてそのカリスマ性を見せつける。文句なくシビれるほかない。

チャン・ギハと顔たちの「風の便りに聞いた/풍문으로 들었소」が聞こえてくるよう

 ところがこのブルドック組はあっけなく解散しジファン自身も裏社会から姿を消す。
 場面は転換し、黒いづくめの出立ちのジファンが静粛な寺で僧侶たちと共に手を合わせ熱心に何かを祈っているところに「♪ひと目見て、二目見て、ひたすら会いたい〜〜〜♪」とシャウトする着信音が鳴る。
 荘厳な寺の本堂だ!お勤め中だ!バチが当たるぞ!
 と思っていると、たちまちジファンには「足のシビれが切れる刑」というすっとこどっこいなバチが当たるのである。まさにシビれがシビれを呼び、くすっと笑わせてそして冴えた演出だ。

 ジファンは今や足を洗い「喉が渇いた鹿」という精肉会社を立ち上げ、前科のある人間を会社に迎え、その要職にある者たちと共同生活をする人で、その会社名の 「喉が渇いた鹿」の語源は聖書だ。
 現在のイスラエルとパレスチナ紛争でもわかるように、水源の奪い合いは永年の争いのひとつであるくらいで、聖書の舞台であるパレスチナの水事情は困難だ。
 その聖書の地で鹿が水を求めて山河を彷徨う姿にキリストは「喉が渇いているなら、わたしの元へ来て飲みなさい」と聖書で語っている。

 人間の渇きに手を差し伸べようとするジファンの崇高な理念が会社名に見て取れるという設定だが、このドラマはジファンが持つ立派な理想を、素晴らしい行いであるなあと簡単に賛美させてはくれない。
 その立派で崇高な部分にあらゆる角度からスポットを当て、立派な人間に見える人の不完全性を甘いオブラートに包みこんで見せてくれる。

 ちなみに印象的なギターリフで始まるジファンのスマホの着信音は「遊んでくれる彼女」のOSTのエース、ユ・ジョンソクの「미인/Beautiful Woman」で、高音から低音まで自在に行き来できるアニソン王のユ・ジョンソクが歌い話題になっている。ロックバンド「신중현과 엽전들」が歌ったものをカバーしたものだ。
 この曲は、映画「悪いやつら」における「風の便りに聞いた」のような存在のOSTであると言える。「いいドラマはOSTも良い」という持論は、1話から文句なく「上等っ!」と言わせてくれる。

黒い世界から白い世界を目指す人と黒い世界にとどまる人


 このドラマに何回か出てくる「白い豆腐」は、ソ・ジファンが志す「善良な人/좋은 사람이」のメタファーだ。

 ドラマの前半、前科のあるジファンを始めとする「渇いた鹿」のメンバーたちは、ノワール映画に出てくる構成員の如く黒ずくめの格好をしている。
 しかしその鹿メンバーたちは見た目を裏切り、久方ぶりに警察のお世話になったジファンに白い豆腐を用意し、そして全員で祈りを捧げ戒めを続ける人たちだ。

 そこにジファンの父で組織の長であるソ・テピョ(キム・レハ)が刑務所から出所してくるが、出迎えの白い豆腐に不機嫌そうにたんぽぽをぶっ刺す。
 ポン・ジュノ監督の映画「殺人の追憶」で、犯人を捕まえるためには暴力という手段を厭わない鉄砲玉のような刑事を演じたキム・レハ俳優の登場シーンで、父と息子の闘争の火蓋が切って落とされる大事な場面だが、父ソ・デピョにキム・レハ俳優、息子ソ・ジファンにオム・テグ俳優を配する本格さとリアリティを讃えずにいられない。
 「殺人の追憶」でキム・レハ演じる刑事は、自分の放った暴力がブーメランとなって戻ってくる。ソ・デピョの結末まで想像させてしまうのだ。

ご大層にたんぽぽまで持たせた組長としてのキム・レハ俳優を確認した時の有り難さよ!
「遊んでくれる彼女」の中でも不思議にうれしくなるシーンのひとつ


 韓国映画やドラマでよく見かける刑務所出所者に豆腐を差し入れる光景は「豆腐のように白く生きて二度と罪を犯すな」という意味だそうだが、ジファン含む同じ屋根の下で生活する鹿たちは、毎食前に祈りを捧げ「善き人/좋은 사람」であろうとするのとは反対に、白い豆腐に微塵の敬意もない父は息子とは違う立場であることを見せる。悪の世界が口を開いて待っているという布石が打たれる。

 この手の込んだシーンは、パク・チャヌク監督の映画「親切なクムジャさん」のあの有名な冒頭のシーンを彷彿とさせる。
 刑務所から出所したイ・ヨンエ演じるクムジャさんが、出迎えのキム・ビョンオク演じる教会の伝道師に「豆腐のように白く生きなさい」と豆腐を渡されて、「余計なお世話/너나 잘하세요」と言い放つシーンだ。
 クムジャさんが持つ復讐への強い決意が感じられる大事な場面だが、ソ・デピョにも同様な執念が感じられる。

 とっくのとうに「父はエラい」「男はエラい」という馬鹿馬鹿しい家父長制は崩壊しているにも関わらず、家父長制を模した擬似的血縁関係で築かれている反社組織のボスであるソ・デピョは、それにも気付かず息子のジファンを再び組織に取り込もうとする愚かな家父長制の亡霊だ。
 なんせ家父長制のトップにいる人は「エラい」から、言葉で説明する必要も能力もなくただ暴力的な人間でいてかまわないを維持し、黒い世界にしがみ続けようとしている人に見える。

 父と息子の葛藤を描くために父親を、都市部では影響が薄まりつつある家父長制をベースにする反社会組織のボスとして描いたのは、さりげなくうまいなと思う(明洞のボスが亡くなったというのが2、3日前にニュースになってたくらいなんでこんな組織は都心にもまだ存在するんだろう)。
 「遊んでくれる彼女」が好印象なのは、そういう奥行きをちらりちらりと見せるところにある。

 ところで悪役として名を轟かせたキム・ビョンオク俳優は、役ごとにヘアスタイルを大きく変える。同じくパク・チャヌク監督の「オールドボーイ」では短髪の金髪でたんぽぽの花のようでもあった。
 白い豆腐にささやかなたんぽぽを刺すシーンは、あの「オールドボーイ」でのキム・ビョンオク俳優の姿をぼんやり思い起こさせる面白いオマージュで、こんな控えめなセンスも上等である!

ウナが脱がしていく黒いコート


タイトルのロゴは銀河系に浮かび上がる

 ジファンの前に突然現れたウナは幼なじみのウナであった。
 それだけで運命的なボーイミーツガールだが、「遊んでくれる彼女」はその上にさらにファンタジックなおとぎ話が付与されている。

 ウナは漢字で書くと「銀河」だ。
「銀河」は「ミルキーウェイ」で「ミルクの道」である。
 ウナがイベントで子供たちにPRした有機牛乳は、多分「ミルキーウェイ」から来ている。ウナがPRした牛乳にあたり不調をきたした子供たちの親に、その牛乳を投げつけられたウナを、ジファンが身体を張って守ってくれるのはギリシャ神話から来ていると思われる。

 ギリシャ神話の英雄ヘラクレスは、王ゼウスと人間の女性との間の子供として半神半人として生まれる。
 父ゼウスがヘラクレスに不死身の力を与えようと正妻であるヘラが眠っている間に母乳を飲ませようとするが、それに気づいたヘラがヘラクレスを払い除けようとした際、宙に飛び散った乳が「ミルクの道=Milky Way」になったという神話だ。

飛び散る牛乳からウナを守るジファン
黒いコートに真っ白な牛乳が飛び散り、じわじわ染まっていくのだ

 そのギリシャ神話の「乳の道」の話は、日本では1年に1回、彦星と織姫が会う「天の川伝説」になるし、韓国ではその天の川に架かる橋「烏鵲橋(オザッキョ)」に、カラスとカササギが彦星と織姫のために羽を広げて橋を作るという話になる。

 ジファンはウナを守るためには、カラスが羽を広げるように黒いコートを広げるし、ウナを牛乳から守ったことで白い牛乳は黒いコートにじんわりと沁みていく。
ウナの気を惹こうと懸命にコートに付いたシミを「インドだ」「オーストラリアだ」と騒ぎ立てるガキでトンチキなジファンの必死さは爆笑だが、ウナはそれを引き受けてクリーニングに出す。
 ジファンが着ている重く黒いコートは、ウナに出会い彼女を守ったことであっけなく脱がされると同時に、「豆腐のように白く生きなさい」と同義である「善き人」へと運命的に導かれていくようである。

過去と未来の呪縛を解き放つ「遊んでくれる」


 そもそも「遊んでくれる彼女」というタイトルが風変わりだ。
 韓国語のタイトル「놀아주는 여자」は直訳で「遊んでくれる女性」でほぼ直訳だが、「遊んでくれる」という言葉は、主体的に自ら進んで遊ぶというより遊んでもらっているという受動的な感覚がある。

義理と人情のアウトレイジの世界で育った人は、箍が緩むと「遊んでくれるオッパ」

 ウナが今の仕事をしているのは、寂しかった子供の頃、ソヌオッパが遊んでくれたいい思い出から「生きる力を得た」ことに影響を受けて、子供たちにも同じように力を分けたいと思ったことがきっかけと言っている。
 ウナがソヌに遊んでもらったことは受動的に見えるが、そこから生まれる「同じことを誰かにしたい」と思う前向きな気持ちはとても能動的で肯定的だ。

 そう考えた時、ジファンが父の元で育った過去を「やらされたのではなくすべて自分が選択した自分の過ち」だと思っていることは、能動的で主体のあるものと言い切れるのだろうか、言い切れないぞとそわそわして「違うよ」とそっと言ってあげたくなる。

時間が戻せるなら
暗い過去をすべて
消し去りたい

「遊んでくれる彼女」OST「The Way」より

 繰り返しドラマに流れるOST「The Way」は、ジファンの過去に対する後悔と自責の念が歌われる。ジファンは凄まじく過去に縛られている人であることがわかる。

 人生の選択は様々な要因のもとで行われるが、いつの間にかそれはその人自身の意思によるものだとすり替わってはいないか。他に選択の余地がなかった仕方のない過去はあくまで選択でしかなく自分が主体的に選んだ意思と言えるだろうか。
 生真面目なジファンはウナが「遊んでくれたソヌオッパは私が知っている人の中でいちばん善い人」と自分のことを認めてくれているにも関わらず、自分が背負い込んだと思い込んでいる十字架のせいで自分自身を肯定的に受け入れられずにいるし名乗ることもできずにいる。

 受動と思っていたものが実は自分を動かす大きな力になっていたということはあるし、能動だと思い込んでいたことが実は仕方のなかったことだということもあるのである。

 韓国ドラマでしばしば見られる恋愛の障害が、荒唐無稽なトラウマや、現実離れしたトラウマや、ナンセンスなトラウマや様々な非現実的なトラウマ要因で適当に手を打たれる度に「あ〜〜〜」と残念な気持ちになる私としては、寂しい子供時代を共に支えた2人の障害がほんのささいなところにあるというその機微に大いに魅力を感じるのだ。

 その意味でウナがジファンに「ジファンさんはお父さんの元で悪事を働く人ではなく、仲間のお手本になろうと努力する人です。過去を許してもらおうとせず、過去に戻らないように努力するジファンさんのその努力を支える力になる」と言うセリフは、「完璧な善き人であらねばならない」とするジファンの呪縛を解く感動的な言葉だ。
 念仏のように「善き人」を唱えることではなく「善き人であろうと努力をすることが大事」というとてもシンプルで骨太な考え方に、私は不覚にもとても感動した。

 ところで韓国映画やドラマ、もしくはインタビューを見ていると、頻繁に「善き人になりたい」とか「善き人だから」とか「善き人」「善き人」「善き人」…攻勢が甚だしい(苦笑)。
 日本人はここまで言うかな?言わないよな?なんだろうな?韓国人の口から出てくる「善き人」の正体は?と思っていたので、この作品を観ることで、半島を覆う呪縛だな、ほぼ大統領経験者が逮捕される環境において、これは反面教師から来る呪縛なんだなとすごく強引に腹に落とした、能動的に(苦笑)。

「ヌロジュセヨ〜(押してね)」と言っている

 キャッチーで意味深いタイトルも好きだ。
 「遊んでくれる彼女/놀아주는 여자」の「놀아주는/遊んでくれる/ノラジュヌン」「눌러주는/押してくれる/ヌロジュヌン」と掛かっている。ここも上等である。

イリョンのアドバイスを受けて一度撤収したプロポーズを成功させるジファン
キメすぎてて小っ恥ずかしいが、どこかズレてて憎めない

 ジファンがウナにプロポーズする際、ウナに言う「僕がいい道に導いてくれたと言ったけど逆だよ。僕がいつも善き人でありたいと思うように君が導いてくれたんだ。ウナを一生、チャンネル登録していいね!を押し続けたい」というセリフで、「遊んでくれる彼女」という小粋なタイトルに「遊び」が「生きる力」に繋がることや「いいね!」を押して頑張る人を支え続けると言った意味合いが込められていることに気付く。

 何かを「好きになる」ことは能動的ではあるが、コントロールできないその気持ちは受動的ではなかろうか。ならば「いいね!を押す」は一体、能動なのか受動なのか。考えるほどに堂々巡りだ。

背景の「家」を思わせる建物は、血が繋がらない人たちが家族になった瞬間を見るよう

 冒頭、黒ずくめだった鹿たちはエンディングで真っ白のTシャツ姿で勢揃いする。この人たちなりの家という場所を築いた喜びに溢れている。
 ひとりの絶大なパワーで周りを蹴散らしていく古いタイプのヤクザ組織、要するに家父長制の構造を未だに信じているジファンの父が考えるそれとは大いに違うのだ。

 過去の過ちは失敗は消すことが出来ない。
 人間の価値を見た目で「黒」とされる理不尽に対して、それを受け止め真摯に「善き人」として「白く生きよう」と努力をし続ける人とそれを応援する人たちの話だったのだ。
受動か能動か、黒か白か、答えを出すことは簡単だが、そこに不安やもやもやがあったとしても、黒から白の間を移り変わっていくグラデーションにこそ味わいがあることを胸に刻んでおきたい。


 そんな風にまとめておいて何ですが(笑)
 塀の中に舞い戻ったジファンの父は面会に来た息子に「会うことはない」、縁を切るぞと、親としてできる究極の情を見せる。
 しかしだ、私は騙されん!騙されるんもんか! 
 家父長制が染み付いた親分が再び出所して白い豆腐をぶちまけるところから「遊んでくれる彼女 シーズン2」が始まることをすでに確信している私は、んなこたあるか!息子に「俺の血が流れている」と脅す人だぞ。人間の本質はそうそう変わるもんか!変わろうとしない人間もいるから世の中は迷惑だがドラマチックだと、うっかり言いたい。
 シーズン2への期待の切実度は、エンディングの解釈にグラデーションをもたらします。




 追1:シーズン2でガンギルは「鹿チーム」に移籍です。
 ガンンギルは映画「ダームナイト」のジョーカーのように両口元は裂けていないのだ。片方に留まっているわけは、黒にどっぷり染まれないものを表現していると思う。そういう人もいるのだ。だから移籍です、きっと。

追2:「ハニー、行くぞ!」は元は「パリの恋人」だねえ(笑)
 ひたすら懐かしい。





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