わたしの「私の解放日誌」 Vol.3
待ち続けてるいつもと違う明日
クさんはミジョンを待ち続けている。待ち続けるのはミジョンだけじゃない。「春になれば俺もお前も別の人間になれる」ことも待ち続けている。
OSTアルバムの中でドラマ中で2番目に多く使用されている(私調べ)、タイトルに「春」を冠した「私の春は/나의 봄은」でも「陽射しを浴びて夢を咲かせたい」と歌ってる。
「いつになったら春は来るのか」はこのドラマの重要な核のひとつになっている。
人間は森羅万象の一部
ところでヨム家のあるトンネ(町)の名前は「コンダル路/곤달로」で、私は勝手にこんなふうに思っている。
韓国の国旗には、陰陽を表す太極とその周りに八卦のうちの四卦がデザインされている。森羅万象を表す太極の中にある八つの自然現象を表現したのが八卦と簡単に言ってしまう。「易」の概念だ。
そんな風に私は思う、思いたい、思えば、思えよ、ええ、勝手に思うよ。
だってヨム家の周りは自然に溢れている。
「地と月」であるサンポでの人間模様は、夏から始まり秋、冬、春と静かに移ろいで行く。
ノウゼンカズラやヒオウギなどの野の花があるかと思えば、絶えず虫の声もしているし、カエルは畑から畑へ移動するし、お母さんは蚊と戦うし、野犬もいるし、雷が電柱に落ちるし、山から太陽は登るし月は闇夜を照らす。
人間も自然の一部、そう森羅万象の一部であり、自然の前には人間の力などちっぽけな存在であることは前提ですよと言っている。
そういうところで、ひたむきに自分の人生と向き合う人間たちを「私の解放日誌」は描いている。どうしてそんな人々を好きにならずにはいられようか。
そこは、作家の意図でもあった。
この作品がドラマチックな起承転結がなくても、奥深い人間の物語として成立するのは、こういう土台がとてもさり気なく描かれているところにあると思う。
春はこっそり訪れる
16話最終回、2人が見上げる月は三日月である。電灯がない真っ暗闇の世界だった昔は、晦日は真っ暗と決まっていて新月から3日めくらいにはやっと月明かりが出てくる。しかも三日月は西の方向に出る。
暗闇を彷徨う人間を導く大事な月明かりだ。
旧暦では、三日月が出るのは3日と決まっていた。新月を1日とするからそういうことになる。そんな印象で見ていた三日月だが、現代のカレンダーだとどうなるのか気になる。
「“私の解放日誌”における月の満ち欠けと人間心理の調査隊長(隊員一人)」によれば、この晩の三日月は、ミジョンとクさんが生きている2022年2月4日の「立春」の月だと思う。
月の満ち欠けを元にした旧暦を元にして考えれば自ずとわかるが、三日月は約30日に1回しか出ない。
時系列で考える。
ドラマの終盤はみんな2022年1〜2月あたりをうろうろしている。
それを考えれば、二人は2022年2月4日立春の月を見上げていると言い切っていいです。隊長が言っている。
「立春」とはこの日から春が立つ、春になる日ってことだ。
恵方巻きをかぶり付くのが節分で次の日は立春だ。節分は季節を分けるという意味で、節分までは冬で次の日からは春です。
クさんが待ち侘びた「春」はやって来た。
そしてバックに先のOST「私の春は」は流れるよ。
春を迎える二人はきれいだ
苦難の数々をミジョンにおどけて話すクさんに、ミジョンが「あなたはどうしてそんなにきれいなの?」と言う。
春の月明かりを浴び見つめ合う二人は、そのまんま丸ごときれいである。
(ここは字幕では「本当にかわいいわ」になってるが、私の脳内はそれをぶった斬りますよ。「당신 왜 이렇게 이쁘냐…」は「かわいい」じゃなくて「美しい」「きれい」のニュアンスです、私の感覚は。何ものにも代え難い関係と経験を築いてきた二人から生まれた特別な感情。)
「私の解放日誌」は、春と言えば、桜ですよ、レンギョウですよと、あからさまな演出をしない。平凡な演出家ならこのシーンを、二人が再会した桜で有名な国会議事堂裏で、桜が満開の下で撮影しかねない。
あの再会シーンが良いのは、桜の蕾があるのかないのかわからない、まだ春の兆しはないが、春には桜で満開になる、今は準備中ですと、想像で春を感じさせる佇まいがいい。意味深くきれいなシーンのひとつだと思う。
月が散りばめられている
ドラマの中では「月」もまた出演者の一人だ。
ミジョンの前の会社の名前は「Joy カード」の「JOY」は「もろびとこぞりて」の「Joy To The World」からで、転職先の会社は「Hカード」の「H」は「幸福」の意味の「행복/ヘンボク」の「H」じゃないかな。
転職先でVIPカードの担当をするミジョンは同僚に「今日は(作業枚数が)多いですね。」と言われ「月曜日なので。」と答えるとところも意味深だ。「金」でなんでも手に入るし何なら人間関係の面倒もお金で解決できそうなこの世の中に、クレジットカード会社は、ドーパミンという名の「喜び」と「幸福」を「月曜日」に多く流通させている。
そう言えば、クさんは決してミジョンのことを「ミジョナー」と呼ばない。「ヨム・ミジョン!」と呼び続ける。そしてミジョンはクさんを「あなた」とかしか呼ばない。
名前を呼び合うことは人格を尊重され存在を認められ繋がりを強くするようなもので、ミジョンも「ヨム・ミジョン!と呼ばれるのはうれしい。」と言ってるのに、ミジョンはクさんの本名を知ってからも名前で呼ばない。
とうとう15話で「名前をつけて。」とお願いされていたクさんにミジョンは「12回/열두 번」と呼ぶ。ひどっ!
と一瞬思ったが、「12回/열두 번」に意味がなくはないでしょう。
細部に神は宿る。どうでもいいことに深みがあるということです(ちょっとちがう?)。
月は1年に12回満ち欠けする。
要するに月は地球の周りを年に12回転する。
「12」といえば、時間、干支、星座、オリンポスの12神、日本の十二神将などの単位になっている。「12」という数字は科学のない時代に人間が自然の中から導き出した美しい数字だったはずだ。
ミジョンが「あなたはなんでそんなにきれいなの」と言うクさんに付けた名前「12回/열두 번」は、自然から導き出されたとても美しい名前だったんだねえ。
だからこそ「かわいい」じゃダメです。
1日は静かに暮れる
アル中と言えば中島らもも相当エスプリの利いたことを言うけど、15話のクさんも負けてない。
「話すことが尽きたら終わりに。それで幕引きにしよう。」
飲んだくれの戯言はだいぶイカしている。
そしてここでもOST「私の春は」は流れる。
字幕の「それで幕引きにしよう」は直訳すれば
「우리 그렇게 저무리자/俺たち、そうやって終わらせよう。」
「저무리자」は「終わりにしよう」でいいかもしれないけど、
ここは似た発音の「저물다/暮れる」が掛かっているように聞こえる。
パク・ヘヨン作家は似た発音の言葉をわざわざ使用していると思う。
そうすると二人の終わらせ方は舞台の幕がシャーっと引かれるイメージではなく、少しずつ終わりに向かって近づいている感じ。終わるときは日が暮れていくようにねと聞こえる。余韻のグラデーションがある。
再会し散歩している中でクさんはミジョンにん「俺たちは(こんな公園みたいな)ところが似合ってるな。」と言う。人間も自然の一部として生きてる二人にはふさわしいし、もったいぶってて好きだ。
でも「日は暮れてもまた明ける」からな、とは言っとく。
パク・ヘヨン先生に聞いてみよう
「私の解放日誌」台本集の巻末インタビューで、パク・ヘヨン先生はこんな質問を受けている。
ほれ、わだしだけじゃないずら、そう聞こえたのは。
それに対して
だそうです。納得するかしないかはご自由です。
でもね、繰り返すが、この人(パク・ヘヨン作家)は似た発音の言葉をわざわざ使用して遊ぶことばっかりしてる(笑)
例えばギジョンが「オンマは過労で死んだ。」と言う台詞があるんだけど、お母さんは畑仕事と飯炊きに明け暮れていたことを相変わらずずばりと言ってびっくりさせる。
畑は「밭/パッ」で飯は「밥/パッ(プ)」と発音が似ている。3人の子供たちが寄りどころだったお母さんは、家父長制の下、「パッ」に追われてた人生でしたねと言っている、きっと。
今日と違う明日を信じ続ける
とにかく私は「私の解放日誌」から発せられる「人間は万物の一部」「自然を超越して存在しようとすんな」「自然の中で折り合いつけろ」っていうメッセージというほどでもない静かな景色が好きだ。
空に太陽は昇り、月は満ち欠け、季節はめぐる。
諸行は無常で、浮き世のすべては移り変わるが、変わらないものはいつの時代も幸せになりたいという人間の気持ちという気がする。そしてその生きる喜びは人と繋がることでしか感じられないということは、全人類がコロナ禍で痛感したことだった。
ミジョンは「ヨム・ミジョンの想像は現実になる。」って唱えてる。
悩んで悩んで、考えて考えて、信じ続けることが平安ってことかもしれん。南無阿弥陀仏…。
そして明日も太陽は昇ります。
相変わらず “わたしの「私の解放日誌」Vol.1” はありません。Vol.2から始めてます。は?
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