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「オリジナル」はすでに自分の中にあった

おはこんばんにちは、蜜柑月です。

今週の分のテストが終わって、来週がクライマックス。重ための科目が一気に5個もあります。しかもすべて必修だから取らねば。
それに、学科のコース選択もあるので(成績によって希望するコースに行けるか決まる)、なおさら油断できない。

サークルで新しく配られた楽譜もなかなか鬼畜仕様になってて、テクニカルな難しさというよりも、どれだけ練習して慣れてきたか、つまり純粋な練習(経験)量がものを言うような、そんな譜面になってました。

──よし、頑張ろう。


近況報告はこの辺りにして。
以前、こんな記事を書きました。

借り物の言葉から自分の言葉に昇華させたい──、
そんなことを書きました。

今まで自分は、出会った人の話し方や思考を自分の中に落とし込んで、その模倣を無意識にしていたんだと思います。

だから、心の中に色んな人格や性格を持った自分が居すぎて、いったいどこに本物の自分があるのか、あるいはそんなもの存在しないんじゃないか、といった漠然とした不安感が襲ってきたことがありました。
つまりは、自分の「オリジナル」ってどこにあるんだろう?っていう。


でも、「オリジナル」は消えてなんかいなかった。
ちゃんとこの身に刻んであったのだと、気づけるようになりました。

例えば音楽を聴いているとき。
私はゆったり歌えるような優しい曲が好きで、特に夜空とか星空を表現したのが最近のお気に入りです。

そんな夜を表した音楽を聴いて思い浮かぶものは、数多の星座や、いつか見た流れ星、あるいは気が遠くなるぐらい遥か昔の、星々の誕生の物語とか、今自分や周りの人が存在していることへの尊さとか。
大声でメロディーを歌いたくなるような、言葉にならない、グッとくる瞬間がいくつもあって、その一瞬が大好きで。


例えをもうひとつ。
歌詞や詩を読んだとき。
私の身に起きた出来事や、自分の周りにいる人々との関係や感情とを照らし合わせて、自分の置かれている状況に一致するように言葉を解釈することも少なくないです。


つまり、私の「オリジナル」は、何かを聴いたり、読んだり、見たりと吸収した後の「解釈の仕方」や「感じ方」。
無から有を生み出すことは難しくても、すでに有るものを別の形に持っていったりするのが得意だな、と思いました。

誰もが自分なりの解釈を持っている。
けれど、そのひとつひとつは、たとえ似たものがあったとしても全く別の物で。
そこに「オリジナル」があるのだと、そう思えるようになりました。

「感じ方」や「解釈の仕方」は他人から干渉されたり教わりようがない、つまり自分の内側からしか発生しないし、隠したり誤魔化しの仕様がないが故に、あるがままの自分はそこにあるんだと思います。


少し哲学っぽくなってしまったけれど、昨日の寝れない布団の中で、音楽を聴きながらふと思ったことを書き出してみました。さすが、深夜テンション。
それでも、ちょっと大発見したような、そんな気持ちになれました。

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