心の灯
最近noteの更新が止まってしまってたし、読むのもあまりしなくなっていた。だけど、友人がnoteを始めてくれたのを嬉しく思ったのをきっかけに、久々に書くことにした。
過去の自分の投稿を読んで思う。
その場その時の苦しみ、嬉しさや葛藤を常に抱えていて、拙いなりに文字に書き起こして発散してたんだな、と。
noteの投稿が止まってしまったのは決して忙しいからではない。なんなら大学3年に上がった所で授業数もグッと減り、今期に至っては月曜日と水曜日に全休ができたまである。
もちろんTOEICの勉強や資格の勉強など、やらねばならない事はあるけれど、自分を律する力は皆無で、昼間はただ家でゴロゴロし、夜になればサークルの部室に行き、自主練する日々を送っている。
そこでふと、更新が止まってしまった理由を考えてみた。
実は更新を止めていた時期にも下書きは何個か残していたのだけど、最後まで書き切れることがなかった。自分の思いを全部載せようとすると、話が色んな方向に脱線してしまい、最終的に諦めてしまったというのもある。
だけど、それよりももっと重大で、根本的な原因を見つけた気がする。
ここ最近、歳を重ねるにつれて痛みに対する心の反応が鈍くなっていっている。ゆっくりだけど、でも確実に、真っ黒な虚無が私の心を蝕んでいるのを感じる。まるで癌のように。
でもそれは一見するといいことなのかもしれない。
たまに凹むときがあっても、立ち直りが格段に速くなり、多少は生きやすくなった気がする。何かあってもまあそんなもんだよな、と割り切ることも増えた。
だけどそれと引き換えに、今まであった感情の豊かさでさえも失われているのだとしたら。
少し前みたいに、一つひとつの出来事に、「今ここに在ること」に、心を傾け、集中しづらくなったとつくづく思う。変な余裕というか、隙間が生じるようになった。以前あった身を焦がすような感情の勢いは消失し、きっと次もあるだろう、とか、まあ大丈夫でしょ、とか。
今自分の身に起きている出来事や、それに対する熱い感情を忘れるのが怖かったから、それをなるべく温かいままで保っておきたかったから、「記事」として残したのではなかったか。
忘却が寂しく、抗っていた私はどこへ行ってしまったのか。
多分、前述した「余裕さ」が心に虚無の種を植え付けてしまったのだと思う。
生きていくうちに、同じような状況が何度か出てきて、出来事にも感情にも慣れてしまう。そんな慣性によって全自動で動き続ける心で、新しいことが降りかかってきたとき、その慣れから「どうにでもなるか」と投げやりになってしまう。
だからきっと、今目の前にあることを大事にできなくなり、感受性も鈍くなったのだと思う。
生きづらさと感受性は、おそらく相関関係にあるだろう。だから、生きやすさと感受性を両立させることは本当に困難だな、と感じる。
それでも、心を機能させ、フルで良いことも感じ取れたらと思う。
まだ幸いなのは、こうしてじわじわ迫ってくる闇を感じて、言葉に起こせたこと。これだけでも少しホッとした。
大丈夫。無事に言葉になったのだから。
まだ心の奥は機械仕掛けの全自動なんかじゃなくて、得体の知れない何かで動いているのだと、この記事を書きながら思えた。