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ポスト・トゥルースの覚え書き

現代の国家では民族的なルーツは復元の対象となる一方で、市民の匿名性は保護対象となり、これらは並列化している。
また、真実は真実で情報に過ぎなくなる。この場合、受け手や送り手である人間の復元や保護のために主体的に選択される材料としての性質しか持ち得ない。
また、民主主義と資本主義は自由意思を燃料とするため互いに相性が良く、戦争から経済戦争にシフトしたため、現代人は民族(または国民)としても市民としても、なんらかの選択を独裁者のせいにできない。

ルーツの復元性において価値判断を行う際の根拠が多元化しながら、匿名性の保護はその多元性を介して、責任の所在が分散可能であり、
真実ははじめから根拠を目的とした情報として存在していることから、
真実は回避したい責任の数に準ずる形で分散し、その過程で、根拠を失うのだ。
つまり、ポスト・トゥルース的な現実とは、わたしたちと真実が、根本的に地続きの関係ではないことから生じており、
そして、真実は真実でまた、たとえ根拠が共有された場合においても、真実であるがゆえに現実を変える立脚点とはならないのである。

その帰結は、真実の構成要素である人間と現実が、互いに抽象化と具体化をもって、選択の責任を棚上げする形で表出する。

異なる動機で選択される真実の側からすれば、真実は真実であるために異なる文脈から共通点へと流れ込む。
その正確性を重視させようとすればするほど、人間は統計の対象として、人口とその割合となることで抽象化し、やらかした個人はその性質や組織の構造批判に還元される、具体性を得る。
同様に、個々の人間側からすれば、自己の復元と保護に都合の悪いものを幻想にするか、現実とはそのようなものだと合理化するより他なくなるのである。

ポスト・トゥルース的な現実が価値相対化と異なるのは、価値相対化は絶対を忌避して納得を拒否することで現象化するが、真実そのものはあくまで絶対的な性質を持ち、ポスト・トゥルース的な現実は、個々の真実に対する説得と納得の解離を介して存在しているからである。

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