同一律以後の哲学。
「A is B」という固定的な同一性ではなく、「B as A」という形式が、現代における同一性の捉え方に近いと言える。
「A is B」という表現は、伝統的な同一律に基づくもので、AとBが固定的に同一であることを前提としている。
ここでは、同一性は変わらず、不動の真理として存在する。
しかし、現代の哲学や思想では、同一性そのものが流動的であり、相対的に変化するものであるという考え方が広まっており、そのような文脈では、「B as A」となるような表現は、同一性が単なる固定的な関係ではなく、状況や文脈に応じて意味が変わりうることを示しており、
この「B as A」は、BがAとして現れる、またはAとして理解されるという動的な関係を強調しており、ここでは、BはAそのものではなく、Aという役割や意味を持つものとして現れる。
これは、物事や存在が一義的に決定されるのではなく、常に状況や関係に依存して異なる意味を持ちうるという現代的な視点と一致する。
現代では、個人や社会におけるアイデンティティも、固定されたものではなく、文脈や関係に応じて変化するからだ。
たとえば、ある人は職場では「上司」としてのアイデンティティを持ち、家では「親」としてのアイデンティティを持つことで、同一人物であるにもかかわらず、そのアイデンティティや役割は状況に応じて変化するといった性質を持つこととなり、
その性質が反映されているため、「B as A」という形式で理解するより他なくなるのだ。
一方で、現代の芸術や文化においても、ある一つの作品の多様な解釈を許容せざるをえなくなる。
同じ作品でも、観る者の立場や状況によって異なる意味や価値を持つ、「B as A」という形式で言うなら、作品は絶対的な意味を持たず、常に多義的な意味を持つものとして現れるのだ。
そして、固定的ではない同一性には、それを成立させるために、関係が必要不可欠であり、関係の方が問題となる。
現代の哲学の多くの流派に影響を与えているもののひとつに、デリダの脱構築があり、それはしばし、意味や同一性は常に他者との関係に依存し、絶対的なものとして存在することはできないと解釈されうるが、
脱構築が脱構築そのものを語っただけだったのに対し、脱構築された哲学そのものとして、分析哲学やドイツ新実在論、イギリス経験論、アメリカ実用主義が、デリダの仕事に前後する形で存在している。
このような思考では、「A is B」という表現ではなく、「B as A」という流動的な関係を通じて同一性を考える方が適切となるが、
ヘーゲルの弁証法においても、「B as A」に類似した現象を見つけることができる。
それは、彼の哲学では、弁証法による止揚が、対立や矛盾を統合し、新しい段階へと発展する過程が繰り返されるからであり、この統合のプロセスにおいて、一つのものが別のものとして現れ、対立する要素が新たな次元で統一されると言われるが、
ここでも、同一性は静的なものではなく、矛盾や変化を通じて動的に形成される性質を持つこととなる。
結論として、現代における同一性の在り方は、単なる「A is B」という固定的な関係ではなく、「B as A」という流動的かつ相対的な関係へと変化していいる。
この流動的な同一性は、関係性や状況、文脈に応じて常に変わり続けるものであり、固定的な意味や役割を転々としていることになる。
この転々とする変遷を、変遷のまま自己に回収すると、ニーチェの永劫回帰になる。
これはたんなるおさらいに過ぎないが、力への意志の力とは、全てのテーゼとアンチテーゼの手前にいながらにして、全ての止揚された物事の後に立つが、決定には関わっておらず、つまるところ、ニーチェの先駆性は、キリスト教的なロゴスのみならず、
プラトンにおける国家論的なロゴスの側にも立っていないことになる。
そして、彼はプロテスタント的な勤勉さのみならず、歴史の中でロゴスが強いるイデアに裏切られ続けるパトスとエートスまで飲み込んでいる立場と言える。
つまるところ、ニーチェは単なる宿命論者なのではなく、近代におけるカトリックの支配構造と同様の、プラトンのイデア論と国家論に通じる宿命化したロゴスの目撃者であり、それらの顛末の先にいることになる。
その意味では、ニーチェの超越者とは、実体の有無に限らない神の代替のみならず、プラトンなどの思索の限界として歴史的に否定されてきた哲人王の不在性にも対置可能な存在だとは言えないだろうか。
なぜならば、その不在の哲人王は、ヘーゲルの弁証法において、存在としての国家までもを止揚するときの決定者の代替と言えるからだ。
先に述べた通り、私が脱構築以後とした哲学が無駄な方便となると言えてしまうのは、ロゴスをロジックとして引き継いでいながら、論理構造そのものにwhoへの回答に属する責任者の問題を付与できないからであり、論理の外にあるwhenが場合に属したまま、満たされた「A is B」は、不在のwhoによってhowの回答として、いつでも動的な方便として、裏切るロゴスとしての「B as A」になり、ニーチェにおいては、禁欲を語る者の贅沢に舌打ちするような筋論となる。
ニーチェを患者にしてもあまり批判として意味を成さないのは、批判者もまたwhoへの回答を持たない「A is B」の待ち人だからであり、
現代において超越者が不在ならば、仮にニーチェを否定しきれたところで、彼らが待ち人であることが強調されるだけとなるからだ。
普遍性を持つ論理の永遠的な性格と、普遍からすれば特殊であるはずの個々の二律背反が、真偽において二元的な矛盾からジレンマへと下降することで、永劫回帰の根拠となる無根拠さだけが現代的な時間の上にただ置いてあるだけとなるからだ。
この場合において、同一律以後の哲学における論理や時間は、単に通りすぎるだけのものでしかなく、諸々の根拠の不在性において、論理は論理に過ぎず、人は人に過ぎないという、歴史が示す状況証拠的な顛末だけが同一律の代替となるだけであると言える。