散歩が好きな私と、嫌いな恋人
遠距離の記録に書いていた恋人とお別れした。
恋人は、散歩が嫌いだった。私は散歩が大好きで、どこかへ行くときには、歩くかタクシーやバスに乗るかで、お互いよく主張しあっていた。
私はただ歩くのが好きかと言われると、そういう訳でもない。1日よく活動した日に「ほら、散歩好きなんでしょ?」と恋人に言われてむっとしたこともあった。くたびれることもある。歩くこと自体が好きではないようだった。
ある時、恋人とお昼にピザを頼むことになった。お店まで取りに行くのに、車に乗って行くもんだと思っていた私に「歩いて取りに行く?」と恋人が尋ねてきたときには、私の見えないしっぽはめちゃくちゃ早く動いた。私犬かな?と思うくらいに。歩くことを提案されるだけで気分が良くなるなんて、ちょろすぎると思った。
この話を友人にしたら、そんな愛おしいあなたを大切にしてくれる人と一緒にいられたらいいよねと言ってくれた。ちょろい私を大切に。
一体、私の好きな散歩とはどう定義されるだろう。
友達に、私たちの好きなあの”散歩”を定義するなら、どんな言葉を使うか聞いた。こんな言葉が出てきた。
「散歩は、歩くことが目的ではなくて素敵なものを見つけたり、相手の視点を知ること、時間を共有することが目的。」
おそらく恋人は、散歩を「徒歩で移動すること」と捉えていた。それならば、目的達成のために時間がかかるとイライラしてしまうのも理解できる。
一方私は散歩を、「相手と向き合うための環境設定として、様々な外部刺激のなかを歩きながら話すこと」と捉えていた様だ。2人で歩いてる時にはスマホは見づらいし、トピックも周りに沢山あるし、素の状態で会話出来ることがとてもいいなと思っていたのだった。
今まで友達と遊んでいる時に、ちょっと散歩するかと思い立って、辺りをフラフラすることがあった。これは散歩の概念が私と友達で割と近しかったから出来たことだったんだなと、そのありがたさを思い知る出来事だった。
恋人と散歩が一切できなかった訳ではなくて、飲みに行くと帰りはよく付き合って歩いてくれた。ふらっと近くの公園に立ち寄りたいと私が言うと、近くに住んでるのに初めて入った、意外といい公園だな、君がいなかったら今後も来なかったかも、なんて言われたりした。桜が満開の夜だった。街灯に照らされて桜は白く見えた。
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