読みたいものを読んでいるのではなく,読めるものを読んでいるのではなかろうか
ある本の中で,こんな話があった.
著者が,ある教科書会社から,小学生の教科書に載せるために何か書いてほしいと頼まれたが,めんどくさいから最初は断ったそうな.
自分の書く内容は難しい内容が多く,それを小学生むけに書くのは骨が折れると思ったからだそう.
けれども,その教科書会社からの熱い要望があったため,書いて送ったら,
結局編集会議でボツになったという話である.ボツの理由は,内容が小学生には難しすぎるからである.
その話を著者自身がまあそうなるだろうなと回想している.
「私の書く文章の意味が分からない小学生に文章を通して何かを語るというのは,単なる消耗である」と.
これを読んだとき,本当に残念だなと同時に恐ろしいとも思った.この人の書く内容はものすごく面白いのだ.でも小学生は内容が難しいから読めないのだ(読める子はいると思う。とてもわかりやすいように書いてくれていた).
けだし読めないということは,どれだけ面白いことが書かれていてもわからないし,知ることもないということなのだ.
しかしそれは私にも言える.いろんな本・記事があるなかでなぜそれを読んだのか?なぜそれを面白いと思ったのか.
どうやら根源にあるのは,意味が分かるからだ.自分のレベルを超えた文章にであったとき,それは単なる文字である.
どれだけ味のある内容が書かれていても,わからない.というより,見たときによくわからず次のものに移ってしまうのだろう.
それが今の自分の理解できるレベルである.
自分の理解より高いレベルのものは読めない(著者と対話ができる状態ではない)
小学生はその点素晴らしい.自分レベル以上のものをどんどんと読めるようになっていく.たぶんそれは授業等でそういう文章を読む練習をしたり,読書をするなかで身に着けていくためだろう.
一方の私はどうだ.このまま自分の読めるものだけを読んでいても(それはそれで楽しいが),その語り口では表現できない文章に出会ったとき、理解することはできない(ただ単に文字列を理解することではない).その先の面白さを享受することはできないのだ.
そういう意味で,「読めるものだけよんでいること」について少し考えていた.
人はどうやってその壁を打ち破っていくのだろう。