いっすんぼうし

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最近の記事

僕の中でのSNSの在り方

最近よくInstagramを交換してほしいと言われるようになった. Instagramが流行ってるんだなと思うのと同時に,なんで交換してほしいのか不思議に思った. どうして交換してほしいの?と聞いたときのことを思い出していくつか理由を考えてみた. 1. 繋がっていたい 2. その人のことを知りたい 3. 今何をしているか知れる の繋がっていたいは,僕が繋がっていたいと思う人から言われた言葉だ.交換なんかしなくても繋がっているってば. は,プロフィールを見る感覚なのだろう

    • 読みたいものを読んでいるのではなく,読めるものを読んでいるのではなかろうか

      ある本の中で,こんな話があった. 著者が,ある教科書会社から,小学生の教科書に載せるために何か書いてほしいと頼まれたが,めんどくさいから最初は断ったそうな. 自分の書く内容は難しい内容が多く,それを小学生むけに書くのは骨が折れると思ったからだそう. けれども,その教科書会社からの熱い要望があったため,書いて送ったら, 結局編集会議でボツになったという話である.ボツの理由は,内容が小学生には難しすぎるからである. その話を著者自身がまあそうなるだろうなと回想している. 「私

      • 私は汚いやつ

        人の気持ちがいつもわかるわけではないが,ある程度気持ちが透けて見えてしまうことがある.それを知ったまま話すのがとてもつらい. 嬉しいとか悲しいとかならまだしも恨みつらみなんかだと本当に辛くなる.相手が直接気持ちを話すわけではないのがまた厄介で,こちらのことを考えて言わないように隠してくれているにも関わらず,言葉とか表情の端々,これまでの経緯なんかから不意に感じ取ってしまう. 普通に会話をしたいだけなのに,相手が話す言葉が本当か毎回のようにジャッジがかかるのだ.それも無意識

        • ふと #1

          どれほどの挫折を味わい,深い人生を生きてきたら あんな言葉を生み出せるのか

          大人になっていくということは,好きな自分に落ち着いていくことではないか

          大人ってなんか頑固な感じがするけど,あれって自分が好きな自分でいる方が幸せになれると気付いて,そのままで居続けることができた状態なのではないか? 子供のころは,周りからの影響を受けるし,合わせないと恥ずかしいといった感情もあるが,大人になってそういうものに自分を合わせるよりも,自分が好きな自分でいる方が生きやすいと気付いていくのではないか. その方が長く幸せで入れるということに大人は気付いている気がする. 現在の僕はどういう状態かというと, 落ち着きつつありながらも周りか

          大人になっていくということは,好きな自分に落ち着いていくことではないか

          過剰な意識をはずすには

          あることに集中したいとき、集中しようとすればするほど頭に入らないことがある。 あの頭が熱くなる感じ。何も考えられてないのが分かる。 この記事を読んでいて、この状態は意識が過剰にそれに向いているときなんだと気づいた。 こうなったときの解決策も書かれている。 頭に別の仕事を同時にさせてやればよい ということだそう。 これによって意識が分散し、一つのことに過剰にリソースが割かれることが無くなるみたいだ。 このとき気をつけたいのは、集中したいものではないことのほうに常に意

          過剰な意識をはずすには

          驚くには

          どうやら驚くことは意外と難しいらしい。 https://note.com/shinshinohara/n/n8368c43f9069 自分が純粋に驚いた時ってどんなときだっけ?と思い出してみた。 「これってどういうこと?と聞いて説明してもらい、 あ、そういうこと! ということは、こうなってるかもしれないってこと? (説明した人)あ、そうそう」 となった時だった。 つまり、自分が話を理解して、その上で理解したことから(教えられてない)何かを導けたときに、 そうだ

          かしこくなることを恐れていた

          かしこくなる,頭がよくなるのは良いことなのだろうか. 幼いころ,かしこくなることに少し抵抗があった. かしこくなるにつれ,論理的な思考ができるようになると思っていたのだ. 何だかいいことのように思える.でも不安はそれより先にある. 論理的になると,それ以外の考え方ができなくなり,頭が固くなってゆき,人に冷たくなり,引いては他人を思いやる温かさをなくしてしまうものだと思っていた.自分が論理的な思考の持ち主になったわけでもないのに酷い偏見である.でも本当にそう思っていた.

          かしこくなることを恐れていた

          もし僕に子供ができたら

          もう子供を持ってもおかしくない年齢になってきたので,少し自分が子供を持った時のことを考えた. 僕に子供ができたら,子供にはいろんな大人の人と関わって生きていってほしいと思った. 僕が教えられることもあるだろうけれど,そうじゃないこともたくさんある.そんな時に周りにいる人に話を聞いたり,教わったりしていいと思う. なんだか日本は,他人の子供を叱ったりすることがあまり良くない風潮があるように思う.とにかく面倒ごとを起こさないように他人と関わらないようにしようという感じがする

          もし僕に子供ができたら

          伝えたいから、正しい言葉を使う

          言葉を正しく使ったほうが良いなと思うようになった。 これは、辞書的な意味にこだわるということではなくて、「正しく早く伝えたい」という気持ちが源になっている。 こう思ったのは、最近正しく言葉を使えなくて困ることが多くなったからだ。 何かを相手に言ったとき、相手の反応や返してくれる言葉が、あれ、そういうことを言ったんじゃないけどな、なんか違うな、と思うことが多かった。 相手に伝えるとき、 今までは自分がきちんと分かってさえいれば、あとはどうにかなる、最初伝わらなくても言い

          伝えたいから、正しい言葉を使う

          自分なりの仮定に基づいて行動することで力がつく

          調べるとき,とにかく検索をかけてそれっぽいことを書いている記事を探すやり方は,かえって時間がかかることが多いし,得たい情報を得られないことが多いと感じる. それに検索力がいつまで経っても上がらない気がしていた. 検索力がないと困るのは,正しい情報にたどり着くのが遅くなるから. 検索力はどうやったらつくかというと,自分なりの仮定に基づいて行動することで付けられると思う. 例えば,「ある分野でよく使われる道具を探したい」となったとき,検索窓でいきなり調べるのと,Googl

          自分なりの仮定に基づいて行動することで力がつく

          IT屋からみた歴史を学ぶ理由

          IT屋は公式ドキュメントを参考にしろとよく言われる. この理由は正しい情報が欲しいからだ. 公式ドキュメントは正しいことを書いている確率が最も高い. ブログの記事を参考にする方が楽だが,ブログのソースは間違っていることが多い. ではなぜ公式は正しい確率が高くて,ブログが間違っていることが多いといえるのか. これはどのように作られるものなのか歴史(過程)を知るとわかる. 公式ドキュメントはそれを作った組織が間違いの無いよう気を付けて作る. ブログは個人が調べた範囲で書く(

          IT屋からみた歴史を学ぶ理由

          物事を考えるには余裕がないといけない

          たくさんの人の考えを見てきた.とてもくだらないことから,深い考えまで色々あった.それらはとても面白く,何かについて考えることが人生を豊かにしている気がした. これからをどうやって生きていこうか悩んだり,何か目標に対して方法を模索したり,そういうのを考えることはすごくいいと思う. ただ,そうしたことに思いを巡らせるには余裕が必要だと思う. ストレス状態で睡眠がとれていなかったり,体調がよくないときには良くない方向にばかり考えが向かう可能性がある. 例えば「自分がこの世から

          物事を考えるには余裕がないといけない

          元できなかった人に聞いてみる

          できるようになりたいことがあるならば、 「今はできるけれど元々できなかった人に聞くほうがよさそうだ」 と思いました。 僕は、走るのが得意です。なのでどうやったら速く走れるかを兄弟からよく聞かれましたが、明確に答えられた試しがありません。 毎回聞かれて、毎回ちがうことを言っている気がします。 これでは聞いている側からすると、もうわけがわからない。毎回説明がブレブレである。 僕は説明できないのである。元々速く走れていたから。 一方、もともと走るのが苦手で、今は速く走ること

          元できなかった人に聞いてみる

          数学的思考力ってなんや

          数学的思考力という言葉がよくわからなかったので、 細野さんの本を参考に自分なりの考えを出しておくことにした。 僕なりの数学的思考力とは、 「中間を埋めていける力のこと」 です。 例えば、 原油価格が上がる ↓ 日本車が売れるようになる この間を埋めることができる思考力のことです。 この例を埋める必要はないけれど、僕なりの数学的思考力がどういうものか伝わればいいなと思います。 本の中で紹介されている例なので、答えはその本に譲ります。 ちなみに細野さんの本での数学的思考力

          数学的思考力ってなんや

          そこに歴史があるから、好きになる。

          ある日車に乗ると、おやじさんが曲をかけた。 「その曲、好きなん?」 「まあな」 僕は知っている。 おやじさんは、その人が好きなのだ。その曲じゃあない。 でも、それは僕も同じだ。 僕にも好きな人がいる。 その人が書いたから読もうと思うし、その人が歌うからいいんだ。 別にどんな歌でもいい。 そういうことなのだ。 そしてたいていの場合、その人と自分の間には何か歴史があるものだ。 おやじさんもたぶんある。 思い出を聞いているのだ。 おやじさんは。

          そこに歴史があるから、好きになる。