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僕は穂高を目指した。(全編)

穂高に登りたい。
どうしてそう思ったのか、なぜ今なのかはわからないけれど、そう思った。
これは僕が初めて自分で計画して登った山と、その道中の旅の記録である。

1. 穂高を目指して

穂高は標高3190mと、3000m級の山である。
という漫画を読んだことがあれば、もしかすると穂高を知っている人がいるかもしれない。
この漫画の主人公である三歩のモデルとなった人物が、まさに穂高岳山荘で働いていた人である。僕が知ったとき、この人は既に事故で亡くなっていたが、残した記述や写真を見て、どうしてもこの山に登ってみたいと強く思った。

僕は登山経験はほぼないが、体力だけは自信があった。
ただ、一人で登山計画など立てたことなどなく、すべてが初めての連続であった。

2. ザックを買いに

まず取り掛かったのがザック(登山用のかばん)である。情報収集のため、初めてアウトドア専門のお店に入った。最初に選んだのはmont-bellのお店だった。山登りと言われて僕が知っているブランドはmont-bellしかなかった。
店長を捕まえてザックやテントのこと、寝るときに使うマットのことなど色々聞いた。
この店長がとても良い方で、僕が「今日は何かを買うつもりはなく見て回りに来た」と言ったにもかかわらず、商品を買わない僕に一から十まで説明してくれた。

店長は沢山のことを教えてくれた。
何泊かするなら、テントに加え食料などを一人で持たなくてはならない。その場合、ザックの大きさは装備を軽量化しない限り50L以上は必要であるという事。寝るときに敷くマットにもクッション式・空気式・その両方を備えたものなどがあること。その他コッヘルやカバーに至るまで、閉店間際まで質問攻めである。最後には売り場にあるテントを実際に組み立てるところまでやらせてもらった。

この後別のアウトドアブランドも見たが、アウトドア系の商品においてはmont-bellの品質が非常に高いということが分かった。
mont-bellのラインナップには、テントでは約1kgと超軽量かつ暴風雨に耐える強靭なものもあったりする。
一流の製品がどういうものなのか、知ることができた。

3. 秀岳荘

次の日向かったのは、mont-bellではなく、秀岳荘という店だ。
実は先のmont-bellの店長から、「取り扱う商品数はこの辺では秀岳荘が一番だと思う」という情報を貰っていた。自身の店舗ではないのに本当にありがたい限りである。

秀岳荘ではmont-bellを含め様々なメーカーの商品を扱っている。色々な中から自分に合ったものを選びたいと思っていた僕は、そうした理由で秀岳荘へ向かうことにしたのだ。ここであるザックと出会う。

オスプレイ(OSPREY EXOS PRO シリーズ)である。初めて持った時、その軽さに驚いた。55Lの容量を持ちながら、その重さは0.94kgである。1kgを切っている。その分腰回りのウエストベルトやザックそのものの生地が薄くなっていることが、この異常な軽さを実現している。これで耐久性は問題ないのか。

その後様々なザックを試着させてもらい、秀岳荘の店長にも大変にお世話になった。ザックについての知識がゼロである僕に、背面長があっていることの重要性や、ザック自体の重さよりも背負ったときに身体にフィットする感覚(錘を入れて背負った時に軽いと感じるか)の方が大切だと教えてくれた。

店長は時間をかけて考える僕に、一つ一つザックに錘を入れ、背面長を合わせ、これはどうかうまく合うかと調整してくれた。

最後2種類のザックで迷ったが、試着したときの背負いやすさと軽さ、強度もある程度保証できるという店長の言葉で、最終的にオスプレイのザックに決定した。

ここで予定外だったのは、オスプレイのザックが4万1800円もしたことである。今回の山登りの費用すべてを5万円くらいで収めようとしていたつもりだったが、いきなり残り8000円ほどになってしまった。
だが今後のことを考えるとザック代を削るわけにいかなかった。
どうにか他を切り詰めていくしかないなと、この時に思った。

4. 旅の計画と椅子取りゲーム

当初の登山計画はこんな感じで考えていた。

・登山自体は1泊2日で終える。
・1日目に山頂まで登り、山頂でテント泊し、翌日に下山する。
・穂高までの移動は飛行機、電車、バスで安いものを組み合わせて行く。

この中で考えるべきは3つ目だ。やはり僕の住んでいる北海道から穂高のある長野県までが遠すぎる。約1000km近くあり、飛行機は片道4万円。
夏休み期間とあって値段が跳ね上がっている。飛行機は高いからダメだ。

そこで僕はこんな記事を見かけた。https://note.com/mylifebyyuki/n/nc0013403e6d1

どうやらフェリーで行く方法があるらしい。
これしかない。学生だから幸い時間はある。

そうと決めたら予約だ。
しかし、出発1週間前に申し込んだものだから安い等級(部屋)はすべて埋まっている。他の等級は2万円近くする。飛行機の半額だが一番安い部屋の2倍の値段である。

ここで諦めるわけにはいかない。

必ずキャンセルは出るはずだと踏んだ。調べるとフェリー出航の1週間前に支払いが完了しなければ自動で空きがでるシステムとなっていることがわかった。0:00になるのをパソコンの前で待ち、空きが出た瞬間に席を取る作戦に出た。

ちょうど0:00にブラウザの再ロードをかける。
祈るように席の状態を確認すると、よし!!空きがある!
読み通りキャンセルが発生していたのだ。今だと言わんばかりに席を取った。僕が予約した後、再び満席の表示となった。
残り1席の土壇場であった。

5. 登山口までの移動手段

登山口までの旅程は大まかには以下のようになる。

・北海道(札幌)→新潟→長野→松本→上高地 (登山口)

北海道からフェリーに乗って新潟へ。
新潟から電車とバスを乗り継いで長野、そこから登山口までのバスが出ている松本市へと向かう。

北海道から新潟まではフェリーで何とかなるとして、新潟から登山口まではどうするか。新潟から松本へは、電車とバスを駆使しても約5000円かかる。往復で1万円だ。これでは他に必要なテントなどが買えない。

そこで苦渋の決断をした。船以外の移動を全てヒッチハイクにするのである。
ヒッチハイクは一度北海道で経験したことがあった。しかしその時は時間に縛られていなかったし、他の県をまたぐようなこともなかった。

新潟 - 長野(松本)の間は距離にして約270kmである。距離自体は大したことはないが、今回はフェリーのチケットを取ってしまっているため、日程のずれが許されない。
この距離を1日で移動する必要があったが、時間的にいけそうな感じがした。でもそう簡単にいかないのがヒッチハイクである。

6. 出発 

今回の旅程は以下のようになっている。
8/2~8/7の約一週間の長旅である。

・8/2 フェリーで北海道から新潟へ 
・8/3 新潟からヒッチハイクで長野を目指す。この日中に長野県の隣町である松本市まで向かわなければいけない。
・8/4 翌日、登山開始。山頂まで一気に登る。頂上でテント泊。
・8/5 朝から下山する。この日に松本市まで戻ってくる。
・8/6 翌日、ヒッチハイクで松本市(長野)から新潟を目指す。
・8/7 12:00発のフェリーに乗って、北海道へ戻る。

とまあ大体こんなところである。

計画性のない僕は、出発の当日まで準備が終わらず、あれやこれやと準備をしていた。
登山とは別に、実は今回の旅で穂高登頂ともう一つやりたいことがあった。
必要な物品はすべて持っていくことである。
6日分の食料もザックに積んでいこうと思った。
自分の身体がこの重いザックを背負った長旅に耐えられるかどうかを知りたかったのである。

こうなると持ち物は、テント、寝袋、マット、着替え(3日分)、食料(6日分)、ヘッドライト、水1L、救急用具、その他色々含めるとかなりの重量となった。
食料は6日分持っていこうとしたが、入りきらなかった。
ザックの購入する大きさを60L以上にすれば良かったかとも思ったが、荷造りを終えた時の総重量は約20kgにもなり、これ以上重いザックを背負うのは自分の身体が持ちそうになかった。結果オーライである。
仕方ないが2日分の食料は現地で調達することにした。

さて、いざ出発という段になって一つ懸念点があった。
実は北海道札幌市からフェリーターミナルまでは、実は車で1時間ほどかかるのである。
歩いて行けないことはないが、一日目にして体力を失うことは避けたい。
仕方ないがここだけはバスで行こうか。。と考えていた。

諦めてバスを取ろうかというその時、この旅の話を聞いた先輩が車を出してくれるというではないか。まさに渡りに船である。そして実はこの人、南極に行ったこともあるとんでもない人でもあった。
暇だからとかなんとか言っていたけれど、わざわざ車を出してくれていることが僕は本当にうれしかった。

こうして無事、北海道からフェリーに乗り、新潟へと向かうことができた。

7. 時間との闘い

8/3(木)

朝9:15。
フェリーは新潟へ到着した。
ここからヒッチハイクの旅が始まる。
ワクワクもあるがあまり悠長にしている時間はない。今日中に長野県松本市まで行かなければいけない。

最初のポイントは、長野方面へ向かう高速道路の前に据えていた。
しかし、フェリーターミナルからそこまでの距離が意外と遠いのだ。
それに加え、初めてのヒッチハイクである。最初は人前で「○○方面」などと紙を出すのが気恥ずかしく、ギクシャクしているうちに、えいやと始めた時には既に11:00を回っていた。

最初に乗せていただいた方は、40代くらいのさわやかなおじさんだった。用事を済ませるため新潟 - 長岡まで行くのだという。いきなり1/4くらい進むことになる。つくづく僕はついている。その方はトイレや洗面台などを建築業者に卸す仕事をしている営業の方であった。さすが営業をしているだけあって最後まで会話が途切れることはなく、僕にとっても楽しいひと時であった。

ここでヒッチハイクのプチ情報を残しておく。ヒッチハイクは1人目が一番大変である。これは前回のヒッチハイク学んだことだが、一度乗せて貰えれば、次からは車通りの多い場所で降ろしてもらえるからだ。
だから肝心なのは一度目である。今回ピックアップポイントを定めたことは、前回の経験が活きた瞬間でもあった。

そうしてありがたくも、長岡の国道沿いにあるコンビニ前で降ろしてもらうことができた。しかしこの時点で14:00近くになっていた。

炎天下でのヒッチハイクは体力を使う。しかし腕をおろしてはいけない。今の自分にできる精一杯がそれなのだから、車が来なくても腕をおろさない。乗せてもらえることをひたすら待つのだ。しばらくして少年が近づいてきた。

「アイスどうぞ」

完全に怖がっている。明らかにアイスどうぞの顔ではない。

ありがとうと言って受け取り、周りを見渡すと遠くにおばあちゃんらしき人がいた。そうかあの人がこの子の。

少年に連れられてお礼を言いに行った。
すると十日町まで送ってくれるという。なんという事か。これまた1/4程進んだ場所である。お言葉に甘えて同乗させて頂いた。少年は今夏休みらしく、おばあちゃんの家に遊びに来ていたみたいであった。車内はよくあるおばあちゃんと孫との幸せな会話が続き、僕は邪魔をしないようにただ窓の外を眺めていた。

しっかりとお礼を言ってから、降ろしてもらう。
そこから時間がいくらか過ぎ、次の方に乗せていただいた時には17:00近くになっていた。

次の方は通称「桃の人」である。女性の方で桃を運んでいらっしゃった。
この方はとても苦労人で、若い頃に自分のやりたいことをするため、働きながら学校に通っていたという人であった。朝4時~12時まで仕事をし、その後学校へ行く。夜10時に授業を終えると、そこから仕事着の洗濯やらをしなくてはいけない。睡眠時間は数時間というのを3年続けて卒業したのだという。勉強は今の内しかできない。大人になってそれを痛感したとおっしゃっていた。

一方の僕は何をやっているのだ。こんなことをして勉強もろくにせず、自己満足のために旅などと言い訳をして山登りなど。時間ばかりに気を取られていた僕は頭から水をかけられたような落ち着きに包まれ、親や先生のことがふと頭によぎった。自分の不甲斐なさがずしりと腹の底へ沈んでいく。

降ろしてもらったところは津南という町であった。そこで待つこと数十分、不意に後ろからクラクションが聞こえた。「おい乗れ!」そう言って乗せてくれたのは土方工事帰りの男性3人組であった。30代、40代、60代の3人組で、中でも60代のおじちゃんがこれまた面白く、僕のことを興味深々で色々聞いてくる。大学での専攻やらなんやら、トークと返しが怒涛のように続き、もう漫才のようであった。

この方々と別れたのは小布施町というところで、そのころには既に日が落ちかけていた。18時を回っている。まだ松本市はおろか、長野市の市内へも入っていない状態であった。しかし明日は朝から登らねば登頂ができない。何としても松本市へたどりつく必要があった。

車がビュンビュンと通り過ぎていく。どれくらい待っただろうか。急に目の前にかわいらしい車が止まった。こちらが言葉を発するや否や、急かすように「ここにかばんおいて!」そう言われてあわてて後部座席にザックを乗せ、助手席に乗せてもらう。「どこまで行くの?」と言われ松本ですと言うと、「えええ日が暮れちゃう!」そう言って乗せてくれたのは、若い女性の方だった。エステ系のお仕事をされているらしい。そういえば車に乗ったときからなんだか車内がいい匂いだなと思ってはいたが、そういうことか。

その方は長野市にお住まいだが、松本まで送ってくれるという。最終目的地だ。本当にありがたい話である。若い女性がヒッチハイクを拾うなんて珍しいなと思い、話を聞いているとどうやら彼女もアウトドア派で、普段からツーリングやゲストハウス巡りをしたりするのが好きらしい。いろんな人がいるもんだなーなどと思って話しを聞いていたら、なんと同い年であることが判明した。
若者言葉で言えば、まじか。という感じであった。
とてもお綺麗な方で、落ち着いた感じといい、失礼だが僕よりも年齢が上だと思っていた。そうかそうだったのか。
僕はなんだか一気に恥ずかしくなってきた。ここまでヒッチハイクをしてきて恥ずかしさなど忘れていたが、こうも気恥ずかしいものか。
ため口で話そうと言ってくれたが、乗せて頂いている手前そんなことはできない。少し恥ずかしいというのもあったけれど。

そうこうしているうちに、松本市に入った。今日はどこに泊まるの?という彼女に、あまり言いたくはなかったが「近くの川辺でテントを張ろうと思ってます」と告げた。こうなっては野宿でもなんでも言うしかない。すると「そこまでナビして」という彼女は、親切にも川の近くまで連れて行ってくれた。

もうとっくに日は暮れていたし、本当にありがたいことであった。
降りる間際、おなか減ったから栗羊羹を一緒に食べようと誘ってくれ、一緒に食べた。一つ一つ缶に入れられた上等な信州の栗羊羹で、僕がもらっていいものか聞いたのだけれど、いいよいいよと。

実はその日ヒッチハイクに夢中で朝ごはんから何も食べていなかったので、それはそれは、本当においしかった。

8. 誤算

8/4(金)
早朝4:30川辺で目を覚ました僕は、すぐに出発の準備をした。
松本駅から登山口までバスが出ている。ここはバスを使うのかと思われるかもしれないが、上高地(登山口)まではマイカー規制があり一般の車が入れないため、ヒッチハイクができない。歩きでは時間がかかり過ぎるため、朝から登るためにはどうしてもバスを利用する必要があった。

バス停に着くと、まだ一人二人しか並んでいなかった。
しばらくしてバスに乗る列ができ、バスが到着したが、様子がおかしい、皆手に何やら持っている。
実は松本駅出発のバスは予約制だったのだ。
僕は予約などしていない。おいおいどうする、、、ここまで来て登れずに帰ることになるのかと最悪の事態が頭をよぎった。
こうなったらやけくそだ。バスの運転手に直談判である。
もしキャンセルが発生していたら乗せて欲しいと頼んだ。すると受付に行ってくれと言われた。言われるがまま受付にいくと満席で今から予約はできないという。もはやこれまでかと思った。バスの運転手に言われたことを伝えた。すると空席があるから乗りなさいという。システムには反映されていないが、現場ではキャンセルが出ていたのだ。こうして再びキャンセル待ちに救われるこことなった。

2回目の失態に、つくづく自分の計画のずさんさに呆れた。身をもって事前準備の大事さを思い知った。

実はこの時、僕のほかにもフランスからの一人旅の方と、アジア系の男性2人組が予約をしておらず同じ状況であった。僕は少しだけ英語が話せたため、バスの運転手と彼らとの間を取り持ち、その人達も無事バスに乗せることができた。

バスの運転手の方はややこしい英語のやり取りをせずに済んだため僕に感謝してくれていたが、むしろ感謝すべきは僕の方である。本来は乗れないはずのバスに乗せて貰うことができたのだから。

9. 方向音痴

バスに揺られること1時間。登山口に到着した。時刻は7:05であった。
ここまでなんと、当初の予定通りに進んでいる。

今回僕が登るルートは計9時間30分の、次のようなルートである。

上高地 - 岳沢 - 紀美子平 - 前穂高岳 - 奥穂高岳 (山頂)

普通のルートとは異なり、岳沢を通るルートを選んだ。
この岳沢を通って登る人は数が限られる。
僕がこのルートを選んだのは、山の稜線を歩きたいと思ったからである。
これまで山の稜線を歩いたことがなく、その景色を見てみたかった。

しかし登山を開始して1時間、僕はまだ麓をさまよっていた!!
上高地 - 岳沢へ続くルートがわからない。
誰に聞いてもそっちのルートはあまり知らないの答えが返ってくる。
近くにあるホテルで掃除している人に聞いても知らないという。

あっちへ行ったりこっちへ行ったり。。。一体どこにあるのか、焦る気持ちが募る。こんなところでさまよっている場合ではない。

実は僕は極度の方向音痴でもある。今回山に一人で入るのはかなり危険で、それを自覚もしていた。事前に分岐点の確認はしていたが、まさかこんなところで迷うとは。。
自分で計画を立てて迷わずに山に登るのは、僕にとっては難しい挑戦でもあった。

声をかけまくっていると、ようやく岳沢ルートを登ったことがあるご夫婦に巡り合えた。年は70歳になるというのに、奥さんと二人仲睦まじく山登りに来ていた。(おっと、奥さんの方はまだ60代の方です。念押しされていたのを忘れるところでした)

そのご夫婦のおかげで、ようやく登り始めることができた。
8時15分のことである。

10. 穂高というところ。

登りはじめてすぐ、暑さで汗だくになった。普段は研究室に籠っている身体に、6日分の荷物を積んだザックはかなり堪える。一歩一歩歩みを進めていく。岳沢のそばを通って進んでいくのだが、その景色が驚くほど綺麗なのだ。今までの疲れなど一気に吹き飛ばすほどの絶景である。北アルプスという名だけあってまるでスイスの山に来たようである。羊がその辺を駆けていてもおかしくないなと思った。

この後、この景色を超える絶景を見ることになるのだが、それをふまえても岳沢の景色はそれに次ぐ美しさであった。この記事のトップの写真がまさに岳沢で撮ったものである。

しばらく歩くと急激に涼しくなった。本当に急激にである。まるでクーラーが効いているみたいだ。本当に涼しい。周りには様々な高山植物が咲き乱れ、ハチが花の蜜を吸っている。

これが穂高というところなのか。

登っていく中でいろんな人とすれ違う。不思議と皆こんにちはとあいさつを交わす。山に来ると人は穏やかになる。のちに都会に戻ったときに感じたことだが、この穏やかさ・余裕が都会にはない。

穂高はここ1~2週間晴れが続く。ガス(霧や雲のこと)も無く、とても気持ちの良い道が続いた。歩いている途中に見かけた花はどれも面白い形であった。僕は花の名前など知らないし、勝手に名前を付けながら歩いた。
紫色をして下向き咲いている「下向きチューリップ」、まるでクラゲのような形の「クラゲ花」、白く小さい花を線香花火のように沢山つけている「白い線香花火」、中でも僕のお気に入りはクラゲ花だった。あんな花は見たことがない。色々な植物に出会えてそれだけでとても楽しかった。

登っていると、頭が痛くなることが何回かあった。これは酸欠状態の時に起こる症状で、ひどくなると高山病になる。高山病にかかれば下りるしかなくなるがそれだけは避けたい。ゆっくり歩き徐々に体を慣らしていった。

登り始めて数時間、ついに前穂高に到達した。
ここから奥穂高(山頂)まで約2時間、吊尾根と呼ばれる尾根を歩く。僕がこのルートを選んだ理由であり、歩きたかった稜線である。(稜線と尾根の違いはあるようだがあまり区別して使われていなかった)

実はこのルートで稜線を歩きたい以外にもう一つ目的あった。
それは雷鳥を見ること。
雷鳥は高山地帯に生息する鳥で、霧がかかった天気の悪い時にしか現れず、めったに見ることができない。僕はその伝説の鳥、雷鳥が見たかった。

この時ちょうど山がガス(霧や雲)に覆われてきて、観察できるチャンスが訪れた。このあたりでは岩や砂利も多く、じゃりじゃりと足音を立てて歩くと隠れてしまう。途中で出会ったおじさんが、雷鳥はハイマツの木の陰に潜んでいるから、3mくらい前を見て歩くと良いよと教えてくれた。

意識を集中させて耳を澄ます。ハイマツの下あたりに動くものがあればいつでも気づけるよう準備をして歩いた。雷鳥は現れない。人にすれ違う度に雷鳥を見たか聞いた。見てないねぇという返答ばかりが返ってくる。しかしある親子連れが、見たのだという。本当か!!確かにいるのだなとその時に思った。もしかしたら見れるかもしれない。

しばらく歩くと穂高山頂についた。雷鳥探しに集中していて全然気づかなかったが、もうこんなに進んだのか。

そして、
ここがはるばる北海道から目指してやってきた穂高の山頂である。
午後2時、3190mの頂に立った。

近くにいた人に写真を撮ってもらった。

これから今日寝泊りをするテント場まで向かう。しばらくするとガスが晴れてきた。穂高岳山荘まではすぐそこだ。
この穂高岳山荘も僕の中では行きたい場所の一つであった。
漫画のモデルになったその人が滞在し、写真で何度も見たあの赤い屋根がすぐ先に見える。結局雷鳥を見ることはできなかったが、憧れの場所はその気持ちを忘れさせてくれた。小屋に着いてすぐテントを立ててながら周りの人と少し話た。話しながらその日分のパンを食べる。糖分が体を巡るのがわかった。
テントを組み立てて中に入ると僕は安堵と疲れですぐに眠ってしまった。

11. 山の怖さ

ふと何かの音で目が覚めた。何時だ?時計は18時を表示している。なんだろう周りがやけに暗い。目が慣れてくるとすぐにわかった。雨だ。
テントには一応雨用のカバーをかけてある。
変だ。ここ1~2週間は晴れ予報ではなかったか?
山の天気は移り変わりが早い。
しかしそうかといって特に何もすることがなく、目が覚めてしまったので日記を書くことにした。

しばらく日記を書いていると突然雨が強くなり、雷雨に変わった。風が谷を伝って下から吹き上げてくる。横からは猛烈な強風が吹き、テントが折れそうなほどしなる。カバーをかけているにも関わらず、チャックの間から水が漏れてきた。手で懸命に抑えながらテント下から浸水していないか確認する。このテント、実は中古品である。ザックにほとんどの予算を使った結果テントまでお金が回らなかった。組み立て時に見た欠陥部分の文字がどこに貼ってあったかもう忘れた。

雷雨が段々近づくいてくる。嵐に巻き込まれたのだ。1km圏内に何度も雷が落ちる。閃光から音までを数えて距離を計算する。1秒もない。近すぎる。数100mの距離の落ちてきたときは、恐怖のあまり心臓がドクっと音を立てて鳴った。他のテント泊の人たちも多くいたが怖くないのか。。。?
暴風の中、テントの側を知らない女性が横切る。怖いから小屋に行くと誰かに話しながら離れていく。
落ちるな落ちるなと怯えながらテントで耐えた。

しばらくすると嵐は過ぎ去った。雨除けが功を奏し、テントの中は水浸しにならずに済んだ。だがその夜が地獄であった。

僕は寝る段になって寝袋を忘れたことにようやく気付いた。用意はしていたものの焦って入れるのを忘れたのである。嵐の後は気温が下がり、雨で湿ったテントの中では体温が全部持っていかれる。ガタガタ震えながら、持ってきていた3日分の服を全部出し、重ね着をした。その上にレインコートを羽織ればいくらかましになった。

しかし時間がたつにつれだんだんと体温が奪われていく。こんなてきとうな装備では到底耐えられる寒さではなく、夜中に何度も目を覚ました。最後はテントにいるよりも小屋にいる方が幾分ましだと思い、テントを引き上げて山小屋の椅子に座って寝た。しかし山小屋といえどもエントランスに暖房などないため、外と同じである。膝を抱えて椅子に座り、夜が明けるのを震えながら待った。

12. 恐怖と神秘の北穂高岳南峰

8/5(土) 朝3:00
椅子の上で薄目を開けた。周りはまだ暗い。4:00を回ると山小屋に段々と人が増えてくるのがわかった。みんな日の出を見るために朝ごはんを済ませるのだ。ガスバーナーで温かい飲み物を作る人も多く小屋全体が温かくなる。
僕も冬眠から覚めたように元気を取り戻してきた。

僕の今日の予定は、このまま下山であった。ルートは以下のようになっている

奥穂高岳 (山頂) - 涸沢 - 横尾 - 徳沢 - 明神池 - 上高地

涸沢を経由する最も一般的なルートである。下山の日に易しいルートを残したのは正解だった。既に体力も食料も尽きかけていた。

多くの人が日の出を見るスポットは近くの涸沢岳か、少し離れた奥穂高山頂であった。今の僕に山頂まで行く気力が残されているわけがなく、涸沢岳の人達に付いていった。頂上に着くとカメラを構えた人達がたくさんいた。あたりもぼんやりと明るくなってきている。

日の出が近づいている。
僕は一度富士山で日の出を見たことがある。そこで見た日の出は確かに綺麗ではあったのだが、なぜか満たされない気持ちがあった。
それは、多くの人がごった返す頂上で周りと同じ景色を見、皆が記念にとシャッターを切る。シャッターを切りに来ているのか日の出を見に来ているのかわからない。カメラに集中して日の出を見ることなんてできるのか、僕は不思議でならなかった。その光景が僕の中で違和感として残ったのだと思う。

とにかく一人になりたかった。
目の前に北穂高岳が見える。実は時間に余裕があれば北穂高岳まで行く想定もしていた。登るか?今から行って下山に間に合うのか。現在時刻は4:30を過ぎた。周りの人に聞くと今から登るのかと言う。上級者ルートなのだ。往復4時間は見た方が良いとの返事が返ってくる。どうする。

このまま北穂高に登らなければただこの気持ちのまま下山し、何事もなく無事に帰れるのかもしれないが、それは僕にとっては難しくないことに思えた。それよりも下山したときに何か自分の中に感じるものを持って帰りたかった。

迷ったときは、難しい方を選ぶといい。

体は勝手に北穂高に向いていた。
登るのである。
7:00に向こうに到着しなければ引き返すという約束を、自分とした。
本当に無理だと思ったら引き返す。
人は色々言うけれど、登らなければわからない。

アタックする。ザックは穂高山荘に置いていった。ここまで戻ってこなければならないが仕方あるまい。

この時間に北穂高を目指す変人は僕しかいなかった。
そこはまさに上級者ルートであった。垂直の壁と、両端が切れた稜線をひたすらに進む。もはやロッククライミングである。足を滑らせると900mは落下し、グシャっといく。本当に怖かった。

寝不足と、早朝で自分の頭が回っていない状態なのはわかっていた。「右OK、左OK」と岩場に足をかける度に声を出して確認した。

進み始めたらもう戻れなかった。足がすくむ。来た方を見ると涸沢岳の上に朝日を見る人が見える。もう日の出だ。顔を上げると太陽が顔を出している。強烈なオレンジ色の光が山々を照らしていた。背後にでっかい山の影が落ちている。

途中、北穂高岳南峰に立った。その頂上で一人太陽を見た。
怖くて、、とても綺麗で、光が体を突き抜けていくみたいだった。太陽と山、それだけが一直線に広がる。人生で一番の景色だった。

出発してから約1時間半が過ぎた6:40、恐怖の道を超えて行き、北穂高岳山頂に到達した。風は穏やかだった。山頂には北穂高山荘からの先客がいたが、南峰での景色を見た僕にとってはもう気にするようなことではなかった。
北穂高岳山頂から、さらに奥に遠くにとんがった山が見える。近くにいた方に名前を聞いた。

山の名は槍ヶ岳。誰が見ても一発でそれとわかる形をしている。北穂高岳山頂から槍ヶ岳の手前にある南岳までの尾根は大キレットと呼ばれ、これまた難関のルートと言われている。僕はその稜線を見てその場を後にした。

13. 穂高を後に。

ここからまた恐怖の道を通り穂高岳山荘まで戻らなくてはいけないが、帰りは行きの怖さが嘘のように無くなっていた。稜線を存分に楽しむことができた。天気にも恵まれたため、途中富士山を見ることができた。

山荘に戻ったら8:00であった。
朝食はもう取ってしまっていたから、軽食として用意していたエネルギー食を一つ食べ、下山を始めた。スマホのモバイルバッテリーがないことにここで気が付いたが、どこで無くしたかわからない。もう戻るにも時間がなかった。

涸沢からの下山は易しいルートだけあって楽に下山できた。残雪がまだ残る道を行き、途中涸沢ヒュッテに立ち寄ってお昼分のパンを食べた。
この時に気づいたのだが、指がパンパンに腫れている。手全体ではなく、指だけがパツパツになっているのだ。険しい岩場を素手で往復したからか、気圧が低いからなのかわからないが、ぱっつぱつである。痛みはない。少々不安だったが次第に腫れは収まっていった。

太陽がでて温かくなったのもあり、気力を取り戻してきた。途中やまびこをやったりして遊びながら下山した。調子にのって途中にあった桟橋で走ってみたくなり、走ったところかなり揺れて後ろから来ていた団体の方々が迷惑そうな顔をしていた。調子に乗るのはよいが人に迷惑をかけるのがこうも心痛むものかと思い知った。そこからはなるべく落ち着いて歩いた。自分のペースというものが次第にわかってきて、途中登山はマラソンみたいなもんだと教えてくれたおじさんの言葉が思い出された。

14. 足の痛み

麓に下りてくる間に、7月からの死亡者数が張り出されているのを見た。
4人であった。
僕は運よくここまでこれたのだ。穂高で本当の怖さに出会い、美しさを見た。僕の目にはもうただの数字としては映らなかった。
あれは僕だ。

無事下山し、上高地に着いたのは13:30頃であった。予約していたバスが17:30出発だったため早めてもらい、14:40のバスにのって新島々駅というところまで戻ってきた。

さて、ここから松本駅まで戻るのだがヒッチハイクをするかどうか迷った。
なぜなら歩ける距離だからだ。14.4km、約3時間あるけば着く。
自分でできることを人に頼むのは少々はばかられた。ヒッチハイクは自分ではどうしようも無くなったときにやるものだという感覚があった。

僕は歩くことに決めて松本駅を目指した。山と違い平坦な道を歩くのはたやすいと思った。しかし数時間歩いたところで足の裏に痛みが走った。豆ができたのである。

豆は、コンクリートによる下からの熱や靴との摩擦で足が熱を帯び、足が軽いやけど状態となることでできる。通気性の良い靴ならそうはならないが登山靴で歩いているものだからあっという間に豆ができた。これが結構痛い。変に豆の部分をかばって歩くものだから、他の部分に力がかかってよけい痛くなってしまう。
それでも明日、松本からヒッチハイクを始めなければフェリーに乗り遅れる可能性がある。根性で歩いた。意外と歩こうとすれば歩けるもんだ。
僕は吊り橋で迷惑をかけたことを思い出していた。あの時の心の痛みに比べれば何ともなかった。

夜7時ごろ、ようやく松本市に入ることができた。
明日のヒッチハイクに備え、19号線近くの川でテントを張った。
テントの中で寝ていると、花火をしに来た中学生くらいの男子グループに遭遇した。彼らが僕のテントをみて「リアルDiscoveryチャンネル」とささやいたのには思わず笑ってしまった。
ただ川辺にテントを張って寝ているだけだよ。と心の中で思った。

15. フェリーを目指して。

8/7(月)
朝4:30自然と目が覚めた。もうこの時にはスマホの充電はとっくに切れていた。目覚ましがないのに起きたのは我ながら感心した。

朝5時の19号線沿いで、朝からヒッチハイクを開始する。もう行きと同じ轍を踏みたくなかった。今回は恥ずかしさも何もない。ただ帰ることだけが頭にあった。

初めに拾ってくれた人は、これから仕事へ向かう女性の方であった。スーっと来て、「安曇野までだけどいい?」とまるで僕を乗せることが普通だというように乗せてくれた。
安曇野市がどこかはわからなかったが、お願いします!と返事をした。どうやら松本市の北へ向かうようだ。10数年タクシードライバーをしていたという彼女の運転は、さすがだと思わされる乗り心地であった。

これまた近くのコンビニで降ろしてもらい、再び長野方面と書かれた紙を掲げていると、しばらくしてコンビニの外でご飯を食べていた親子が声をかけてくれた。中学3年生の男の子とその叔父さんというよくわからない組み合わせであったが、なんと彼らも今日近くを山登りするとのことだったので、驚いた。長野県は山に囲まれているため小さい頃から山登りをする人も多い。
長野市まで連れて行ってくれると言うのだが、そうすると彼らは来た道を戻らなければならない。結局、僕が帰れるかの方が心配だと言って長野市内まで乗せてくれた。降ろしてくれた所は、本来の彼らの目的地から1時間以上も離れていた。本当に感謝したい。

長野市の国道沿いのコンビニで降ろしてもらってから、しばらくしてクラクションが聞こえた。「乗せてくよ」の掛け声とともに笑顔がかわいらしいお兄さんの顔が見えた。上越の方までドライブするらしく、これまたかなりの距離を乗せて頂いた。コンビニでアイスと飲み物まで買っていただき、食べながら色々話をした。途中、道の駅にも連れて行ってもらった。魚がまるまる売られているのにはびっくりしたが、それよりもこんな山の上の道の駅で新鮮な魚介が売られているなど思いもしなかった。北海道から来たカニもいた。
上越市内にある道の駅で降ろしてもらい、そこで再びヒッチハイクをスタートさせた。

次に乗せてくれたのは、お母さんとその息子、娘さんの3人が乗る車だった。とても良い雰囲気のご家庭で、これまたどういった巡りあわせか息子さんは山岳合宿の帰りであった。7泊8日だったか、かなり長い合宿で、お母さんは久しぶりに息子さんに会えたという状況であった。途中おいしいアイスクリームのお店に連れて行ってもらい、ソフトクリームをごちそうになってしまった。近くの牧場が経営しているということもあって、これまで食べたどのソフトクリームよりも濃厚な味だった。
先ほどの人もそうであるが、乗せて貰えるだけでありがたいのに、親切にも何か買ってくれたりする。だが僕は何も返すことができない。
無事に帰ることが唯一できることなのだと自分に言い聞かせた。

5人目乗せて貰ったのは、一風変わったご家族であった。前を通り過ぎたとき、はじけるような笑顔が印象的であった。思わず手を振ったがそれは他の車にもしていたことであったし、恐らくそのまま行ってしまうだろうと思っていた。するとなんともう一度ぐるっと回ってきて戻ってきてくれたのだ。お礼を言って車に乗り込むとさっそく自己紹介をしてくれた。
まだ30代の夫婦で若さが光るご家族であった。旦那さんと奥さんは互いを名前で呼び合っていたし、3歳と1歳の子供さんがいたが、2人共なぜかすっぽんぽん状態で、旦那さんと奥さんは水着で車に乗っている。皆、肌が黒く焼けており夏を感じさせた。どうやら昨日に引き続き海に行く途中らしい。

下の子が1歳ということもあって、まだ授乳期で時折おっぱいを吸うので、僕はあわてて目をそらさねばならなかった。奥さんは別に気にせずという感じだったけれど、僕が恥ずかしい。
そんなご家族ではあったが、話を聞いていると、自分たちの生活に必要なものを全て自給自足して暮らしているみたいだった。年に約100種類の作物を種から育て、自分たちの食べる分はそれで充分賄えているという。服や帽子も自分たちで作っていて今年は醤油づくりを始めたそうだ。お子さんもとても健康。病院にもかからないしお金はそれほどかからない。今を生きることを全力で楽しんでいた。それは彼らの幸せそうな顔を見ればすぐに分かった。はじめ通り過ぎた時に見たあのはじけるような笑顔はそういうことだったのか。

そんな彼らが海に連れて行ってくれた。僕も海を見たかったから本当にうれしかったけど、足を怪我しているし海パンも持ってきていないから泳ぐつもりはなかった。そうしてしばらく彼らを見ているうちに不思議と、幸せとは何かを考えているのに気づいた。僕にとっての幸せはまだ何かはわからないけれど。彼らの幸せはそこにあって、その幸せがどこから生まれるのか知りたくなった。

気づけば、一緒に泳いでいいかを聞いていた。彼らは特別目を輝かせてもちろんと言ってくれた。見ているだけじゃわからない。足の痛みはいつかなくなる。このチャンスはもう二度と来ないと思った。急いで適当な服に着替えた。
海に入ると目と、足が染みた。とても気持ちいい夏の海だった。シュノーケルを貸してくれて、みんなで入江まで泳いだ。海の中は思ったより深いところもあり怖さもあった。でもそれを打ち消すくらい沢山の生き物がいて景色がとても綺麗で、家族の輪に触れた幸せが僕を安心させた。素潜りを教えてもらい、時折いろんな話をした。今まで彼らがどう生きてきたのか、今僕が抱えている不安のこと。色んな事を話した。
そんな彼らの歩む人生は、僕が思う理想の人生の一つの形でもあった。一緒に泳ぐことで、やっとその一端に触れることができた気がした。

何が自分にとっての幸せなのか。まだ僕は答えを出せずにいる。

最後の一人は通称B'zのおじちゃんである。ハイエースでクラクションを鳴らし、「乗せてくよ」の合図。お仕事帰りの車内はクーラーガンガンでB’zの曲が流れていた。サングラスがよく似合っている。
このおじちゃんの運転が怖くてたまらない。国道は信号が多いといって下道を時速60km超えでかっ飛ばす。カーブを45kmで曲がるのだからジェットコースターに乗っている気分だ。マニュアル車のギアチェンジはしゃべりながら手ではじくように切り替える。どこにギアが入っているのか見ていない。もう慣れっこなのだろうが、こっちはそれどころではない。道路の凹凸を乗り越えるたびに車が跳ねあがる。

こんなおじちゃんだが本当に面白い方で、趣味はブラックバス釣りなのだという。山へ入って行って渓流で魚釣りをしたり、ついでにその辺の山菜を取って食べることもあるそうで、僕は山菜の方に興味があったから色々聞いた。B'zおじさん曰く、山菜の中でもゼンマイは処理が大変だそうだ。さらに男ゼンマイというのもあって普通のゼンマイより硬く処理をしても食べられたものではないこと。タラの芽というのもあって天ぷらがおいしく、とげとげした木が目印だということ。色んなことを教えてくれた。

もっと話していたかったが、もう新潟市内へ入っていた。
旅で極力お金を使うことは避けたかったが、旅の最後にどうしても新潟のお米を食べたいと思っていた僕は、おすすめのお店を聞いてみた。そこで塩かつ丼を教えてもらった。豚カツを細かく刻んだかつ丼で、半分くらい食べ進めた後、残り半分はだし汁を入れておじやにして食べるのだという。大変に興味が湧いた。
親切にもその塩かつ丼を食べられる店の前まで連れて行ってくれ、B'zおじさんは僕をおろした後、こちらを振り返らず颯爽と去っていった。

そのあと僕は塩かつ丼を生まれて初めて食べた。
まともな食事はいつぶりか。身体全体にエネルギーが染みわたるのを感じる。本当においしかった。

この日は新潟市内でテント泊をする。無事に新潟へたどり着いてほっとした僕はそのまますぐに眠りについた。

花火大会が開かれた夜であった。

16. 北海道

8/7(月)
4:30。夜明けとともに目が覚めた。
少し市内を観光して、この日の昼にフェリーに乗った。実はフェリーには大浴場があって、しかも無料で使用できる。早速6日ぶりのお風呂に入り、体を綺麗にした。
フェリーは車両の荷揚げを行う機械トラブルで4時間も出航が遅れたが、お風呂に入ってぽかぽか気分の僕は久しぶりのベッドで本を読んで横になっているうちに眠ってしまっていた。

気づけば出航していて、起きた時には外は暗かった。
目が覚めたので、本を読み進めたり日記を書いたりしているうちにまた眠くなってきて眠りについた。

8/8(火)
朝5:30ごろ目を覚まし、外を見に行くと船は大海原を進んでいた。昨日の船内放送によると時速45kmで進んでいるそうだ。

そういえば昨日の船内放送で、もう一つ僕にとって嬉しいことを言っていた。
船の出航が遅れたために朝食にカレーを無料で提供してくれるというのである。これまでろくにご飯にありつけず、常にお腹を空かせていた僕にとっては本当に嬉しい出来事であった。

朝、食堂が開くと同時に機嫌よく向かい、窓から見える海を眺めながらカレーを食べた。

そのあと下船までは、たまたま隣のベッドになった中学校の教師をしている方と話しをしたりしながら、下船に向けて荷造りをした。

いよいよ下船の時が迫っていたが、最後のヒッチハイクが残っていた。
到着するのは小樽フェリーターミナルであるが、そこから札幌まで車で約1時間ある。さすがに歩いていくには遠すぎる。外はあいにくの雨である。どうにかならないかと考えていたところ、昨日大浴場で出会った子供さんのお母さんに遭遇した。僕が札幌までヒッチハイクをすることを話すと、なんと途中まで乗せてくれることになった。何とラッキーな。船の中で乗せてくれる人が見つかるとは思ってもいなかった。

お仕事があるため急ぎで車に乗り込み、仕事場の近くで降ろしてもらった。そこからは徒歩で1時間ほど歩き、無事家にたどりついた。

振り返ると本当に色々な方のお世話になったことを感じる。
色々な方々の助けがあって、今回の旅を終えることができた。
こうして書き出すと、その時の記憶が思い出されて帰ってきた幸せを感じずにはいられない。

そして、今は次の旅の事を考えている。実はこの旅を始める前にパスポートを申請しておいた。まだ自分に自信が持てない僕はもう少し自分に向き合う必要があると感じている。

今回の旅で、僕は人に支えられて生きているということを痛感した。
自分ひとりで何もできなかった。
自分を守ることができる人がほかの人を助けることができる。
僕はまだまだ力不足である。

自分の生き方を見つけたい。そしてもっと強くなりたい。

いつかだれかを守れるようになりたい。


あとがき

帰ってきたあと気づいたが、体中傷だらけだった。足・腕など岩に当たったところに擦り傷がいくつもあった。手袋とズボンはしっかりしたものを準備することをお勧めしたい。
日焼けもすごかった。顔の皮膚が剥がれたりしていたが、日焼け止めを塗ってこのありさまである。もっと気を付けるべきだった。ちなみに日焼け止めを塗っていなかった腕は、赤くなって半分やけど状態のようになりました。とても痛いです。


今回の日程や登山ルート・装備等

日程

8/2(水) - 8/8(月)の約一週間

・8/2 北海道 - 新潟 (フェリー) 
・8/3 新潟フェリー乗り場 - 長野 - 松本駅 (ヒッチハイク1回目)
・8/4 登山開始。山頂でテント泊
・8/5 下山する。松本市でテント泊
・8/6 松本 - 長野 - 新潟のフェリー乗り場へ (ヒッチハイク2回目)
・8/7 新潟 - 北海道 (12:00発のフェリー)
・8/8 小樽フェリーターミナルから札幌へ。

登山ルート

登山ルート (8:15 - 15:00 (7時間15分))

上高地 - 岳沢 - 紀美子平 - 前穂高岳 - 奥穂高岳 (山頂)
(実測タイム:2h - 1.4h - 2h - 2h )

下山ルート (8:00 - 13:30 (5時間30分))

穂高山荘 - 北穂高往復 (4:37 - 7:40)
穂高山荘 - 涸沢岳 - 北穂高岳南峰 - 北穂高岳 (ここを往復)
(実測タイム:20m - ?? - 1h )

穂高山荘に戻ってから
穂高山荘 - 涸沢 - 横尾 - 徳沢 - 明神池 - 上高地
(実測タイム:1h20m - 3h - 45m - ?? - 40m )

詳しくは以下を見てもらう方がよい気がする。
穂高公式:https://www.hotakadakesanso.com/climb/route-guide
YAMAP:https://yamap.com/mountains/143

岳沢ルート

登山前に確認すべきこと
・天候確認
・登山届
・GPS
・ルートの確認 (しっかりと事前準備をしないと、僕のようにつまらないところで時間を食うことになる)

装備等

・ザック (55L)
・テント (ペグ、雨除け含む)
・寝袋 (忘れて行った)
・エアーマット
・ヘッドライト
・ロープ
・登山靴
・衣類 (2日に一回着替える想定で3日分)
・カッパ
・アルミシート
・食料 (4日分、おにぎり9個、パン4つ、行動食4本、乾燥レーズン、粉ミルク)
・水 500mlペットボトルx2 (明らかに足りなかったが、最終的に親切で水を頂いたりで4本になった。2Lは必要というところか。)
・紙コップ (これはやめた方がいいです。ステンレス、チタンタイプをお勧めします)
・タオル、バスタオル
・洗面用具 (歯ブラシ、髭剃り、石鹸等)
・サンダル
・帽子
・日焼け止め (50 PA++++)
・救急用具セット (あらかじめアルコールを含んだシートがパックになったもの、絆創膏(布タイプ))
・マルチツール (ドライバーやナイフなど色々ついたもの)
・方位磁石
・裁縫セット
・筆記用具
・登山マップ (紙ベース)
・行動予定表 (紙ベース)
・周辺地図 (紙ベース)
・スマホ
・スマホスタンド
・イヤホン
・充電器 (持っていくのを忘れた)
・3000mAモバイルバッテリー(山で無くした。あと3000mAだと少なすぎる)

装備にかかった費用

ザック:4万1800円
テント:7000円
寝袋:2000円 (以前に購入済みのもの)
エアーマット:4000円
ヘッドライト:2000円
登山靴:5000円
その他雑多なもの:4000円

計6万5800円

交通費

フェリー代:8480円 (往路) ※学割
     :13500円 (復路) ※学割きかず
松本駅から上高地バス代:2000円×2
穂高山荘でのテント泊代:2000円

計 約2万8000円

結局10万円くらいは使ったけど,とっても楽しかった


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