あなたが切り取った世界が見たい
先日、豪徳寺という招き猫で有名なお寺に行ったときに、「ユーチューバーになったつもりで過ごす1日」というのをやってみました。
どこに公開するでもない、ちょっとした自己満足の遊びです。
きっかけは、友人がYouTubeを始めたと聞き、そのこだわりや大変さなどを聞いて、「なるほど大変なのか…。でもわたしも試しに休日にやってみようかな。おもしろいかも!」とひらめいちゃったから。
ひたすら動画を撮りながら過ごしてみました。
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その友人が「すごく色味や画質、カメラにはこだわっているから見て」と言っていたので早速チャンネルを見たのですが…。
本当に言いにくいのですが、正直な気持ちを書くと「何を伝えたかったんだろう」と思ってしまいました。
ずっと風景が映っていて、うっすらと動きながら、寄るでも引くでもなく、ひたすら同じようなアングルの繰り返しで景色が流れていく。
わたしはカメラど素人で、機械オンチな面もあるので、見る人が見れば技術はわかるのかもしれませんが、もっともっと手前の、その映像を撮っている人が何に心を動かされていて、どこからの切り口で世界を見ていて、何を届けたいのかがどこを探しても見当たらなかったんです。
あれれ?と思って見返してみたけれど、やっぱりわかりませんでした。
そのときに、わたしが価値を置いているのは「技術よりもあなたが心を動かされて切り取った世界が見たいんだ」ということだと気づきました。
ただ純粋に
わたしが見ることのできない
あなたの個性から生まれる視点で
この地球を眺めてみたい。
そのことが頭に浮かんだとき、noteもYouTubeも、というより、どんなツールを使うにしても、うまいことアウトプットしているかどうかが重要なのではなくて、「らしさ」がどれだけ詰まっているかで、心が心地よく波立つんだなと感じました。
その「らしさ」をより多くの人に伝わりやすくするために、技術や技法というすばらしい助っ人がいる。
もし技術や技法を見せたいと世界を切り取るのなら、きっとその技術にも「らしさ」が宿って、そこにある情熱や愛は見ている人に必ず伝わると思うのです。
このnoteでも、何気なく検索する記事でも、最終的に”見る決断”をするものは、知りたいことを教えてくれるものか、その人の素直な「らしさ」が出ているものです。
「素直な」というとやわらかいイメージがありますが、カッチカチの論文みたいなものでも、そこに「らしさ」があるとつい読んでしまいます。
いつも完璧でなくていいし、いつもきれいでなくていいんです。
”ちょっとおめかし”の度を超えて強引に補正しようとすると、”何か別のモノ”になってしまうからです。
そう、これは自分に対しても言っています。
努力はするけれど、わたしはわたしの世界しか切り取れないんですよね。
その世界をこうして素直に出すしかないんです。
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そういえば昔、「自信っていうことばは俺たちの辞書から消すことになったからな!だから自信ないとかこれからは言うなよ!自信ってことばはもうないんだからな!」って電話かけてきた人がいたなあ(笑)
言い換えると「自信ないとか言ってんじゃねえぞ!お前の世界、そのまま出せよ!」っていうことだと思います。
”翻訳が必要な日本語”にもかかわらず、その人が切り取った世界をビシビシと感じます。
伝わるってきっと、こういうことだ。