行間、背景に思いを馳せることができる、またはできない

入院のお供に三浦綾子の「天北原野」を読んでいる。
ダンナのお母さんの遺品で、ダンナが読もうと思って持ち帰ったのを放置してあったから私が先に。
読み進めて、なんでダンナが読もうとしたのかわかった。ダンナの母方は樺太引き揚げ。まだ上巻の半分ぐらいしか読んでないから、どう関わるかわからないけど、あまり本を読まないダンナが、それでも読む三浦綾子。

読んでいて、三浦綾子の、全部は書かない書き方、行間から推測させたり、その後の繋がりを推測させたりする書き方に久しぶりに触れたと感じた。1節読み終わるごとに休憩が欲しくなる読み方。休憩してる間も物語に思いを馳せる。どうしてこの読み進め方に久しぶりに触れたと感じたか、考える。

今流行りのなろう小説を数多く読んでいるのが原因だと思う。

最近はスマホで手軽に読めることもあって、なろうに入り浸りだ。
なろうは、ある程度の定型がある。定型の中で、筆者の持つ専門性やオリジナリティを組み合わせて違う物語にしていく。
そしてどれも説明が多い。読者にこれでもかこれでもかと情報を与える。思いを馳せる余裕無く、どんどん先を読ませる。飛ばして進んだ箇所、そしてその時の他のキャラ(登場人物とは言わない。キャラが相応しい)の考えていたことまで、答え合わせ、または答えを予想させる隙もなくどんどんおまけページや外伝がぶっ込まれる。思考の余地なく、ジェットコースターのように運ばれる。展開はある程度テンプレなので、意外性はたまにしか無く安心して(?)読める。

なろうを読むのは楽だからだ。疲れている時、元気がない時は、頭を使わない簡単なゲームかなろう、マンガが向いている。読むのにエネルギーを必要としない。
比べて三浦綾子は考えるのにエネルギーを使う。読んでいる側から新しい疑問、推測、比較が生まれる。派生することについて考えるのにもエネルギーを使う。読み進めるのに時間がかかる。前に戻って読み返して納得することもある。
ゲーム仲間が重たい本を読んでいるのを聞いたことが無い。別にみんな民度が低いわけでも頭が悪いわけでもない。(学校の勉強なら私よりできるだろう人、収入だって多い人、びっくりするくらいデータ解析ができる人、いっぱいいる。)原作はなろう小説で読んでいる人も半分はいるけど、半分(特に若者)はあの程度の小説でも読むのは難しいらしい。いちいちひけらかさないだけの人ももちろんいるだろうし、今三浦綾子を読んでいる私が偉いと言いたいわけでもない。

でも、つまり、最近の私は、そして若者はそういうことになっているんだと思う。
そしてソーシャルゲームに集まる大人は。
そしてTwitterに生息する人は。

行間を読む、思いを馳せる余裕か元気かスキルを、今、持ち合わせていないんだ。

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