見取る力とビジョン・トレーニング

私がお世話になっているメンタルウェルネストレーニング協会のビジョン・トレーニングの講師によると、見取る力も、ビジョンの1つらしい。

昔の私は、本当に見取る力が少なくて。教室の全体的な雰囲気とかはわかるけれど、子どもの動きから情報を読み取ることが苦手だった。
私が初任の頃にお世話になった尊敬する先輩は、まるで場面を記憶するように子どもたちの動きから事象を読み取って指導していた。(いや、もしかしたら彼女もADHD傾向持ちで、場面記憶のスキルを持っている方なのかもしれないと、今の私の知識では考えられる。当時の私をかわいがってくれるなんて、ADHD傾向の人である可能性高すぎる。)若かりし私は、彼女のようにはなれないと絶望しながら、どうしたら追いつくことができるのだろうと漠然と思っていた。

昔の私は、研究授業を見ていても、何の情報も伝わってこなくて、ただただ暇な時間だった。ただ立っているだけで体がしんどい私は、常に時計とにらめっこ。体が痛くない方法を探しながら、そこに存在するだけでいっぱいいっぱいだった。

仕事関係だけじゃなくて。
絵を見るのもそんなに楽しいと思わなかった。何が楽しいんだろうって思っていた。芸術なんてわからないと思っていた。博物館の楽しさもわからなかった。本当に、刺激の強いものにしか楽しさを感じなかった。

色々な先輩に教えられたこと。学習会やセミナーで学んだこと。そこで与えられた視点という眼鏡をかけてみて、やっと見えてきたことがたくさんある。子どもを産んだことがきっかけで操体法というケアに出会い、体が整ってきてできることが増えたことも原因の一つだろう。いつの間にか、そこそこは見える人になっていた。

そして、ビジョン・トレーニングを学んでから。
絵を見ることがとても楽しくなってしまった。今まではわからなかったことが読み取れる。構図、描かれた表情、そしてその奥にある何か(これが何かわからないところが、まだまだ私の浅いところなんだろうけど。)

普段の授業でも、子どもを見ていて読み取れる情報量が圧倒的に増えた。研究授業も、つまらない苦痛な時間ではなくなった。(体のつらさも減ったし。)

すると、不思議なことに、周りの人よりも私の方が見取ることができていることが起こるようになった。「あれ?これについて、みんなはわかっていなかったのか」っていうこと。逆に「今まで、私は相手にこんな感情を抱かせていたのか」ということ。わからない人のわからなさは、わかっている人にとっての諦めと寂しさを生むものだということがわかった。

自分の思っていることは、ほとんど相手に伝わらないと考えている方がいい。その上で、相手に伝える努力を怠ってはいけない。でも、押し付けてもいけない。

見取れるようになった私がやるべきなのは、見取ったことを周りと共有すること。子どもの素敵な行動をまわりのたくさんの大人と共有すること。私ができることは少ないけれど、周りに迷惑をかけない程度にできることだけやっていく。

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