アメリカン・ポップス・クロニクル 1960年代編 ch.4 (2)
Power Blues & Sophisticated Soul
相次ぐ経済危機や第二次世界大戦により、貧困する南部のアフリカ系アメリカ人が、より良い生活、より良い仕事を求めて、活路を見出すために北部の都会へ移動する『グレート・イミグレーション』が起こりました。
そして、この移民たちが音楽業界においても新しい市場を作っていきました。イリノイ州のシカゴがそのいい例で、ミシシッピから多くの移民がやって来て、彼らのデルタ・ブルースがシカゴ・ブルース、エレクトリック・ブルースへと生まれ変わっていきました。
シカゴを代表するレコード・レーベルといえばチェス・レコードで、ポーランド移民のチェス兄弟が作った会社です。1950年に設立されたチェス・レコードには、ミシシッピから移り住んできたマディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡ、ルイジアナからのリトル・ウォルターといったブルース・ミュージシャンが揃い、その後白人マーケットにも受け入れられるロックンローラーの、ボ・ディドリーやチャック・ベリーが登場してきます。50年代半ばから後半にかけては、チャック・ベリーがヒットメーカーとしてチェス・レコードを支えていました。
シカゴのR&Bコーラス・グループ、ポップ・チャートにも登場するようなアーティストに目を向けると、1953年チャンス・レーベルからデビューのフラミンゴスがまず挙げられると思います。3枚目の"Golden Teardrops"は、チャートには入りませんでしたが、彼らの特徴である優雅で洗練されたコーラスが光る、名曲と呼ばれるに相応しいバラードに仕上がっています。
55年チェス・レコードに移籍したフラミンゴスは、サブ・レーベルのチェッカーから56年リリースした"I'll Be Home"が、R&B5位にランクされるヒット曲となり、この曲はパット・ブーンがカバーして、全米ポップ4位の大ヒットとなりました。考えようによっては、パット・ブーンのカバーがなかったら、フラミンゴス・バージョンがポップ・チャートにも入っていたかもしれませんね。この後エンド・レコードに移籍してニューヨークへ行き、59年 "I Only Have Eyes For You"がR&B3位、ポップで11位と最大のヒット曲になりました。
同じくデビューした頃チャンス・レーベルにいたグループに、ムーングロウズがいました。彼らには、ハーヴェイ・フークァとボビー・レスターという個性の強いヴォーカリストが2人いて、どちらも作曲もしました。初期の曲では"Secret Love"が彼らの特徴を良く表している作品だと思います。
彼らは、フラミンゴスより1年早く54年にチェス・レコードに移籍します。そして、ハーヴェイ・フークァが書いた曲"Sincerely"は、R&B1位、ポップでは20位とビッグヒットになり、R&Bチャートには20週ランクされ続けて、25万枚以上を売り上げる、チェス・レコードにとっては当時最高の数字を出したレコードになりました。さらに、翌55年マクガイア・シスターズがカバーして全米ポップNo.1にと、ムーングロウズは最も成功したドゥーワップ・グループになりました。
シカゴのエレクトリック・ブルースやドゥーワップに影響を受け、ゴスペル畑で育ったのが、ジェリー・バトラーやカーティス・メイフィールドでした。ジェリー・バトラーは1939年の生まれで、3歳の頃ミシシッピ州サンフラワーから移住してきました。少年時代は教会の聖歌隊に入っていて、そこで音楽に興味を持ち始めます。3歳年下のカーティス・メイフィールドも同じ聖歌隊にいました。この2人がR&Bグループのフォー・ルースターズ&ア・チックに参加して、彼らが中心になっていき、ルースターズとして活動をはじめます。
1957年、グループ名をジェリー・バトラー&ザ・インプレッションズに変更して、Vee-Jay Recordsと契約、メンバーはジェリー・バトラー、カーティス・メイフィールド、サム、グッデン、リチャード・ブルックス、その弟アーサー・ブルックスのクインテットです。翌58年、ブルックス兄弟とジェリー・バトラーが書いたデビュー・シングル"For Your Precious Love"は、R&B3位、全米11位のヒット曲になりました。ジェリー・バトラーが書いた詞は、彼が16歳の頃から温めていた作品でした。
59年、ジェリー・バトラーはインプレッションズを離れ、ソロ活動を開始します。60年リリースの"He Will Break Your Heart "は、R&B1位、ポップでも7位と、成功を収め、R&Bチャートでは7週連続の1位を記録しています。61年にはR&B Top10入りが2曲と好調を維持していました。カーティス・メイフィールドとインプレッションズの活躍については、また回を改めて。
1960年代初頭、シカゴ・ソウル萌芽の頃のR&Bシンガーとしては、シルクハットに燕尾服、マントを羽織って杖を持つ姿が印象的なジーン・チャンドラーがいて、61年リリースの「デューク・オブ・アール」が全米ポップ、R&Bともに1位の大ヒットでした。その後も、カーティス・メイフィールドからの曲提供でヒットを出していきました。
女性シンガーでは、ロサンゼルス生まれのエタ・ジェイムズがいました。彼女は50年代半ばからモダン・レコードで活躍、60年チェスに移籍して、"All I Could Do Was Cry"や"At Last"がR&B2位、ポップにもランクされました。その後は浮き沈みありながらも、節目ではヒットを出し、紆余曲折を経て、そのパワフルで心に訴えかけてくる圧倒的な歌唱力を持つ、偉大なソウル・シンガーに成長していきます。
60年代半ばから70年代にかけて、シカゴ・ソウルの躍進は、ブルースの街シカゴに新しい風を吹き込むことになっていきます。
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