西洋哲学史まとめ④
イギリス経験論vs大陸合理論
近代哲学は、基本的に中世批判であり、スコラ哲学批判である。
「近代哲学」には、〝イギリス経験論〟と〝大陸合理論〟という分類があり、これが延々と続いていく。この2つの流れ自身は、プラトン(合理論)とアリストテレス(経験論)の時代からあったと見ることもできる(西洋哲学史まとめ①参照)。
「知識をどのようにして獲得するか?」と言ったとき、大陸合理論の場合は、経験から学ぶこともあるが、一番基本的なもの、これを〝生得観念〟と呼ぶが、プラトンで言うところの〝イデア〟(西洋哲学史まとめ①参照)に相当するものを私たちはすでに持っており、その〝生得観念〟は、決して経験によって得られるものではないという考え方をする。
それに対して、イギリス経験論は、そうした生得観念は存在せず、経験からそれを抽象化していくことで、一般的な観念を作り上げていくのだ、という考え方になる。
認識論的転回
上記のとおり、イギリス系と大陸系で大きく分かれているが、この2つをまとめて、〝認識論的転回〟といった言い方がなされる。つまり、〝意識〟〝認識〟といったものに注目して、それを分析するという流れが、近代哲学のひとつの方向性となっている。
フランシス・ベーコン(1561~1626)
イギリスの哲学者。
ベーコンといえば、「知は力なり」の格言が有名だ。
彼は、みずから「大革新」と呼んだ学問の一大事業に打ってでる。本当に「力」になりうる「知」の体系をつくるのだ、と。彼が描いたその根本方法は、「帰納法」と呼ばれている。個別的な事実から一般的な結論を緻密に導いていく、いわば実験的な方法だ。まず真理ありきで、そこから現実のつじつまを合わせようとしてきたスコラ学とは対照的だ。ベーコンはスコラ学の基礎にあるアリストテレスの論理学に代わるものとして、帰納法を提唱している。
「帰納法」は、観察や実験を重視する近代科学の方法として、きわめて有効に働く。個々の具体的なものから出発し、そこから一般化して普遍的な法則を導き出すのは、近代科学の基本的な方針となっている。それに対してアリストテレス的な演繹法は、ベーコンによれば、「具体的な経験を無視して、原理原則だけで自然を理解しようとした」ということになる。
このように実験・経験を重んじたベーコンは、その後発展したイギリス経験主義の祖と呼ばれている。
ルネ・デカルト(1596~1650)
フランスの哲学者ルネ・デカルトは、近代哲学を切り開いた哲学者であるとされる。
デカルトは、いまが夢を見ている状態ではないと確信が持てるのだろうか、と考えた。デカルトはこれを確かめるため、方法的懐疑という方法を用いた。
「方法的懐疑」は、あえてすべてを疑い、もし真実でない可能性がわずかでもあるなら、受け入れないということである。ピュロン(西洋哲学史まとめ②参照)らが確かなものは何もないと示そうとした一方で、デカルトは、もっとも強固な懐疑論でさえ揺るがすことのできない信念があることを示したかった。ここにピュロンの懐疑論との相違がある。
デカルトは、悪魔が自分を欺いていたとしても、悪魔が欺いているならば、自分が存在しているにちがいないという考えに至った。なぜなら、存在していなければ、思考することができないからだ。「われ思う、ゆえにわれあり(ラテン語ではcogito ergo sum)」が、デカルトの出した結論だった。「コギト(われ思う)」の確実性から出発し、それに基づき知識を組み立てるデカルトの問題設定は、しばしば「近代主観主義」と呼ばれてきた。
ここにすべてを疑うピュロン的懐疑論者が間違っていることが明らかになったのだ。これはデカルトの二元論(実体二元論・心身二元論)として知られる考え方の始まりでもあった。
デカルトは、空間的広がりを持つ思考できない延長実体(いわゆる“物質”)と、思考することができる空間的広がりを持たない思惟実体(いわゆる“心”)の二つの実体があるとし、これらが互いに独立して存在しうるものとした。そして、心と身体は脳の松果体で作用し合うと考えた。
デカルトは、神の存在を理論によって証明できると信じた(神の存在論的証明)。わたしたちは神が存在すると知っている。なぜなら神がわたしたちの心に神という概念を植えつけたからだ。神が存在しないなら、わたしたちには神という概念がなかったはずである、よって神は存在する、とする。このことをデカルトは、人間の有限性の自覚から論証している。つまり、人間は、自分の知識、知性の有限性を自覚している。このような人間の思考からは、無限という概念にはたどり着けない。にもかかわらず、人間は無限という概念を知っている。これは、有限という概念をこえたもの、すなわち神によって無限という概念が与えられたかからである。よって、神は存在する、と。
ホッブズ(1588~1679)
イングランドの哲学者。
もし、社会が崩壊し、法律や、法律の守護者が存在しない「自然状態」で暮らさなければならないとしたら、誰もがほかのみんなと同じように、必要とあれば盗み、殺すだろうとホッブズは主張した(「万人の万人に対する闘争」と言われる)。解決策として、ホッブズは、力のある個人あるいは議会に監督させるべきだと主張した。自然状態にあった個人は「社会契約」を結び、安全と引き替えに危険を伴う自由の権利をいくぶん放棄することに合意することになる。このように、ホッブズは社会契約説を用いて従来の王権神授説に代わる絶対王政を合理化する理論を構築した。
ホッブズは「自分がしてほしいように相手にもする」といった、わたしたちが大切だと思う自然法が存在すると信じていた。法律は、他者にそれを守らせる権力をもつ者や存在がなければ役に立たない。法律がなければ、そして強力な主権者がいなければ、自然状態におかれた人々は暴力によって殺されるかもしれない。
ホッブズの描いた国家は、主権者が市民に対してほぼ無制限の権力を有する独裁主義国家だ。平和なほうが望ましいし、暴力によって殺される恐怖は、平和を維持する権力に服従する強い動機になる。ホッブズは民主政治を支持していなかった。みずから決定をくだす能力が国民にあるとは信じていなかった。
また、ホッブズは、唯物論者として、人間を単に物質的な存在だと捉えた。魂などというものは存在せず、わたしたちはこのうえなく複雑な機関である肉体をもっているにすぎないと信じた。
パスカル(1623~1662)
ルネ・デカルトは、神の存在を理論によって証明できると信じた。パスカルは逆に、神を信じるのは心と信念の問題だと考えた。人を神に導くのは頭ではなく、心だと考えた。
とはいっても、パスカルは著書『パンセ』において、神が存在するかどうかわからないとする人たちに神の存在を納得させるための論理を提供している。「パスカルの賭け」として知られるようになったその論理は「確率」に対する彼の興味が活かされている。
神が存在しないほうに賭けて、好きなように生きるか。それとも、神の存在が本当である確率がとても低いとしても、神が存在しているとして生きるのがより合理的だろうか。パスカルが提案するのは、神が存在すると考えて生きる選択だ。祈りを唱え、教会へ行き、「聖書」を読む。神が本当に存在すれば、最大の褒美、すなわち永遠の至福を得られる可能性がある。神を信じるという選択が間違っていたとしても、たいした損失にはならない(死んでしまえば、選択が間違っていたせいで、時間や労力を無駄にしたと嘆くこともない)。「賭けに勝てばすべてを得られるし、賭けに負けても失うものはない」とパスカルは述べている。神が存在しない方に賭け、もし、神が実際に存在したら、天国で無上の喜びを得られないばかりか、地獄に落ちて永遠に拷問を受けることになるからだ。これは想像しうる最悪の結果である。
しかし、もし神が本当に存在するなら、神は、もっとも安全な賭けだからという理由で神を信じる人々を、あまり好意的には見ないのではないだろうか。また、もうひとつの問題は、間違った宗教、間違った神を選んでいるかもしれない可能性が考慮されていないことだ。つまり、信じるべきは別の宗教の別の神だったのではないかと・・・。
バルーフ・スピノザ(1632~1677)
たいていの宗教では、神は世界の外、おそらく天上にいると教えている。ところが、スピノザは神こそが世界だと考えた。スピノザの主張である「神即自然」は、この2つの言葉が同じであることを示している。これが神は万物であるとする汎神論の考え方だ。
スピノザはこう論じている。神が無限であるなら、神でないものは存在しえないことになる。神でないものがこの宇宙にあるなら、神は理論的にほかのものと同様に有限であることになり、無限でないことになる。しかし、わたしたちはすべて神の一部分である。石も、アリも、草の葉も、窓も、神の一部である。万物が極めて複雑にまとめあげられているが、すべてがひとつのもの、すなわち神の一部である。スピノザの神は、人格をもたず、ものにも人にも関心がない。スピノザは、神を愛することはできるし、そうするべきだが、見返りの愛を期待してはならないと言う。スピノザが描く神が、人間や人間のすることにあまりに無関心なため、多くの人はスピノザが神を信じておらず、汎神論は隠れみのだと考えた。
スピノザの自由意志に関する見解も議論の的になった。スピノザは決定論者だった。つまり、人間の行動はすべてそれ以前の原因の結果であると信じた。わたしたちは何をするかを自由に選択し、みずからの人生をコントロールしていると思っている。だが、それは、わたしたちの選択や行動がどのように起こるかを理解していないからだ。つまり、自由意志など幻想である。自発的な自由などないのだ。
スピノザは決定論者だったものの、人間の自由は限られた範囲では可能かつ望ましいと信じた。最悪なのは隷属状態にあること、すなわち感情に支配されることだ。たとえば、悪いことが起こるとか、誰かに侮辱されるとかして、カッとなり、憎しみにとらわれるときがある。そのとき、わたしたちは受動的存在になる。起こったことにただ反応しているのだ。外的出来事によって怒りが引き起こされ、それを抑えることができずにいる。こうした事態から逃れるには、行為を導く原因、すなわち何が怒りを引き起こすのかをよく理解する必要がある。スピノザは、感情が外的出来事ではなく、自分自身の選択によって生まれるのがもっとも良いとした。こういった選択は完全に自由ではないものの、受動的であるよりも、能動的であるほうがはるかにいい、とする。
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