西洋哲学史まとめ③
今回は、中世哲学のまとめとなります。
この時代においては、主に神の存在証明が主題となっています。
アウグスティヌス(354~430)
アウグスティヌスは、ローマ帝国が衰退し滅亡に向かう頃に活動し、次の時代(中世)の中心思想を確立した。キリスト教はローマ時代にも認められていたが、あくまでも周縁的なものだった。中世になってはじめて、キリスト教は世俗的な力をもつようになる。その基礎を築いたのがアウグスティヌスである。
アウグスティヌスが悩み続けた問いのひとつは、”なぜ神は悪の存在を許しているのか”というものだった。善なる神が苦難を良しとするのはなぜかという「神義論」と呼ばれる問題である。
アウグスティヌスはこの問いに対して、「自由意志弁護説」により回答している。すなわち、人間は自由意志つまり次に何を行うかを選ぶことができるのが主な理由だと結論づけた。
われわれは、自由意志を持つことで倫理的な行動ができるのだとする。人間には理性があり、それを活かすことができる。もし、つねに悪ではなく善を選ぶように神がわたしたちをつくったなら、つまり自由意志がなかったとしたら、わたしたちは何も悪いことをしないだろうが、それでは真に自由ではいられない。また、理性をはたらかせて何をすべきかを決めることもできない。選択ができなければ、わたしたちは神が糸を引くとおりに動くだけの操り人形になってしまうだけだ。
神はわれわれに自由意志による選択の余地を与えてくれた。これが、自由意志弁護説である。
アニキウス・マンリウス・セウェリヌス・ボエティウス(475~525)
ボエティウスは、キケロやセネカといったローマの哲学者たちと同様に、哲学とは自己啓発のためのもの、つまり、抽象的な思考の学問であるだけでなく、人生をより良くする実用的な手段だと考えた。
ボエティウスの哲学はギリシャ・ローマの思想家の没後、西洋を支配することになるキリスト教的な哲学をつなぐ橋となった。
ボエティウスは次のように問うた。もし神が、わたしたちが何をするかを知っているとしたら、わたしたちはこれから何をするかを本当にみずから選択しているのだろうか。これは、人間には自由意志があるのか?という問題である。
これに対する回答は次のとおりである。
われわれには自由な意思がある。神はわたしたちが何をするかを知っているが、わたしたちの人生を決めているわけではない。つまり、神がわたしたちがどう行動するかを知っていることと、わたしたちの運命が決まっていること(わたしたちに選択の余地がないこと)とはまったく異なる。
神は一瞬にしてすべてを把握する。過去、現在、未来をひとつのものとして捉えている。神は時間の枠にとらわれないことによって、つまり時間を超越することによって、過去、現在、未来を同時にみる。
これにより、神はわたしたちの自由意思を損なうことなく、また、わたしたちを選択の余地なくプログラムされた機械のようにすることなく、わたしたちの未来を知りうるのである。
アンセルムス(1033~1109)
アンセルムスは「スコラ哲学の父」と称され、今まで信仰において語られていた内容を、理性によって論証しようとした。
アンセルムスは、わたしたちが神の概念を抱いているという事実が、論理的に神の存在を証明していると主張した。これが、アンセルムスの「神の存在論的証明」である。具体的には以下のように論証する。
① 神は「それより偉大なものが何も考えられない何か」である(定義)
② 神の存在を否定する「愚か者」であっても、神の存在を否定する限り、その意味は理解している。したがって、神は少なくとも想像上は存在していることになる。
アンセルムスはかかる前提から、神の存在を証明していく。
頭のなかに存在するだけで、現実に存在しない神は、考えうるかぎりもっとも偉大であるとはいえない。神が想像のなかで存在することは可能だろう。無神論者でさえ、それはたいてい受け入れる。しかし、想像上の神が、実在する神よりも偉大であるはずがない。現実にも存在するもののほうが偉大である。だから神は実在するにちがいない、とアンセルムスは結論づけた。
ここで使われているのは、帰謬法(あるいは背理法)というロジックである。想像上の神は無視論者さえ受け入れられる。しかしもし、「理解」のうちにだけあって、実在として存在しないならば、最初の前提、神=「それより偉大なものが何も考えられないもの」に反することになる。したがって、理解のうちだけでなく、実在としても存在する、というわけである。
(批判)
これに対して、ガウロニは次のように批判する。この島はほかの島よりも完璧だから間違いなく存在する。わたしたちにはその島の概念がある。しかし、その島が頭のなかにしか存在しないなら、もっとも完璧な島とは言えない。よって、その島は存在しなければならない、と。この論法を用いて、このもっとも完璧な島が存在することを納得させようとする人がいたら、おそらく何かの冗談だと思われるだろうと、ガウニロは述べた。
ピエール・アベラール(1079~1142)
アベラールが活動した時代は、「12世紀ルネサンス」とも呼ばれ、自由で活発な議論が展開されていた。その中でもアベラールは、「中世最初の近代人」と呼ばれるように、その行動といい、考えといい、従来の中世のイメージを覆す革新的な哲学者であった。
中世の重要な論争である「普遍論争」においてアベラールは「唯名論」の立場をとった。
「普遍論争」の発端は、ポルフュリオス『アリストテレス・カテゴリー論への序論』の次の一節にある。「類と種に関して、それが客観的に存在するのか、それとも単に虚しい観念としてのみあるのか、また存在するとしても、物体であるのか、非物体的なものであるのか、また〔非物体的なものであるならば〕離在可能なものなのか、それとも感覚対象の内に、これらに依存しつつ存在するのか」という一説である。
これは、「人」や「バラ」のような一般名詞(普遍)に当たるものは、人やバラの上に(目に見えない次元に)あって、個々の人や個々のバラの根拠に当たる「もの」を直接に示しているのか?それとも、見ての通り実在しているのは個別のものだけであって、普遍的実在などはないのか?つまり、一般名詞(普遍)はなんらかの実在なのか(「実在論」)、それともただの名前に過ぎないのか(「唯名論」)、という論争である。
もう少しわかりやすくいうと、目の前のあるこのバラ、あのバラ、そのバラは存在しているが、それらを包括する普遍的な「バラ」というものが実在するのか?ということである。
この問題に対して、アベラールは一般名詞(普遍)は「名前に過ぎない」の立場をとり、「唯名論派」と呼ばれるようになった。そして、この唯名論は近代になって、ホッブズやロックといった経験論者たちが踏襲することになる。
トマス・アクィナス(1225~1274)
11世紀末から13世紀にかけて、ヨーロッパ各地に「大学」と呼ばれる組織が生まれた。そうした「学校(スコラ)」を中心に形成された哲学が「スコラ哲学」である。そして、「スコラ哲学の完成者」と呼ばれるのが、トマス・アクィナスである。
アクィナスは、アンセルムスと同じく、神の存在を論証によって証明しようとした。それは「第一原因論」という論法によるものであった。
第一原因論は、すべてを包含する宇宙の存在を出発点としている。存在するすべてのものには、それをつくり、いまの状態にした何らかの原因がある。理論的には、この原因と結果の連鎖のどこか先にすべての始まりがあるはずである。つまり、いま目の前にある「結果」の原因、その「原因」の原因、そのまた「原因」の『原因』、、、と原因を無限にさかのぼっていく(無限後退)と、原因と結果の鎖の始まりとなるもの、つまり、原因のない原因があるはずである。この第一原因が神にちがいない、とアクィナスは主張した。神は存在するものすべての、原因のない原因なのである。
(補足)普遍論争
アベラール解説の中でふれた「普遍論争」をめぐる実在論と唯名論の論争は、一見ただの言葉遊びのようにみえる。しかし、この論争の裏には、神の存在証明にかかわる問題が含まれている。
三位一体論は、父なる神、子なる神、聖霊なる神、が一体となったものが『神』であるというものである。しかし、「このバラ」「あのバラ」「そのバラ」はあっても、これらを包摂する普遍的な『バラ』は実在せず単なる名前でしかない(唯名論)とすると、「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」はあっても、これらを包括する普遍的な『神』は実在せず単なる名前でしかない、ということになってしまう。神の実在が否定されてしまうのである。
このように、普遍論争は、一見「類と種」の関係性を論じているようにみえ、実際には神の実在性を争う重要な論争だったのである。