斎藤幸平『人新世の「資本論」』まとめ
本書では、まず、環境問題について、経済成長とセット化されたSDGsやグリーン・ニューディールでは解決しないことを説き、脱成長こそが環境問題解決の唯一のカギであると説く。
そのうえで、成長を本質とする資本主義は、脱成長の思想とは相いれないものであるとし、コミュニズムの利点を説く。
ここに、本書が掲げる脱成長コミュニズムという思想が浮かび上がってくる。
以下、本書の概要をまとめる。ただし第8章については、個別的事例の話が中心であることから割愛する。
第1章 気候変動と帝国式生活様式
第1章では、グローバル・ノースの帝国式生活様式により、外部化されたグローバル・サウスに資本主義の矛盾を押し付けていることを指摘する。
グローバル・サウスとは、グローバル化によって被害を受ける領域ならびにその住民を指す。
帝国的生活様式とは、グローバル・ノースにおける大量生産・大量消費型の社会のことである。
資本主義社会では、グローバル・サウスという”周辺部”から廉価な労働力を搾取し、”中核部”はより大きな利潤を上げてきた。また、労働力だけでなく、資源・食料などもグローバル・サウスから奪ってきた。経済発展の負の影響をグローバル・サウスという外部に押し付けてきたのである。
このように、資本主義は自らの矛盾を、技術的転嫁・空間的転嫁・時間的転嫁により、外部に転嫁しようとしてきた。
しかし、このような外部への転嫁は、外部の消滅により限界に陥っている。人新世とは、そのような外部が消滅した時代である。
第2章 気候ケインズ主義の限界
グリーン・ニューディールは、再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるために、大型財政出動や公共投資を行う。こうして安定した高賃金の雇用を作り出し、有効需要を増やし、景気を刺激することを目指すのである。
これが、新たな緑のケインズ主義、すなわち「気候ケインズ主義」である。これは、経済成長と二酸化炭素排出量の絶対的デカップリングを成し遂げようとする一大プロジェクトである。
ここでいうデカップリングとは、経済成長と二酸化炭素排出量を切り離そうとするものである。
相対的デカップリングは、経済成長の伸び率に対して、二酸化炭素排出量の”伸び率”を相対的に低下させることをさす。
絶対的デカップリングは、二酸化炭素排出量の”絶対量”を減らしつつ経済成長を目指すことをさす。
しかしながら、このようなデカップリングは、不可能である。経済成長が順調であればあるほど、経済規模が大きくなり、それに伴って資源消費量が増大し、二酸化炭素排出量も増加してしまうからである。これが「経済成長の罠」である。なお、先進国だけをみれば相対的デカップリングが進んでいるかのようにみえるが、世界全体でみればほとんど生じていない。先進国の見せかけ上のデカップリングは、二酸化炭素排出を外部に転嫁しているにすぎないのである。
また、技術進歩による効率化は、むしろ消費量の増加を招き、結果的に環境負荷を増やしてしまう。これが「ジェヴォンズのパラドックス」だ。
結局、経済成長と二酸化炭素排出量の削減は両立しない。二酸化炭素排出量を削減するならば、経済成長をあきらめなければならないのである。
ここに、環境問題を解決するためには、「脱成長」しなければならないというテーゼが導かれる。
第3章 資本主義システムでの脱成長を撃つ
二酸化炭素排出量の削減には脱成長が必要であるとしても、これは資本主義システムのもとで可能なことなのだろうか。
著者はこれは不可能だという。資本主義と脱成長のペアは両立不可能である。
資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくことを本質とするシステムだからである。資本とは、価値を絶えず増やしていく終わりなき運動なのである。
旧来の脱成長派は、資本主義と脱成長の両立を目指すが、利潤追求も市場拡大も外部化も転嫁も労働者と自然からの収奪も、資本主義の本質なのであり、これを捨て去り、資本主義と脱成長を両立させることはできないのである。
なお、景気後退と脱成長は異なる。脱成長の目的はGDPを減らすことではない。脱成長派はGDPに必ずしも反映されない人々の生活の質に重きをおく。量から質への転換である。ここに、脱成長は平等と持続可能性を目指す。労働を抜本的に変革し、自由・平等・公正・持続可能な社会を打ち立てる。これこそが、新世代の脱成長論である。新世代の脱成長論は、ラディカルな資本主義批判を行う必要がある。
第4章 「人新世」のマルクス
「人新世」の環境危機においては、ラディカルに資本主義を批判し、ポスト資本主義の未来を構想しなくてはならない。コミュニズムである。
マルクス再解釈のカギとなる概念のひとつが<コモン>である。コモンとは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す。
コモンは、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを指す。このコモンの領域を拡張していくことで、資本主義の超克を目指す。
コミュニズムとは、知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されてしまったコモンを意識的に再建する試みにほかならない。コモンが再建された社会をアソシエーションという。
晩年のマルクスは、生産力至上主義と西欧中心主義を捨て去った。エコロジー研究と共同体研究の成果である。経済成長しない共同体社会が、持続可能で、平等な人間と自然の物質代謝を組織する。共同体社会の定常性こそが、資本の力を打ち破ってコミュニズムを打ち立てることを可能にする。
マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済なのである。
第5章 加速主義という現実逃避
左派加速主義とは、経済成長をますます加速させることによって、コミュニズムを実現しようという動きである。加速主義は、持続可能な「成長」を追い求める。資本主義の技術革新の先にあるコミュニズムにおいては、完全に持続可能な経済成長が可能になると主張する。
しかし、このような楽観的観測こそ、晩年マルクスが捨てた生産力至上主義の典型である。左派加速主義は、より多くの資源採掘を必要とし、結果として二酸化炭素量を増大してしまう。環境問題を解決できないのである。
生産力至上主義の危険性を避けるためには、開放的技術と閉鎖的技術を区別し、民主主義的な管理になじまず中央集権的なトップダウン型の政治を要請する後者の誘惑に打ち勝ち、前者による人々が自治管理の能力を発展させることができるようなテクノロジーの可能性をさぐらなければならない。
第6章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
資本主義は豊かさをもたらすのではなく、欠乏を生み出している。コミュニズムはある種の潤沢さを整えていく。資本主義は、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきた。どういうことか。
まず、コモンズとは万人にとっての使用価値である。万人にとって有用で、必要だからこそ、共同体はコモンズの独占的所有を禁止し、協同的な富として管理してきた。
ところが、資本主義社会においては、囲い込みによりコモンズが解体され、人工的に希少性を作り出される。これにより、所有者は利用料を徴収できるようになる。つまり、希少性の増大が、商品としての価値を増やすのである。
このようなコモンズの解体による人工的希少性の創造こそが、本源的蓄積の真髄である。資本主義が続く限り本源的蓄積は継続する。そして、希少性を維持・増大することで資本は利潤をあげていく。換言すれば、使用価値を犠牲にして希少性の増大が私富を増やすのである。
これが、資本主義の不合理さを示す「価値」と「使用価値」の対立なのである。
無限の労働は、大量の商品を生み出す。それゆえ、消費者に無限の消費を促す必要が生じる。その方法の一つがブランド化である。ブランド化は、相対的希少性を作り出すのである。
消費社会における、「満たされない」という希少性の感覚こそが、資本主義の原動力である。だからこそ、人々は一向に幸せになれないのである。
この悪循環を逃れる道こそ、マルクスの脱成長コミュニズムだ。潤沢さを回復するための方法がコモンの再建である。
第7章 脱成長コミュニズムが世界を救う
民主主義を守るためには、単なる再分配にとどまらない「社会主義」が必要であり、生産の場における労働者の自治が不可欠だ。それは、独裁的なソ連と異なり、参加型社会主義において市民の自治と相互扶助の力を養うことで、持続可能な社会へ転換しようとする試みである。
資本を課税によって抑え込もうとすればするほど、国家権力が増大していき、平等性はあるが権力性の強いいわゆる「気候毛沢東主義」に代表される国家社会主義に陥り、脱成長コミュニズムから離れて行ってしまう。
ライフスタイルの次元での帝国的生活様式ではなく、そのような消費を可能にしている帝国的生産様式の超克こそが問題である。つまり、労働の形を変えることが、環境危機を乗り越えるために決定的に重要である。
この構想は、①使用価値経済への転換、②労働時間の短縮、③画一的な分業の廃止、④生産過程の民主化、⑤エッセンシャル・ワークの重視の5点にまとめられる。
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