僕の祈り
26歳の僕には夢がない。
4歳の夏頃だったと思う。
もう今では死んだじいちゃんが僕に言った。
「たっくん。いいかぁ。夢をな、夢を持たんとあかんぞ。」
緑のトランクス。
白くたるんだ腹。
銀色のビール缶。
黄色く濁った目。
赤く熱った頬。
椅子に背を預け、酒臭い息を僕に吐きかけながら、
じいちゃんはそう言った。
今でも瞼に焼き付いている光景だ。
じいちゃんのこの言葉は、呪いとなって僕の心に居座っている。
26歳の僕には夢がない。
=== ✂︎ ===
26歳の僕には夢がないけど、
この20数年間で、
殴り、
殴られ、
転がり、
なんなら今も転がり続けて、
本当になんとなく。
これからの人生はこれに懸けるんだろうな、
と思うものはみつかった。
それは、教育だ。
僕のこれからの人生は、教育と共に生きていく。
夢ではない。
ある種の、確信だ。
=== ✂︎ ===
そもそも教育とはなんなのか。
僕は教育とは、
「目の前の相手の生き様に向き合い続け、相手の幸せを祈り続けること」
だと思う。
この教育の定義は喜多さんが定義するコーチングの定義と非常に近いと思う。
簡単に言うけど、これがしんっっっっっっっっっっっじられないほど難しい。
なぜか。
それは、相手の生き様に向き合うためには、
自分自身の生き様に勇気を持つ必要があるからだ。
教育とは、
自身の生き様と相手の生き様のぶつかりあいである。
それぞれの生き様が
ぶつかりあい、
溶け合い、
混ざり合い、
共鳴する。
これこそが教育のプロセスだと思う。
ある種、ダンスに近いものだと思ってくださるとわかりやすいかもしれない。
これを通して、相手が自身の生き様に勇気をもつ。
これこそが、幸せの形だと思う。
つまり、
善い教育を行うものは自身の生き様に勇気をもつ=幸せである必要がある。
だからこそ、
教育とは難しい。
=== ✂︎ ===
僕が喜多さんのコーチング講座に今参加する理由はなにか。
それは、
今の僕が自分自身の生き様に100%の勇気をもてているとは言えないからだ。
僕は怖いのだ。
自分の醜さ、弱さに目を向けることが。
好きな相手が、自分以外の人間と仲良くしている時。
自分の営業成績が他の人より劣っている時。
自分に対して、ただ純粋に好意を寄せてくれる後輩に性欲を感じた時。
吐き気がする。
自分の嫌な一面を羅列しただけで吐きそうになる。
この弱さを愛せていないこの姿勢こそが、
僕が自身の生き様に勇気をもてていない証拠だろう。
教育とは、生き様のぶつかりあいだとさっき言った。
そして、ぶつかりあいを通して、
相手の生き様を勇気づける=幸せにする
これこそが教育だと言った。
これをできるようにするためには、
自分自身の生き様に勇気をもたなくちゃあかん。
だからこそ、
僕はこの講座を通して、自身の生き様に勇気をもつ。
このような自分になって、
僕は目の前の相手にとって最善の教育を提供できるようになる。
これこそが、僕が今この講座を受ける理由だ。
=== ✂︎ ===
生き様のぶつかりあいを通して、
相手に自身の生き様に対して勇気をもってもらう。
これが僕の教育を提供して、
なってほしい姿だ。
どんな人にこれを提供したいかは、
自身の生き様に100%イエスと言い切れない人だ。
僕も含めて、だいたいの人がそうなんじゃないかな、と思っている。
じゃあ、その結果、どんな世の中になってほしいのか?
僕はみんながそれぞれ、
いのちに誇りをもてる世界になってほしい。
ここでいう「いのち」とは自身のみではない。
他者はもちろん、
木、
草、
川、
海、
動物、
自然界全てのいきもの対してそのように思う。
では、いのちに「誇り」とは?
僕は、誇りとは、
自身がこの世界に存在するという実在を”ありあり”と認識することだと思う。
自身の輪郭をはっきりと認識すること。
自身のみならず、他者やいきものといった自然全ての実在を認識すること。
言い換えると、
「愛する」ということに近いかもしれない。
これをみんなができる世界にしたい。
まだ僕ができてないけど、さ。
=== ✂︎ ===
時々僕は猜疑心に駆られる。
綺麗事を言っているけど、
僕は結局、教育という手段をもって、
相手に貢献することを通して自分が救われたいだけじゃないか、と。
正直にいうと、これはそうだわ。
少なからず今の僕は弱いので、この側面はある。
でも、いいじゃないかと最近は開き直っている。
だって人間は社会的ないきものだ。
誰かと依存し合わなくちゃ生きていけない。
互いに貢献しあって、互いにぽっかりあいた穴に、互いをすっと合わせる。
それでいいじゃないか。
僕はそういう関係もコーチング講座で出会う仲間と築きたいと思っている。
人見知りだから緊張すると思うけど(笑)
=== ✂︎ ===
最後に、
なぜ僕が教育にいのちを賭すと決めたかを書いて終わりにしようと思う。
それは僕が教育によっていのちを救われたからだ。
教育を通して、僕は、
大学時代の後輩、
塾講師時代の生徒、
コーチングのお客様、
前職の同期、
今の上司、
彼らに貢献したと思う。
これらを通して、
僕はいのちに少し誇りが持てた。
自分の生き様に少し勇気をもつことができたのである。
そんな教育を僕はこれからも生き様に勇気をもてない全ての人に提供していく。
願わくは、僕の教育を通して、生き様に勇気をもてた人がまた別の人の生き様を勇気づけて、
そんな連鎖が続いて、
結果として、「いのちに誇りをもてる世界」になってほしい。
そんな祈りで本エッセイを締めたいと思う。