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哲学の本読んで



哲学入門を読んで感じたことと印象に残ったこと2回目の読んででわかったこと
・哲学とはものごとを自分で考える技術である、困ったときや苦しいときに役に立つ、世界の何かであるかを理解する方法ではなく自分がなにであるかを考えるかを了解する技術である
・哲学とは本来ある人間のお自己了解としていきらないと全く無意味な存在である
・カントは人は哲学を学ぶことはできずただ哲学することを学びうるだけという、人は哲学することを学びうるだけで哲学を学ぶことはできないといったわけだが、もっと正確にいうと人はちょうど科学的な学問のように哲学を学ぶこともできるがしかしそのことについては全く意味がない行動である
・現像学の課題は主観と客観の一致が果たしてあるのかいなかという問題、
・ユンクは人間の意識の現在は太古からの集合無意識を抱え込んでいるもの
・フッサールはわたしたちが世界について知っていると思っているのは本当に直接知っているものはごくわずかであり残りの大部分はドグサ推論から成り立つものにすぎない
・青年時代に現れる理想はしばしばヒロイズムや自己劇化を伴うもの、
・ルターは肉体は拘束されず元気で丈夫であり思うままに飲食をし生活をしていてもそれは魂にとってなんと役にたつのであろうか、またその逆に肉体が拘束され病み疲れ好まぬながら飢え悩んでもそれが魂に対してなんの害になるだろうか、
・キルケゴールは死に至る病のなかで無限なもののなかにに落ち込んで自分自身を失う人間の絶望について語っている、人間は誰でも始めは自分のまわりの具体的なものや人を愛するしかしそのうち観念のなかに抽象的な対象を作り上げてこれを愛するようになる自由、芸術、民衆、国家、人類、神といったもの、キルケゴールによればこれは人間が自分の絶対性をつかむために無限なものと自己を一体化しようとする空しい試みである、この無限なものへの落ち込みによって人は自己をますます抽象的なものとし、具体的な生活や人間関係を貧しくするのである、
・現象学は人間の世界象の一切を主観のないよう、意識表象に還元する、自分にとって疑えぬ現実と思っていたものが自分のうちの観念、表象にすぎないと突然に感じられた経験雨音が死のカウントダウンに聞こえるなどといったのが還元という概念の書くを容易に受け入れた
・生活とは自分のロバを絶えず気遣いこれに餌やみずを与え続ける必要なことだ、ここでは人は自分で自分に意味を与えることはできずただ他人の視線によって自分のなにかであるか決定されている、人はだれでも内面のうに他人の知らない本当の自分をひそかに抱いているが生活のリアリティはいつもこの自分のなかのもう一人の自分が無化するのだ、そこでは自分とは単に他人が見たところの何者でもしかなくなる、
・小林秀雄は世界はやがて最後の審判をまつとたとえば人は考えることができるまた人は世界はやがて革命によって理想の社会を実現すると考えることもできる、しかし重要なのはそれらの考えがいずれかが正しいというのではなくそのそれぞれの考えをつかむことによって、彼がなにをもたらせそのなかでどのような生の実質を得るかということである
・どんな認識も指しつづめると主観の内側で生じたものだだとすればこの認識が主観の外の客観現実と一致しているとう証拠を主観はどのように見いだすのか=これが主観と客観の一致といわれデカルト以来ヨーロッパの近代哲学の中心問題だった
・フッサールはまず第一に実は認識と客観の一致と的中というのはありえない、そもそもまず客観的な現実というものはどこにもない、第二にそうである以上完全に正しいという認識というものは存在せずただ妥当という相互的な確信の一致ということがあるだけだ、第三に客観的な現実というものがありえない以上その一致を確かめようとする考え方は背理であり哲学はただ妥当確信成立の一般的条件とその構造を考えることができるだけ、
・感とは人間の認識能力は神のように完全ではなく制約されたものである、だから人間は世界はそれ自体についての正しい認識に達することはありえない、真理は神のみぞ知るものである、こうして人間には世界の真理本質は認識できずただそのあるべき姿を思い描くことができそれを意思することはできるだけだという
・スピノザでは世界の全体は唯一無限にして永遠なる神の存在と一致している、神=世界の存在は無限の属性をもつが人間が認識できるのはそのうちの精神と物質という属性だけだ、人間の知りうる領域はあらかじめ限定されている、
・ヘーゲルは人間の認識は個人史と人類全体を通して徐々に進歩しているもので個々の人間時代の認識は不完全なものでも人間の認識は徐々にに絶対知に近づいている
・フッサールは主観と客観の一致としての真理という図式の代わりに主観の中での妥当という図式を取り入れた、妥当というのは要するにそれぞれの確信の一致相互的な納得ということ
・主観同士の具体的な関係の外側に客観的な真理があってそれが見つけ出されるのではなくほんとうは関係のなかから関係によってつくられる、真理、本当はそれ自体として存在するのではなく、主観の間で妥当納得相互了解の努力によってのみ導かれる、したがって真理、本当の定位は主観と客観の一致という問題ではあく主観の間で妥当を作りうえるかどうかという可能性の問題である、妥当性を作り出す可能性の前提となるのはいきた主観どおしが生の対するポジティブな欲望を持っていることである
・なんらかの真理や信念によって人々や現実を判定裁定するのではなく自分の信念の方を人々や現実によって試すこと、このプロセスにおいてのみ人間の脳裏にすみついている正しさが独我論を抜け出せる、信念や理念的確信はそれ自体としては単に独我論的確信にすぎないがそれは諸主観つまり他の人間の間で試されある妥当を得られるときに始めて真理としての新しい資格をつかみかけるこのとき重要なのはそのような資格をつかむのはその正しさの客観性が証明されたからではなくひとつの信念がこのプロセスの中で人々の考え方を耕し人間同士が相互に納得しうるような道筋をつけたというその事実によってなのである
・考え方の妥当はどれ程ヒューマニズムに聞こえようと確執を避け相互に了解しあって生きようとするポジティブな欲望を前提とする、
・哲学や思想は結局は自分自身を知るための独自の方法である
・ニーチェはこの世は仮象である、したがってある真の世界がある、この世界は制約されているしたがってある無制約的な世界がある、この世界は矛盾に満ちている、したがってある矛盾のない世界があるなどこうした推論をなすような霊感を与えるのは苦悩である、すなわち根本においてはそれはそのような世界があればという願望にすぎない、客観や真理というものはもともと存在しない、たださまざまな解釈があるだけだ、真理を絶対視することはやめて人間がポジティブな欲望を発揮できるよな有用な真理を創出することが必要である、これがニーチェ考えかたである、
・フッサールの妥当という考えかたとは向こうにコップがありそのなかに茶色い液体が入っている、それは一見ウイスキーにも烏龍茶にも見えるが少し濃いめだからコーヒだろうとおもいながらも、もっと近づいてみるといかにもコーヒらしい色合いなのでこれはコーヒだなという確信が湧いてくる、この確信の成立が妥当である、この場合妥当が成立するのは自分の持っているコーヒの経験と現実に知覚している対象との合致による、これは確かになになにであるという妥当の成立は要するに個人の創意的な思い込みとかではなく意識のなかにある一定条件がおのずれたときに自ずと自由を越えてやってくるのである、妥当は客観と主観の一致の確かめではなくあくまで意識の内側の確信の構造として成立しているだけと言える、妥当は相互的な確証を条件とすること
・カントは趣味の原理について正命題、趣味判断は概念に基づくものではないもしそうだとしたた趣味判断は論議させられることになるから、反対命題、趣味判断は概念に基づくものである、さもないと判断が相違するのもおこたらず我我は判断について論争できなくなる、本来美というのは論理によって証明されるものではない、それにも関わわず美がなにかというのは原則的に人々の議論によってしか生じない問題でここに美というものの不思議な性格があるのだ、物事の判断は奇妙な謎を持っておりその謎をどうとくかに美というものの本性を理解するカギがあるというのである、美的判断は主観的なものだ美はあるないやかくあるかくないの判断とは違ってただ感じられるものであるからであるしかしそれにも関わらず美は普遍性を要求する、美は単に私にとって心地よいというものではなく万人にとって快いということを暗に意味するからである
・真理や客観などにはどんな根拠もない
今日おきたことについて話していく、今日は自分に余裕がないせいか障害のある人に対して自分がよい行動をとることができなかった、境界線パーソナリティー障害の人がいて滅茶苦茶にしゃべりまくる人がいて普段の自分ならああこれも障害の一種なんだなと割りきれるところが自分は余裕がなくてすぐその場から逃げ出してしまった自分は相手の意見を尊重しないといけない立場にいるにも関わらず自分はそれをすることはできなかった意識のなかでもつことはできていてもできなかったら意味もない結局他の人を傷つけてしまって自分の自己肯定感が滅茶苦茶に下がってしまい死にたくなった、スタッフの方に話を聞いてもらったのだが余計に自分の怠けといか自分の情けなさがすごくてほんとに申し訳ないと思う、こんな話にも付き合っていただいてほんとに申し訳ないし自分の道徳心のなさからこういう風な行動を起こしてしまったのだから自分で責任をとらないといけないはずだが自分は相手のことを尊重せずに相手に迷惑だけをかけてしまいそれをしっぱなしで外に飛び出たわけで責任能力もなにもないしほんとに無責任な自分はほんとに屑やろうである、自分もまわりに障害を持った人としてみてもらっているわけなんだから最低限に相手にしてもらっていることは返さないといけない、自分は相手を尊重し人生でなにより大事である道徳心をなくしてしまったほんとにダメ人間だから少しでもその道徳心を獲得するためにも頑張らないといけないわけである、また今日は漫画を人のためのもってきたのだがその人が貸してほしいといったから持ってきたのでありそれもやはり自分になにかしらのメリットがあると考えてしまうからダメ人が興味をもっているから貸すのもダメなのか自分はほんとにいやしい人間でほんとは自分は悪魔なのではと思う、他人に期待してはダメ自分の主観で相手をみてしまうとどうしても自分にメリットにあるような考えが生じてしまうから自分しか信用してはダメだ、道徳心というのは常にもべきだが自分はもうダメ人間だわと思う,人に漫画を貸していただいて自分はほんとに自分は相手は嫌な態度をとられたのでもういいやと思うもう自分は相手に対し関わらないでおこうと思う、その人に対しはもう自分はやることはやったからもう関わらないでおこうと思う、自分はもう正直いいやとほんとに思った、すごいいい人だけれど自分を嫌っていたらもうダメよね、自分はもうだめというかあまり関わらないようにしようほんとにね、自分に好意のない人間に対しこれ以上振り回されるのはやめよう、相手に漫画を貸したそれ自体でもう自分のもとから離れた事象であるからそこからどう感じたかはその人の観点であるから自分は深く関わらないようにしたい
・信念の独我論を破る用件ただひとつである、それはつまり自己の信念を他のさまざまな主観のうちに投げ出してその間で妥当と成立させていくプロセスの有無にかかっている、私たちは理論上は物事の認識について客観の成立する根拠などないとかいわんや美醜や善悪の一致にどこにも根拠はないということができる、しかし実際は人が独我論を破り自分の自我を解発させながら自己了解を深めていく過程には必ずそのような妥当の成立が生じている
・自分の認識を絶対化すれば独我論は避けられないし客観的現実だけを信じれば私たちは単なる事実の中で自分自身を失ってしまう、私たちが自分のロマンや理想を生き延べさせる道筋はじつはひとつしかない、他人との間でのの妥当の可能性を探ること、自分のロマンや信念を他人のなかで試しそのことで自我のありようを絶えず刷新させるようなやり方だけなのである、
・哲学とは自己了解のための技術、方法を我々に教えるものであって単に世界についての知を完璧にするものではない
・タレスは世界の原理が何であるかを説明することこれが哲学することというものの原理だったのである、例えば世界は神が7日で作ったという説明は哲学にはならない
・アナクマンドロスは無限なるものと表現した、
・カントは理性の本性は推論の能力でありこの理性の推論の能力とはもうそれ以上進めないところまでいくまでは新しい推論を産み出すようなものだ、神話や物語を支えている想像力であって理性ではない、想像力は例えば神が世界を7日で創ったという象には満足するが理性では神がいつどのように現れたのかを推論する、この果てしない疑問の能力が理性の本性であって理性はしたがって必ずその限界までいきつかないと満足しないのだ、言葉というものは世界の全体や起源を言い尽くせないようにできているからだ、
・哲学者たちはだれも世界の総体を言い尽くそうとして逆に世界をある言葉のなかで限定することしかできない、人間の理性がそのような世界の全体を捉えたいという欲求を本来持っていることのひとつの現れでもある、哲学が世界についての統一見解をみいださないことでこれを無意味なものとして考える必要はない、哲学はこのように、すでにできあがった哲学の言葉をひとつの踏み台として新しい論理の言葉を積み重ねるという仕方でしか生き続けることはできないがまさしくそのなかで人間の徹底的で優れた思考というものの原型を私たちに直感させるのだ、それぞれの学説をある真理を知るために覚えようとするのではなくそういった哲学的直感を深く育て上げるために哲学を読めばいい、
・ピタゴラスは万物の原理は数という主張
・ラクレイトスは闇の人と呼ばれ誰も同じ川に入ることはできないという言い方でこれを表現した、言葉によってものごとを説明するときに必ずaはbであるという述語方式を必要とする、これはa=bという等価的なものあるいは同一的なものの規定だ、しかしものごとを詳しく考えれば考えるほどにこれは同じものだという同一性の規定は難しくなることがわかる、細かくみれば、同じ川というのは存在しない、同じ山や人間というのも確定することはできない、同じとか同一性とはどのように考えればいいのかという問いが生まれてくる、
・ゼノンはパラドックスを創ったことで有名
・パルメニデスはそもそもあるということはどういうことなのかを考えようとした、有は有るが無は有らぬだから有ることは有らぬということは有ると無を同一レベルで考えてはいけない、必要なのはただあるもののみ有る、といいかつ考えることである、
・エンペドリクスとアナクサゴラスは世界の構造とその動因を二元的に考えた点でエンペの方は万物の原理として火、空気、水、土の四元素をときその他にも愛と争いと二因を考えたことで知られている、アナクサの方は世界の変化の原因としてヌース精神なるものを想定した哲学者
・哲学やしそうはいつでもある哲学者の世界に対する総体的な直感から生じているのだから哲学や思想えお読むにはいつも方向を逆ににふたつの読み方があることをこころえていたほうがいい、ひとつは学としての読み方でこれは学説と学説を結びつけ哲学を世界に関する言説の総体として完成させていくような読み方で、もうひとつは逆にある学説から余計な飾りを抜き取りその哲学の直感だけを抜き出すという考え方、
・デモクリトスは現在の物理学の常識にもっとも近い原子論の主張者、人間にとって最善のことは人生のできる限りで楽しみ、できるだけ少しの苦しみで送ることであるまた人間の目的は愉快である、だがそれはいわゆる快楽というのではなく恐怖や迷信によってこころがかき乱されず、魂が平安であること、そういう状態を作り出すことに人生んじょ目的がある、さまざまな物欲に悩まされることなく自分の現在に満足せよ、惨めな人々の生活を観察して彼らの苦しみをよく考えるがいい、そのことはいっそう多くを望んで他人を羨んだりして嫉妬したりしないために必要なことだ、知恵こそが幸福の条件である、不正などしないことではなく、それを欲しさえしなければいいことが大事で他の人々に対してではなく自分自身に恥じることを学べ、よいこと、悪いことも関して自分自身に対してはばかり、このようなことが魂に対する法律と定められるようにせよという
・ソクラテスは知恵と論理によって死の恐怖を克服した最初の人間になった、知恵と論理万能主義の元祖となった
・ニーチェは世界を秩序付けている根本はむしろ人間の心という原則だと考えたほうがいいという、世界はそれ自体としての秩序を持っているのではなく心という原理がその秩序を作るという、何が最善であり最上かということ以外には人間にとって探求することに値するものは何一つないという、水とか空気とかいったものはそれがなければ原因が原因たりえないものにすぎず万物の秩序づけの真の原因は人間のヌース精神だと考えることが適切、秩序づけているのは人間の精神のほうでだとすればそれ自体として私たちが探求するのに値するのは精神の秩序のほうとなる
・ソクラテスは哲学者の認識論的な伝統は無駄といい世界はいかにあるべきかというのを根っこで支えていたのは精神の秩序ということになる、汝自身を知れというのはこのことからである
・アリストテレスは形相因、質量因、始原因、目的因、これがよく知られたアリストテレスの四因
・ニーチェの体系にはすべてのこころある学究の徒の決めた言葉の用法や概念の分類のきちんと守れば学説の混乱や対立など生じず真理はすべて明らかになるはずだという考えかたがにじみ出ている
・プラトンのイデア説は猫という言葉がある、この言葉は現実にいるさまざまな具体的な猫を想像する、猫とい
う言葉はいわばさまざまな猫の共通本質をそのうちに含んでいるだけだ、このときふつうは個々の具な猫が実在
するものであり猫という言葉の本質は私たちの頭のなかにだけあるもので現実に存在しているものではないと
言えるだろう、ところがひとこというとソクラテスとプラトンのイデア精神的な考え方は猫のイデア本質が真実
在であり個々の具体的な猫はそれに預かっているにすぎない仮象だということになる
・つまり美そのもの愛そのものとかよいことそのものといったものを人間は生来知っていたりなにか事柄に触れたときにそれを想起するものだと考えることができる、だとすると美そのもの愛そのもの善そのものが人間世界を離れたときに永遠不変のかたちで存在しているという考えるほかにない
・ソクラテスのイデア説の理論的に要約すると、自然の客観秩序という考え方の拒否、秩序づけの根本は精神のせいとくの能力の求められること、それは結局真善美の問題に帰着すること
・正義とは魂の徳が優れている人であり不正とは魂の悪徳劣っていることだ、そうソクラテスは論正してみせたのだがここでグランテスの指輪という物語の疑問を投げ出す、ある日に自分の姿を隠して相手をおもいのままに操れて消してしまう能力を持っている人は不正をしないのかこのような不正をすることで自分を幸せ与えてくれるんだからこれを咎めることはできようか、このような状態を考えてみると人間にとって正しいことは自分にとってよいこと幸福とはそもそも重なり合わないのようにみえる、人間はただ他人や神の目があるから正しいことを行うだけでそれがなければ自分にとってよいことだけを追求する、つまり不正を行うような存在ではないだろうかと、正義とはいわば私にとってよいことではなくみんなにとってよいことだ,
・真善美だけを求める存在ではないがもしそれを求める根拠を奪われると生そのものの意欲を失い、ニヒリズムやスヌシズムに落ち込んでしまう状態なのかもしれない、
・デカルトとエスピノサは哲学者の出発点としての我考える故に我ありという定式の発見、神の合理的な存在証明、精神と延長という二元論の確立というのがあるる
・懐疑論は自分である、なにがなんでも疑ってしまうし自分は疑ってしまうそれが正解というのがないとしてもそれを求めてしまうというかほんとにだめ人間というか、これを疑う能力を最大力に行使したのがコギト考える我なのだ、目の前にいしころは存在する、常識に当たり前のことだが懐疑派が現れるとそれがほんとに存在するか誰にも言えないなどとちょっと生意気に考えてしまう
・主観と客観の一致という問題が関わっている、いまの目の前でなんでもいいが例えばコップがある、私はこのコップを見ている、しかしこれをよく考えると奇妙な問題が生じる、私が今見ているコップは私の視覚を通して自分のなかに入ってきたコップの象である、ところでこの私がみているコップの象とこのコップそれ自体は果たしてまったく同じものと言えるだろうか、この疑問が哲学上主観と客観の難問と言われるものだ、青いめがねを見ると赤いリンゴも青くみえる、人間の視覚あるいは認識も完全なものであるという保証はどこにもないすると人間の認識があるがままの現実客観と一致しているという保証もないのである、言い換えると人間の認識能力が完全なるものだという保証は誰にもできない、こうした議論は主として懐疑論からでてきたものだが一見奇妙なこの問題もそれに反論しようとすると論理上は決して反論できない
・デカルトは人間の主観と客観が原理上は一致しないという懐疑論の主張は一旦認めるが、人間が疑いの能力を極限まで行使すると必ずそういうことになるのだ、この難問を神は存在するという証明によって解決したことになるのだ、神は欺かない、我々は人間に与えられた認識能力と客観との一致を信じていいのだ
・精神と身体の二元生をどう考えているかとはスピノザの主張では、唯一の実体は神である神は完全かつ無限かつ永遠なる唯一の実体でこの世の一切のものはこの唯一の実体たる神からの変容体にすぎない、精神と物質は神と唯一の実体から現れたふたつの属性にすぎない、だから精神と物質はもともとひとつのものの二面的現れである、世界の一切は神というじったいのもつ論理の必然に従っている、だから自由というものはない、自由は大きな必然のすべてを人間が認識できないことからくる感覚にすぎない、与えられた特定の原因からは必然的に結果が生じるしその逆もなるたつ、なんらかの結果がある以上なんらかの原因があるなど記してある、一個のりんごがある

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